第14話 被災地という幻想

 私の産まれるまえにすごい地震があったんだって。というのは授業でならったことで、当時の様子はYouTubeをタップすれば、あかるい広告をコントラストに、物々しいニュースも津波に追われる町並みも水素爆発で吹っ飛ぶ建屋も荒れ地によこたわる痩せぎすの乳牛も、観られるけど、原発の事故というのはなんだったのか、いまは全国各地ふつうに原発が動いて、えぐい燃料高にともなう電気料金の上限撤廃と、脱カーボンにより地球温暖化防止と持続可能な社会をめざす世界的な潮流のなか、反原発の旗印はだらしないシャツをしまうみたく気まずそうに引っ込み、土地はおろかひとの心までぜんぶ片付いちゃったあとというか、そもそも地震の名前があらわすとおり報道なんて東京が中心だから、こっちはいまだに四十六分といえば朝五時を指すといったていで、実感をもちにくい。津波の被害もすごかったらしいけど、レポートを書くため視聴覚室のパソコンで調べても、ウェブサイトによって死者の数も行方不明者の数もちがうことに首をひねり、災害関連死というのはなんなのか、水蒸気爆発とかフレコンバックとか間違って書いてあることも多いし、当時のリアリティをわかること自体、いまとなってはすごくむずかしいという。授業を終えるとき、かならず教師は教科書の棒読みで「防災」と口にした。過去の災害にまなび、将来おとずれるかもしれない災害にそなえるべき、という考えは、私も本棚のしたに転倒防止ストッパーを敷いたり外廊下の防災倉庫に賞味期限を気にしつつローリングストックを置いてるから、わかる。理屈ではだ。でも、うちの町には海なんてないし、ひとつ有名な断層があるだけで、ずいぶんふるいそれが仮に直下型で揺れたとしても、あんまり被害はたいしたことないって、Wikipediaでもわかるぐらい過去のデータは饒舌だ。ああ、でも、北に原発があったか。たしかにもし原発が爆発すれば、水源となっているおおきな湖が放射能に汚染され、この町には住めなくなるかもしれないって、聞いたことがある。でもそれこそ、あの大震災でも、揺れ自体では原発が壊れることはなかったって、反原発派の「いや、揺れでも壊れてた」という反論もふくめ、知ってる。いいとこのお嬢様だってまがったキュウリの使いみちをしってるこのご時世、ぜんぶをぜんぶ信じるぐらいピュアじゃないけど、いちおうの公式発表によれば、爆発というか、メルトダウンの原因になったのは津波による炉心を冷やす電源の喪失だったはずで、町の北方の原発がのぞむのは日本海だから、津波の威力は水の総量とマグニチュードで指数関数的に増すぶん、減衰もおなじ計算式で、太平洋のそれより来るのがはやい点を考慮する必要はあるけれど、再発防止で原発が対策されていればなおさら、地震でおなじような被害が出ることは考えにくいはずだ。ということを教えてくれたのは、ガンジーだった。ニュースはおろかテレビも日本シリーズの最終戦しか観ないのに(でもテレビをメルカリに出そうとしたら怒られた)、ヨウ素は甲状腺に取りこまれやすく半減期は短いからはやく安定ヨウ素剤を飲まないといけないとか、ストロンチウムはカルシウムに似て骨に取りこまれやすいが揮発性が低く飛散しにくいとか、やたらくわしかったな、と思いながら、夕食を外で摂るぐらいおそい残業のときは「浮気かな?」とテレサに話して叱られつつわくわくしたくせ(ちなみに浮気どころか財布から盗み見たレシートによればただのスシローで、いちばん安い皿ばっか)、彼が原発について語るらしくない口調を訝しんだりもしなかったけれど、そういえば、あの原発で汚染された町に、未来とか、お母さんが暮らしてることを思い出した。私のほんとうの家族のことをガンジーは彼の穴の開いた靴下ぐらいあけすけに話してくれたけれど、木を隠すなら森に隠すといったぐあいに、ほんとうのことを隠してる気がする。私がこの町にもらわれてきた、ほんとうの理由。たとえば……お母さんはお腹を痛めて産んだほんとうの子である私だけ逃がすため、この町にあずけたんじゃないか、とか、理屈でいえばぜんぜんおかしいのに、下半身がくつくつ熱くなって、へんな汗がでたり、おなかがいたくなったり。トイレの便座に腰かけて足元に花柄のパンティを丸めたまま、外から扉をドラムソロみたく叩いてくるガンジーにはだんまりで、鍵アカでフォローしてる未来のSNSをひらく。推し活でつかってる私のメインアカともフォロワーの数が桁違いで、投稿のいくつかは、廃炉とか、被災地の現状をつたえ、私のオタクっぽいポストよりずっと多い「いいね!」をもらっていた。いまどき、被災地なんてあるんだろうか。bioにめだつその文言にむしゃくしゃする、くせ、そこで暮らしてるお母さんのことを思いやる。たとえば、ほんとうにありえないことだけれど、お母さんがもし、私の助けを必要としてるとしたら。お母さんにもし、「いっしょに行こうよ」と言うことができれば、いまも打ち捨てられた町でくらすお母さんにとって、どれだけこころづよいことだろう。そしてそれは、原発を止めるよりよっぽど、不可能ではないはずだ。スマホであの町までの行き方をしらべてみた。JRの駅から新幹線にのれば、東京あたりで特急にのりつぎ、半日もかからない。費用だってあっちは宿も安いから、通帳アプリの数字をたしかめればぜんぜんたよりある。未来じゃない。現実のことを考える。私はあの子に、ほんとうのことを突きつけたい。未来のSNSをみていると、不倫をしてる子のじまんげな愚痴を聞いてるときみたく、いらいらする。その理由は、きっとあの子がお母さんを奪ったから、とか、そんな表面的な問題じゃなく、もっと根源的なもの。だってほんとうに「被災地」がつらいなら、そこから離れればいいじゃない? ちがう、あの子は、あの場所に居つづけたいため、つらいふりをしているだけだ。震災のこどおじ、被災地のパラサイトなのだ。そう思えば、沸点にたっした怒りは、どかんと天井がぬけたかのように、おちつき、よだれみたいなウォシュレットを区切りに、トイレを出て(ズボンをはんぶんぬいだガンジーがペディグリーチャムに食いつく犬みたいな勢いで入っていった)テレサが定期おトク便で箱買いした強炭酸水がたかく積まれた廊下にねころがる。つめたくてきもちいい。まるい膝を三角にたてて、呼吸をととのえ、伸ばした手の指でつくったいにしえの視力検査みたいなわっかのむこう、人感センサーのやさしいライトがゆるやかにフェイドアウトすれば、私が間違っているかもしれない、という、たしなみはあった。誰にたずねれば教えてもらえるだろう。ネコメロに訊けば、夏至子がただしいというだろう。トンガリに訊けば、ただしさを探すこと自体まちがってるというだろう。ガンジーに訊いても、わかってもらえないと思う。この海のない町で、いつだったか、遠出した名もしらない海のまっしろい砂浜で山にトンネルを掘ったとき、反対側からさぐれば道がつうじたように、そういうふうに、私と接してくれたひと。未来でも現実でもない、幻想を知るひとだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る