愛縄
アップルベル
愛縄
毎日連絡を取った。時間があれば電話もかけたし、好きだと伝えるのも決して忘れなかった。
それなのに、どうして彼女は、僕と目を合わせてくれなくなったのだろう。
「明日、久しぶりに休みが取れたんだ」
隣でスマホを眺める彼女に、そっと伝える。
恐る恐る手を伸ばし、長い睫毛に触れようとしたところで、彼女は寝返りを打った。狭い布団の上で、彼女の甘い香りが軽やかに舞う。
「そう」彼女は、尚も液晶から目を反らさず、短い言葉を吐いた。
「だから……どこかへ遊びに行かないか」
ただ恋人をデートに誘うだけ。初めてでも何でもない行為なのに、僕の口内が乾きを訴えてくる。
「時間があれば」
僕が布団から立ち上がっても、彼女は相変わらず、青く発光する薄い板を操作していた。
こんな日に限って、仕事は手間取る。
昼前からのデスクワークが完全に片付いたのは、彼女と約束した「明日」の午前二時過ぎだった。終電は、とっくに出てしまっている。仕方なく自転車を走らせた。
鈍い色にくすんだアパートの、小さな一室に人気はない。どうやら、彼女はここへ帰らなかったようだ。それに気づいた途端、僕はまだメールを確かめていないことに思い至った。
『今夜はそっちには帰らない』
彼女からの文面は絵文字もスタンプもない、あっさりとしたものだった。
僕が心の底から相手に求めるのは、決してこれ以上ではないはずだ。それなのに、胸の奥に感じる正体不明の質量が、静かに増していく。
『わかった』
文字を柴犬のスタンプに変換して、送信した。
そうしてやっと、焦る自分がいたことを知った。無意識に全速力で帰宅していたらしい。春が終わったとはいえ、まだ深夜は涼しい。それなのに、汗がこめかみを流れ、息も微かに荒くなっていた。
電気は付けないまま、窓を開けて風を待つ。網戸越しに見える景色はいつもと変わらず、コンクリートで固められた巨大な箱たちが、僕を見下ろすだけだった。それらから反らした視線を、何気なく地上に向ける。すると、そう遠くない距離に、人工的な光を映すアスファルトが見えた。瞬間、僅かに入り込んだ、大して冷たくもない風が、不思議と心地良く感じた。
しばらくの間、僕はただ四階の自室から、地面を見つめていた。けれど、ふっと彼女との予定が脳裏に浮かび、僕を釣り上げてくれた。そうしてやっと台所へ向かい、水を汲む。その冷たさで、疲労を溶かした。
身体を洗って、さっさと寝よう。明日はせっかくのデートなのだから。
僕は、これまでに三人の女性と付き合ってきた。その彼女たちは皆、人に対して執着しない、僕のような性格をしていた——ように、見えた。
連絡は最低限でも、仕事帰りに同僚たちと夜遅くまで飲みに行っても、煩くは言われない。それに、僕も言わない。互いに忙しいことは承知していたから。
何より、逐一連絡を気にしなくても、友人を優先することがあっても、そんなことで縁が切れると思っていなかった。帰宅すれば話す時間は作れるし、愛したいときに愛し合えば良い。
彼女も、そう考えているのだと思っていた。けれど、数カ月経つと、何故返信してくれないのか、何故こんなに一緒にいる時間が少ないのか、と問われた。
初めてそう言われたときは、眉を顰めて正直に応えるしかなかった。
「貴方は、私のことが本気で好きじゃなかったのね」
そう、泣き叫ばれるのだとは知らずに。
本当に彼女のことが好きでなかったのなら、この辛さも嘘なのだろうか。何度も何度も言い争ったあげく、別れの言葉と共に一人取り残される悲しさが。
僕も彼女も勘違いをしていたんだ。自分の理想を介して覗く現実は、好きな人と繋がった新鮮さと共に薄れていく。代わりに、クリアな事実だけが突き付けられるのだ。だから、長い時間を経て、その差に失望していくのも仕方がないのだ、と言い聞かせながら、僕は再び同じ過ちを繰り返していった。
ならばいっそ、恋人という関係を持たなければいい。そんな簡単なこともできない僕は、今もこうして、彼女から告げられる終わりを待っていた。
美味しいと評判のカフェで、待ち合わせをした。そこの看板メニューがとても可愛らしくて、気に入ってくれそうだったから。
僕自身も、彼女がよく似合うと言ってくれた服で着飾った。
メッセージ通り窓際の席へ向かうと、彼女はもう腰掛けていた。
「ごめん、待たせたかな」
「大丈夫、私も来たところ」
「何か頼——」
「その前に、大事な話をしてもいい?」
ぞわ、と背を駆け巡ったのが、店内の冷えた風でないのは確かだと思った。
「うん、何かな」
僕は、努めて穏やかな笑顔を作った。けれど、頬と声が引きつったように震えるのは、どうしようもなかった。
「別れよう、陽介」
彼女の薄い桃色の唇が、そんな風に動いた。
「私と陽介の間に、気持ちの差があるような気がしていたの。最初は私も浮かれていたから、毎日かかってくる電話が嬉しかった。こまめな連絡も、愛されてるんだってすごく実感させられて。でも、だんだん煩わしくなっちゃった」
と言っても、それは陽介の優しさでもあるだろうから。ただ私たちは、合わなかっただけ。だから、別れよう。
こんな時だけ律儀な彼女は、真っ直ぐな視線を向けながら告げていく。そこには、揺るぎない決心があって、僕はただ頷くことしかできなかった。こうやって、真摯な眼差しを受けるのはいつぶりだったのだろうと思いながら。
一、二度謝った後、彼女は伝票を持って立ち上がった。ふとテーブルを見ると、小さなグラスが置かれてあった。結露してびっしょり濡れたガラスの中には、少しだけ氷が残っている。
ああ、そういえば今日は暑かったな。
なんてことを思っていたら、彼女はもう、姿を消してしまっていた。
僕も帰ろうと出口へ向かう途中、店員が馬鹿みたいに飾りつけられたアイスクリームを運ぶのが見えた。こんな、気分が悪くなるほど場違いな所へ来た理由が思い出せない僕も、また馬鹿みたいだと思った。
強すぎる日差しから、逃げるようにして開けたドアの先には、変わらず暑苦しい部屋があるだけだった。
また一人になってしまった。
落胆しながら、錆び付いた窓をこじ開ける。入り込んでくるのは、切望した爽やかな風ではなく、どろりと重く生ぬるい空気だった。
『好きじゃなかったんでしょう』
『貴方は冷たい』
『私は好きだったのに』
『煩わしくなっちゃった』
本当に好きだったのに、真面目に愛すると足りない、と言われる。
本当に好きだったから、偽りの愛を向ければ煩わしい、と言われる。
一体、どうしろと言うのだろうか。
僕が吐き出すため息は、眼下に広がるアスファルトへと吸い込まれていく。数時間前にも眺めていたはずのそれは、妙に鮮やかな黒をしていた。
今の僕なら、どうしてこんなにも「それ」に心地良さを感じるのか、理解できる。のっぺりと、美しいほどに整備された場所。
そこには、彼女の影も匂いも失われた部屋から見下ろした今、最も強い憧れが用意されていた。
抗う意味など、どこにも浮かばなかった。
気づけば、僕の身体はとても軽くなっていて。空も飛んでいるような、そんな気がした。
愛縄 アップルベル @applebell
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