第5話 最果ての水底
この世界の道は、当然アスファルトなどで塗装されていない。ガタガタと石畳の上を揺れながら馬車は進むこととなる。しかし、椅子や背もたれは無駄にふかふかと心地が良く、対面にゼナイが座っているのにも関わらず、ライカはうっかり眠りこけてしまった。ロウザが懸念していた道のりも、優秀なシルヴィス家の御者の力量で短縮されたようだ。
「着いたぞ」
低い声で目を覚ますと、窓からラカート離宮が見えていた。かつて王が巡回して各地を支配していた時代、拠点の一つとして使われていた宮殿である。今、この宮殿と付近の領地を任されているのが第二王子・ネイゼンだった。
「ちっ」
その王子は二人に会うなり舌打ちをした。長い黒髪は陽の光を反射してキラキラと輝き、頭部に天使の輪が浮かんでいる。これが〝黒曜の王子〟と呼ばれる由縁だ。
「おいおい、怪我人が遠くから来てやったんだ。それはないだろう」
ゼナイは呆れた声で嗜めた。ネイゼンと彼は同い歳で、幼い頃から親交があり、友人という設定だった。少し砕けたやり取りでも咎められないのだろう。
「記憶がないのは本当か?」
第二王子・ネイゼンは、挨拶も飛ばして憮然と尋ねた。氷柱のような視線に晒されて、ライカは身を竦めた。
「はい。大変申し訳ないのですが...事件――事故の事も覚えては……」
「来たからには思い出せ」
そうそう、とライカは一人で納得した。ネイゼンはこういうキャラクターであったと。
――無茶を言う。
例え中身がライカネル本人であったとしても、記憶を失くした人間の努力で成し遂げられることではないのだ。
「行くぞ」
不機嫌な表情を張り付けたネイゼンによって連れて行かれたのは、宴の会場であった庭園から続く細い小道だった。生誕祭の夜、ライカネルは会場から抜け出すと、一人でふらふらとこの道を歩いたと考えられている。晴れた夜とはいえ、電灯などないこの道では心細くなかったのだろうか。
「何か思い出せそうか?」
「うーん……」
ゼナイの言葉にライカは少し考えた。この王国の人間ではない彼女が、この道を通った記憶などあるはずもなかった。だが、本当に心当たりがないかと言えば嘘になるような気がしたのだ。
――ライカネルの体が覚えているのかな。
夢で見た景色を辿るような、奇妙な気持ちに包まれる。
「この先は……」
ネイゼンは足を止めると人差し指をピンと伸ばす。細く長いその指の向こうには、きらきらと何かが輝いていた。
「湖だ。――〝最果ての水底〟と言えば思い出せるか?」
急に開けた視界の先には、大きな湖が広がっていた。風で水面が揺らされる度に、日の光を反射してきらきらと輝いていたのだ。
「〝最果ての水底〟?」
ライカは惚けたが、実はその名前には聞き覚えがあった。小説の中で描いた湖だったからだ。
この湖のほとりでネイゼンと小説の主人公・カティスが出会うのだ。
「身を投げても浮かばない底なしの湖だ」
その場面と同じセリフをネイゼンは口にした。
ライカははっと息を飲む。掬った水はよく澄んでいた。しかし、広がる湖はその底が全く見えなかったのだ。
「死体を隠すには調度良い」
続く言葉にライカは戦慄した。カティスには聞かせられないセリフだ。水面に揺れる自分の表情が、別の意味で歪んでいる。
空気を変えるようにゼナイが尋ねた。
「伝承だと湖の先は別の世界と繋がっているんだったよな?」
「馬鹿馬鹿しい」
ネイゼンはふんと鼻を鳴らした。知ってはいたが、やはり彼は伝承など真に受けないタイプのようだ。
「あの世を別の世界と言うのなら間違いはないがな」
もしかして、とライカは考えた。この底なしの湖が本当に別の世界と繋がっていたのなら、と。
――ライカネルはこの湖に落ちた。
だから、その時に自分と入れ替わったのではないか、と。
湖はどこか普通とは違って見える。その理由は単純に綺麗だからというわけではない。自分を拒絶しそうな、あるいは受け入れてくれそうな相反する気持ちを抱かせるのだ。
――もう一度、ここに落ちれば戻れるかな?
ゼナイとネイゼンはライカの後ろで何かを話し込んでいる。蚊帳の外に置かれている今がチャンスとみた。
――その方がいいよね?
ライカはセイランとロウザの顔を思い浮かべた。記憶を失くした娘にも優しく接する二人のことを。
少し躊躇った後、息を止め、ライカは静かに深い湖に飛び込んだ。
――冷たい……。
湖は氷の塊の中にでも入ったかのように冷たく、服の上からでもその威力を存分に奮った。
全てを受け入れてくれるような包容力を感じたのは気のせいだったらしい。湖は全力でライカを拒絶していた。
薄らと開けた目に映るのは、ただの暗闇だった。別の世界に繋がっているなどとはとても思えなかった。
――このままじゃ、本当にあの世に繋がってしまう……。
ライカは浮上しようと手足を動かしたが、鉛のように重くなった服が邪魔をし、どんどん湖底へと引っ張り込まれた。
――息ができない……。
口に残っていたわずかな空気も、ふとした拍子に口の端から漏れていく。
もはや目が汚れることを気にしている余裕もない。全力で見開いたが、それでもぼんやりとしか湖の様子を映さなかった。
その判然としない視界に、何か赤い物が揺れていた。それは段々とライカに近付くと、包み込むように彼女の体に触れた。
痛いくらいの力で、ライカの体は湖面へと引っ張り上げられた。急に呼吸ができるようになり、ライカはげほげほと咽せるように息を吐いた。
赤い物の正体はゼナイの髪だった。湖に飛び込んだライカを彼が助けてくれたのだ。今もまだ、再び溺れないようにライカの体を支えている。
「馬鹿者が!」
陸の方からネイゼンの怒声が降り注ぐ。怖そうな彼をわざわざ怒らせる人物などあまりいないため、実はそうそう怒らないという設定があったことをライカは突然思い出した。
「さっさと上がれ!」
ネイゼンの腕がライカを掴むと、外見に見合わない力で体が陸へと引き上げられた。ずぶ濡れの体は荒い呼吸に合わせて上下に揺れる。
「大丈夫か?」
同じくずぶ濡れになったゼナイは、ライカと違って呼吸は乱れておらず、一人軽々と陸地に着いた。
「とりあえずこれを……」
ゼナイは湖に入る前に上着を脱いでいたようだ。その冷静さに感心する余裕もないライカに、彼は乾いた上着を被せた。
「貴様は何をやっているのだ」
すでに生命の危機を脱していることを確認すると、ネイゼンは怒りを収め、声音は元の冷ややかなものへと戻っていた。
「えっと……その……」
ライカは少し考えた。元の世界に帰れるかも、などとはとても言えない。
「――落ちちゃいました……」
顔には半笑いが浮かんでいる。ただのドジで済ませよう、とライカは幼稚に振る舞った。
「帰れ」
ネイゼンはくるりと背を向け、濡れぼそった二人をその場に置き去りにしようとした。
「待て。気持ちはわかるが待ってくれ」
ゼナイが慌てて引き止める。このまま濡れた状態でライカを放っておくと体に障ることは明白だったからだ。
その後、ゼナイがネイゼンを説得してくれたおかげで、ライカは体と服を乾かすことができた。あまりにもネイゼンが怒っていたせいで、侍女が手配されなかったのは逆に助かってしまった。
服を乾かすためにいくらか時間を無駄にしたが、屋敷には想定していた時分に戻ることができた。しかし、セイランはすでに帰っており、ゼナイはにこやかな笑顔で屋敷から追い払われた。
ライカは有無も言わせずベッドに寝かされ、しばらくは部屋を出ることも許されなかった。
ロウザの頬が真っ赤に腫れていたことには、最後まで言及できなかった。
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