毒針
松本玲佳
毒針
枕カバーとシーツを洗濯するために起き上がる。するとベッドの隅から小さな蜂が飛び出してきたと思いきや、右腕に鋭い痛みを感じた。すぐさま部屋から逃げて、洗面所に入りドアを閉め、爪で傷口周辺を圧迫し、毒液をしぼり出す。亡き祖母に教わった通り、毒は水に溶けやすいので、傷口を手で揉みながら流水にさらす。痛みはまだ続いているが時の経過と共に幾分マシになってきた。小さな蜂で良かったと、ほっと胸を撫で下ろす。それにしても蜂はなぜ人を刺すのだろうか。私は書斎に入り、隅にある塔のような本棚から昆虫図鑑を手に取り、表紙の埃を丁寧に払って中を覗き込んだ。
「なるほど、そうだったのね」
種類までは分からないが、さっきのような小さな蜂は、攻撃性はさほど高くなく、黒いものや動きのあるものを敵だと判断し、護身のために刺すらしい。思わず笑みが零れる。警戒心ばかり人一倍強い私にそっくりだったからだ。しかし、私は身体に毒針など持たず、せいぜい毒舌で相手を打ち負かすことぐらいしかできない。腕力ではどうやったって男性には勝てるわけがなかった。それが故に、この治安の悪い都会の片隅に棲んでいると、いざという時のための銃やスタンガンの類も必要になってくる。それらを持っていたら私も蜂のように強く生きられると
ひとり暮らしにもずいぶんと慣れてはきたが、両親が戦争で殺されて、赤子のように泣きじゃくった日々が記憶に新しい。それから私はこの家で祖母に育てられた。しかし、大好きだった祖母も一昨年の暮れに心不全で天国に旅立ってしまった。もしも、この世から完全に愛という概念が消えたなら、戦争などによって人類は滅びるだろう。もしも、武力行使をして自分たちを守るならば、それはスズメバチの毒針にあたる。それが本当にいいことなのかどうかは分からない。「目には目を歯には歯を」では世界は救われるどころか終焉に向かっていくだろうから。
ふと窓の方に目をやると、風が白く流れ、まるで冬が顔を出す準備をしているようだった。色彩はとても鮮やかで、ぼんやりと眺めていると心が癒されてゆく。だが、これほど穏やかで美しい季節にも、思い合わせれば、
陽が落ちてくると同時に、さっき刺された腕の痛みが疼き出した。そろそろ寝る時間、と思ったがあの部屋では蜂が飛び回っているはずだ。恐怖で頭がどうかしてしまいそうだ。今夜は書斎に眠るしかないかもしれない。うとうとしてきたと同時にひんやりとした空気が纏わりついてきた。この書斎には暖房の類を設置していないため、夜を明かすのはいささか危ない。風邪でも引いたら本末転倒である。
私は図鑑を持って部屋に戻る。これはいざというときの武力、いわば私にとっての毒針だ。廊下をゆっくりと歩き、部屋に近づけば近づくほど額から緊張の汗が流れ出る。幽霊屋敷に入るよりも遥かに怖かった。
ようやく部屋の前に着いた。ドアノブに右手をかけて夜の静寂より静かに回す。そこから数センチ、ドアを開けて恐る恐る部屋を覗き込んだ。照明はついたままだが、さっきの蜂は一切見当たらない。私は腹を括り、思いっ切りドアを全開にする。戦う準備は万全だ。本当は気が気ではないのだが、何とか平常心を保ちつつ、他人の家に侵入するよう
シーツの上に小さなゴミのようなものが見える。「何かしら?」と首を傾げ、至近距離から眺めてみるとさっきの蜂だった。私は悲鳴をあげて両手に抱えた図鑑で叩きつけようとした。しかし、よくよく見ると蜂は仰向けになって、ぴくりとも動かない死骸となっていた。図鑑を捲ると、種類はミツバチであることが分かった。更に、「ミツバチの毒針は先端に〈かえし〉がついているので一度刺したら抜けない構造になっている。刺した針は腹部の末端もろとも敵の体に残るため蜂はすぐに死んでしまう」とあった。
不意に知らない感情が押し寄せてきた。孤独にはとっくに慣れてきたはずなのに——
「ごめんね。私はもう痛くないよ」そう囁きかけたとき、大粒の涙があふれてきた。
毒針 松本玲佳 @reika_fumizuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます