第3話


「ひさしぶり」


 俺が名前を呼んですぐ、彼女は一寸の淀みもない声でそう呟いた。

 

 それと同時に俺は本当にここで生きているのかと疑った。

 これは何か夢なのか、と。そう思った。


 しかし、何度頬を抓っても痛みは延々と続き、これが本当に現実なのではないかと言う実感が芽生えてくる。


春斗はるくんっ……」


 艶のある腰まで伸びる黒髪は肩までで抑えられた栗色マロンブラウンになり、

 丸眼鏡をしていたはずの目元は小奇麗に化粧が施されていて、とても垢ぬけているようにも感じる。


 しかし。


 雪のように白い肌に、

 こちらを見つめる海色オーシャンブルーの瞳、

 そして昔から大きかった胸は今も主張が激しく健在で、

 その視線の高さも違わず、顔一つ分下から見上げるように、あの頃と変わらずにこちらを見つめている。


 垢抜けつつも、印象深いところは一緒。

 名前を呼ぶその声色も、響きも懐かしく……。


 コンビニの制服を着た彼女はまさに、五十嵐和奏いがらしわかな

 その人だった。


和奏わかな……っ」


 息を呑む。

 名前を呼んで、そして喉が固まる。

 そんな俺の方をあの頃とはどこか変わった雰囲気の彼女が見つめる。


 周りの世界は当たり前かのように続き、お客さんが入ったり、そして出て行ったりを繰り返しつつ。


 唐突に自分の置かれている状況が特殊なことに気が付いて、正面を向いて右手を開いて手のひらを見せる。


「ひさし、ぶり」


 今、俺がどんな顔をしているのか想像すらできなかった。

 目の前の事象があまりにも可笑し過ぎて、それでいて嬉しすぎて。現実だと思っていても嘘なんじゃないかって思ってしまう。


 いや、その線はなくはない。

 俺があまりにも恋愛に無頓着なせいで春雨さんがドッキリ仕組んだんじゃないかとあり得ない妄想まで考えてしまう。


 しかし、俺がその言葉を返すと彼女も同じく驚いたような表情でコクりと頷きながら指を差した。


「……春斗はるくん、何してるの、痛くない?」


 心配そうに俺を見つめる。

 なんでだろう、なんて考えているうちにさっきまで自分が頬を抓っていることを思い出して首を振った。


「えっ、あいや、大丈夫大丈夫。このくらい」

「ほんと? でも、すごく赤いし――」


 俺が否定しても彼女は止まらず、レジを飛び出して俺の目の前まで。

 その姿はあの頃とは全く違えど、その振る舞いはあの頃の彼女が浮かんで見えた。


「っちょ」

「あっ……ごめっ。私、なぜか勝手に……人違いって可能性も」


 俺が慌てて一歩退くと彼女は一瞬だけ不思議そうな顔をすると、何かに気づいたのかハッとしたように彼女は数歩後ろに下がって自らの手をぎゅっと掴んだ。


「え、いやいや。別に……俺、春斗、小山内春斗」

「そ、そうなの? やっぱり?」


 俺が自らを指さして言うと、言質をとるかのように訊いてくる。

 

「うん。というか、和奏そっちこそ気づいてくれたんじゃないのか?」

「あ、ははは。そのつもりで声かけたんだけど、な、なんか勝手なことしてて」

「勝手って……」

「うん。急に近づいちゃってごめんね、嫌だったでしょ?」

「いや……別に、そんなことは」

「ん?」

「な、なんでもない」


 苦笑いを浮かべ、一歩一歩離れていく和奏。

 否定しようとした俺を一切見ずに背中を見せてレジへと戻っていく彼女の姿は当たり前だけどどんどんと離れていく。


 そして同時に、ひどいくらいに静かに感じていた周りの音が耳へと入ってくる。


「わ、私、仕事中で……」

「う、うん、それじゃあ俺――」

「や、あの、春斗はるくん!」

「ん?」

「あ、あと、10分! あと10分で終わらせるから!」

「え?」

「待って、待っててくれない?」


 離れていった彼女は俺を慌てたように引き留めようとしてきて、俺は頷いて返事をした。


「あぁ」


 別に、俺もそのつもりで「待ってるよ」って言おうとしたんだけど。どうやら先を越されてしまったらしい。


 なんて返した軽い返事。

 それを受け取った彼女は少し苦しそうな笑みをこぼして、直後すぐにやってきた新しい客に対して慌てたように相手を始める。


「いらっしゃいませ、こんばんは。えぇっと――」


 スキャナーの甲高い電子音に続き、鈴の音色のような高い声が店内に響き渡る。


 そんな姿を見て、すぐに店の外へ出て壁に寄り掛かる。


 冬の冷気に包まれてすっかりと冷え切っているはずの壁、その壁がほんのり暖かいと感じてしまった理由はよく分からなかった。



◇◇◇◇



 それから10分、いや15分後。

 店内の暖房で暖まっていたはず体がが手元のココア缶で分かるくらいの時間帯。


 スマホでニュースを見たりするのが飽きてきて、口から優しく飛び出る白い吐息を見つめるほどにも暇を持て余していた俺の下に彼女がやってくる。


 自動ドアが開き、和奏は恥ずかしそうに頬を掻いて視線を逸らし目の前で立ち止まった。


「お、お待たせ」


 上は白いもこもことしたアウターに、首には赤い模様の入った眺めのストール。

 下はぴたりと肌に合ったジーンズに、肩にはトートバックが掛かっていていかにも仕事終わりといった感じの服装。


 しかし、髪型は綺麗に結われていて、唇も先ほどより赤みが増して朱色に染めあげられている。そんな姿はあの頃とは変わって大人になったんだという実感を加速させる。


「ごめん、待たせて」 

「お、おう……仕事は大丈夫なのか?」

「うん。一応もう一人大学生来てくれてて、シフト交換してもらって」

「それは、いいのか? わざわざ」

「大丈夫だよ……多分」


 

 俺の質問に対して心配になったのか、チラチラとコンビニの方へと視線を送る彼女。大人になったんだと感じて早々、心配性であたふたとしている姿はさほど変わらないと感じ少し胸が休まる。


 にしても、そんな動きが久々で面白くてもう少しだけ詰めてみる。


「多分でいいのか?」

「う、うん……」

「ほぅ」

「や、いやね! 別に店長だからって押し付けたわけじゃないっていうか、その彼が今度旅行でシフト変えてほしいって言ってたこと思い出して今日変えてもらったから強制ってわけじゃないんだよ?」

「……」

「え、あれ?」


 そして、この慌てぶりで長話しちゃうところとかもまんま一緒で。

 なんとかポーカーフェイスで保っていた俺は思わず息が零れた。


「っふ……」

「え、あぁっと……春斗はるくん?」

「っふは、はははっ……ごめ、ごめん五十嵐。ちょっと面白くて……ははっ」


 抑えられず、視線を逸らして手を前に出す。

 すると、きょとんと不思議そうにしていた顔はすぅっと引いていき、今度は口をぷくっと膨らませて怒り顔をして見せる。


「ん、もう! 馬鹿っ。面白くないし、私は」

「いやいや、そのな変わらないなって思ってさ……」

「それを言うなら小山内くんのそういう人のこと小ばかにするところだって変わらないじゃんっ」

「……っておい、俺は小ばかにするようなことはしないぞ!」

「何をーーだ。中学の頃なんて私の身長馬鹿にしまくってたくせにさ」


 ジト―っと冷えきった視線をぶつけて来られ、俺はあらぬ冤罪を否定する。


「あ、あの時は別に馬鹿にしてたわけじゃないし」

「じゃあなんなのよ!」

「そりゃ――」


 そこまで言ってから喉が詰まる。

 そりゃ――好きだったから。なんて言えるわけがない。


 思春期真っただ中。

 所謂好きな子にはちょっかいを掛けたい的な、そういうやつ。俺にも可愛らしい頃があったのだ。


 しかし、今更を言い出せるわけもなく固まらせていると和奏が顔を覗き込ませた。


「そりゃぁ……なに?」

「あっ、いや別に」

「何それ、久々に会ったのに」

「色々と考えることもあるんだよ、俺だって。今仕事は順調に軌道に乗ってるし、最近は新しいプロジェクトの副主任だって任されて」

「へぇ……すごいね、肩書だけは昔から」

「おいっ」

「いでっ!」


 この感じだ。

 話せば話すほど思い出すこの昔の感じ。

 褒めつつも悪態だけはつく、なんとも天邪鬼的なところは何も変わっていなかった。


 それに勿論、俺の気持ちもあまり変わっていない。

 この幼馴染に恋をして、無様に砕け散って、だと言うのにやっぱり忘れられない男なのだ。こうして久々に会って話しているだけで心が浮つく。


 ただ、そんなの俺だけの話だ。

 彼女は彼女でそのまま道を進んでいる。

 今更それを出すのはお門違いだし、ずるいはずだ。


「にしても、和奏はコンビニ店員してるのか?」

「んー、正確に言えば店長かな。今はアルバイトさんが少ないから結構出てるっていう感じ」

「それならなおさら今日は良かったのかよ」

「いいもん別に」

「そうなのか?」

「うん。それに、あそこのコンビニ数年前まではボロボロで売り上げもなくて、移転することが決まってたの」

「……ってことは?」

「私が経ち直したのっ。今ではうちの売り上げランキング上位よ?」

「すげぇ……、あんなおちゃらけてた和奏が。さては嘘か?」

「おいっ」


 さっきのお返しと言わんばかりの和奏のチョップが脳天を直撃し、彼女へ目を向けるとむすっと頬を膨らませる。


「失礼な。まったく……」

「お互い様だな」


 一歩一歩。

 降りしきる雪の中、お互いに差している小さい折りたたみ傘が当たっては離れてを繰り返す。


「そう言えば、家は近くなの?」

「いや、ここは会社の最寄り駅かな。これから地下鉄のって帰る」

「へぇ、そっか」

「そっちはどうなんだ?」

「私はすぐだよ。ほら、見えてきたあそこのアパート」

「近いな」

「うん」


 指を差す先のアパートまで、せっかくだしと送ることに決めた俺は地下鉄の駅を通り過ぎる。


「なら前まで送ってくよ」

「あ、ありがと……明日は仕事大丈夫なの?」

「うん。明日は午後勤務だからさ」


 うちの会社はかなりフレックスだし、明日も会議はないから基本自由だ。

 その反面、残業も少なからずあるけどな。


 会話が途切れては話し、歩いては家が近づく。

 そんなところで彼女が何気なく、訊いてきた。


「ねぇ、春斗はるくん」

「ん?」


 和奏がふと立ち止まり、俺は遅れて数歩先で立ち止まる。

 その間に割って入るように降る雪が、卒業式のあの日の景色と重なる。


「—―あの時のこと、気にしてる?」


 訊かれた言葉はあまりにも単純だったが、その意味を知っている俺からしてみればあまりにも重苦しく、複雑なものだった。


 思い出せば色々と思うことはある。

 あの時、もしも――とか考えたことは幾度となくあるし、うまくいけばよかったなとか、夢なんじゃないかなとか考えたことだって普通にある。


 ただ、今だからこそ思うが告白したこと自体には後悔はない。

 俺は言って見せた。


 告白をして、そして砕けた。

 当たって砕けた。


 だから、たまたまこんな風に合ってしまったからって軽々しくも気にしてるとか、やっぱり好きだとか、連絡を自ら断った俺がそんな無責任な言葉は言いたくはない。


 それに何より、今の頑張っている彼女にそれを言ってしまって、彼女の人生を棒に振るような真似もしたくもない。


 まだ気持ちは残っている。

 だけど、こうして話したことでちょっと前に進める気がする。


 ちょっとだけ前に、ようやく前に進めそうな感じがするから。


「—―s」

春斗はるくん、いや春斗はると


 しかし、俺が意を決してそれを言葉にする前に彼女が先に口に出した。


「えっ……な、何だよ?」


「私ね、春斗はるととこうして話したい」

「はな――え?」

「あの時はその、色々あって言えなかったこともある。だけど、時間が経てば言えることだってあると思うの……だから、ね?」


 すらすらと言葉を重ねる和奏。

 しかし、その握りしめた指先は微かに震えていて。


 凍えるように寒い雪国の空気を吸って、彼女は笑みを浮かべてこう告げる。



「—―――――やり直さない?」


 そう言われて俺は目から鱗。

 固まって、同じことを口に出していた。


「やり、なおすって……?」

「やり直すんだよ、また一から。ほ、ほら。だって今更……再会をなかったことにできないしさ」

「ま、まぁ」


 それはあまりにもごもっともで、でもご都合主義と言うか。

 ねじ曲がってしまったネジをまるで念力で真っすぐ戻すようなもので。

 

 俺は訊き返す。


「でも、いいのかよ。和奏はそれで」

「うんっ」

「だって、今更俺のこと気にする必要になって……こんな仕事頑張ってるのに。店長だろ、すげえじゃんか」

春斗はるとに比べれば、凄くは――ないけどね」


 驚いている俺とは対照的に和奏は恥ずかしそうに、にへらと笑って頬を掻く。


「は? いやいや……っていうか、でも俺なんて今更気にしなくても」

「私が気を使ってるように見える?」


 しかし、その笑みはすぐに真面目なものに戻って尋ねてくる。

 

「み、見えるって……だって。絶対に俺に気を使って、だからこんなこと言い出して」


 そんな真っ直ぐな瞳にやられて視線を外し、地面を見つめながら答える。

 すると、さっきまでは優しかった声色が一気に黒く塗りつぶされて、大きく漏れる吐息が聞こえてきた。


「はぁ……まったく、これだから」

「え?」

「あのね、春斗はると。自分のことちょっと買いかぶりすぎじゃない?」

「は、何を――」

「何が気を使ってだよ、ばーか。別に私は春斗はるとに気を使ってるわけじゃないし」


 急に意味の分からないことを言い出す彼女。

 しかし、ここまで決めたからには俺だって食い下がるわけにはいかない。


「じゃ、じゃあ」

「私は私に気を使ってるの‼‼ このばかっ」

「ば、ばかばかうるせえよ。なんだよ、ばかって言った方がばかだろ?」

「はぁ? もう昔っからばかだよね、春斗はるとはさ!」

「な、なにをぉ‼‼」


 ただ、そんなスタンスでいるとお互い引かない喧嘩が始まった。

 ばかの言い合い。まるで小学生の喧嘩の様なものだった。

 取っ組み合いはせずとも顔を近づけ、言い合うだけのおかしなところだけ大人になった言い合い。


「っ」

「っはぁ、っはぁ……このばか春斗」

「う、うっせぇ。このばか和奏」


 始まってみればそれがあまりにも懐かしく、感じてしまう自分がいて。


 そして、あの頃のようで。


「……」

「……」



 我慢はできなかった。


「っぶ」

「っは」


 噴出した。


「っぶははは、あはははっ、なに、何やってるんだろ……私たちは」

「っほ、ほんとだよ、ばっかみてぇ……まったく」


 あまりにもバカバカしくておかしい。

 でも、そんな言い合いが懐かし過ぎて、笑ってしまう。


 こんなこと二度としないと決めていたのに、結局流れに負けて俺は馬鹿笑いしてしまっていた。


「……ど、どうするんだよ」

「えぇ。あっと、どうするもこうするも」

「ん?」


 そんなところで和奏は思い出したかのようにすっと背筋を伸ばして頭を下げた。


「ごめん。私はやり直したい、あの頃みたいに」


 そして手を前に出す。

 その瞬間、またしてもあの日の情景と重なった。


 あの時は俺がこうして手を出していた。

 勿論、告白だった。

 手は前に出していない。でも玉砕して、手を出す暇すらなかった。


 でも、今は彼女の方からそれが差し出されている。


 ここで手を取ることもはたくこともできる。


 

 —―くそ。



 本当ならさっきお互いに気にせず行こうと言うつもりだったはずの俺は、手を掴んじゃいけない。


 だけど、そんな建前は本音にかき消されるように、右手が動いてしまう。






「っあ、あぁ」





 そうして、俺は。

 久しぶりの、そして懐かしさのある彼女の手を掴んでしまったのだった。



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