04 淵に臨みて魚を羨む


 迎えた二月。暦では春も直前だというのに、一等寒さが厳しくなるのがこの月だなと思う。

 雪も降ったり止んだりで、その日の天候によってオレたち陸上部の練習場所もくるくると変わった。

 今日は晴れ。けれど空では雲が広く波打って、飛び交う鳥は翼を広げてサーフィンをしているみたいに見える。肌を刺すような寒さは健在で、さっき滲んだばかりの汗はすぐに冷えてしまって困る。


 冬場の部活動は、大会が少ない分、基礎トレーニングが主な時間の使い方だ。短距離走のオレは筋トレをいくつも組み合わせた特別メニューとか、重りを付けたロープを腰に巻き付けて走るスレッド走とかをここ最近はこなしていた。

 正直、春から秋にかけての実践に近い練習より、冬場の地道なトレーニングの方が個人的にはきつい。早く暖かくならないかなと動植物ともども雪解けと春を待ちわびる毎日だ。

 水分補給をしながら顔をあげれば、校舎のてっぺんに掲げられた時計が目に入った。今日は土曜日、午前練習のみ。そろそろ、コーチの号令がかかるだろうなと幾ばくも無い残り時間をみながら、オレはもう一口と水筒に口を付ける。

 視界の端では、残り時間を惜しむように、長距離選手の面々が雪の少ないグラウンドを走っている。

 先頭は昨年ルーキーとして入部した後輩、その次を同級生の一人が走っていて、三番目を争う集団の中に、広瀬ひろせ岡埜谷おかのやの姿もあった。


(……あ)


 最後のスパートで、広瀬が集団から一歩、飛び出た。

 彼を合図に集団が一気に加速して、ばらけていく。


松井田まついだ。それ飲み終わったらストレッチちゃんとやれよー」


 彼らがゴールに滑り込む前に、目敏いコーチの声が俺の後ろを通り過ぎていった。忘れていたわけではないけど、わりと部員の数がある中よく見てんなあと感心する。「わかってますって!」振り返って元気よく返事したオレは、水筒とタオルを荷物置き場へ戻す。

 ストレッチの前に、オレはもう一度長距離組をみた。全員がゴールをしてタイムを確認しているなか、膝に手をついて、肩で息をしている広瀬の姿が目に入った。

 順位もタイムも、オレにはわからない。でも、あそこで広瀬が飛び出したからには、きっとどちらも良い結果に終わっているんだろう。


(すげえな、あいつ)


 最近の広瀬は、まるで岡埜谷からエースの座を奪おうとしているみたいに、躍進している。




れん、このあとカラオケ行かねえ?」


 部活動が終わってすぐに、オレは同じ短距離走仲間である佐藤と田村に声をかけられた。魅力的な誘いに、俺は間髪入れずに頷く。


「え、行く行く!」


 応えてから、俺は自分の残りの小遣いを頭の中で算段――するのはちょっとお腹のすいたオレの頭では厳しかったから、鞄に雑に突っ込んであった財布を引っ張り出して所持金を確認する。よし、大丈夫だ、サイドメニューをひとつくらい頼んでも足りる額。佐藤と田村とオレ、三人で掌をぱちんと打ち鳴らしてから、オレは確認した。


「とりあえず、いつもみたいに一回家に帰ってから集合でいいんだよな?」


 オレの問いに田村が頷いた。


「そうそう。流石に部活ジャージ着たままだと怒られるからなー。あ、他に誰か誘う?」


 陸上部の面々でカラオケにいくときは、大人数で行くのがいつものことだった。他に誰か、その言葉にオレは周りをキョロキョロと見渡す。既に帰路についた部員もいるだろうが、オレたちみたいにまだこの辺をうろうろしてたり、部室でゆっくり着替えてるやつもいるはずだ。誰が捕まるだろうか。


「そうだ。一応、金田と丸山あたりには声かけてる。あと岡埜谷と我妻あがつまも来るって」

「おお!? シンヤがくるの珍しいな!?」


 佐藤の補足にオレは声をあげた。

 岡埜谷はわりと突発的カラオケ大会の常連だったりするが(しかも歌がすごく上手い)、我妻あがつま伸也しんやが参加した回って滅多になかったはずだ。誘うとだいたい「今日は彼女とデートなんだ!」と嬉しそうに断られるので、周りが悔し涙を流すことになる。あんまりにも幸せそうに言うから彼女よりオレたちと遊べよ! なんて言えない。

 いや、佐藤は言ってたっけか。勿論、ばっさりと断られてたけど。


 それはそれとして、我妻はどうしたんだろう。たまたま今日に予定が無かったのか、それとも彼女と何かがあったのか。我妻に限って彼女と喧嘩したとかそういうことは想像できないが、男女として付き合えば我妻のような穏やかなやつも誰かと喧嘩になるんだろうか。

 答えはあっけなく、佐藤の口から飛び出した。


「なんでも、いま彼女が留学してるんだって」

「留学ぅ!? え、まじで!? ……すげえな、やっぱり頭が良いやつの彼女って頭が良いんだな……おっ」


 頭の悪い感想……とぼそっと言った田村の言葉は、ひとまずオレたちの友情に免じて聞かなかったことにする。

 それよりもオレは、ふいに部室棟の方から現れた同級生の姿を捉えて、嬉々として声をかけた。


広瀬ひろせ晃太こうたぁ! コータ!」


 オレの張り上げた声に、びく、肩を揺らした広瀬が振り返る。

 いや表情。コータ、表情。すげえ面倒くさそうな顔するのやめろオレだって傷付くぞ。

 いつもだったらマネージャーであるゆきちゃんの姿が帰路に着く彼の隣にあるのに、今日は珍しく一人だ。てってか駆け寄って広瀬の前に仁王立ちすれば、広瀬は諦めたように「なんだよ」と俺を見た。


「オレたち午後にカラオケに行くけど、コータも来るか?」


 岡埜谷や我妻も来るって。そう付け足せば、広瀬の瞳がわかりやすく揺れた。これは、とオレが期待に胸を膨らませた瞬間、広瀬の右手が肩掛けになっているエナメルバッグの紐をぎゅっと掴んだ。


「悪い。俺、このあと用事あるからパスで」

「えー。またかよコータぁ……」


 なんとなく答えの予測は出来ていた。けれど、一度結論を口にした広瀬が相手では、恐らくオレが食い下がったところで粘り勝ちなんて結果は望めないんだろう。幼馴染みのゆきちゃんですら、こうなった広瀬への勝率は低いのだと耳にしている。

 となれば、オレが選べるのは撤退のみだ。戦略的撤退。あ、すみません特に戦略はないです。言ってみたかっただけです。


「まあ用事あるなら仕方ないな! 次は来いよ、絶対にラブソングかアイドル曲を歌わせてやるから」

「なんでだよ。もうお前、今日サビの一番良いとこで音を外してしまえ」

「地味に嫌だなそれ!?」


 小さな呪詛を吐くくせに「じゃあ気を付けて帰れよ」なんて案じる言葉もこちらに寄越す。帰るために踵を返した広瀬の背中に「また月曜日なー!」と手を振っていれば、少し離れたところでオレと広瀬のやり取りを見守っていた佐藤と田村がそろそろとこちらに寄ってきた。

 目が合うなり、佐藤が開口一番にしみじみと言った。


「お前すごいな松井田」

「え。何がだよ?」


 褒められる理由に心当たりがなくて首を傾げれば、佐藤はちらりと遠くなった後ろ姿に視線を向けた。


「あの広瀬を相手に正面切って遊びに行こうって言えるところだよ。毎回毎回すげなく断られてるのにさ」


 その言葉にオレは、自分の瞬きを自覚した。正直、オレはその言葉を耳にしてすぐには、言われたままには受け止められなかった。

 そんなオレを置き去りにして、初詣だって断られてたじゃん、と田村も顔を顰めて言う。


「もうあいつ誘うの止めたら? どうせこの先も誘ったって来ないだろ」


 ようやく頭の追いついたオレは、流石にいやいやと首を振った。


「……え。いや、でも、シンヤだって今回来たし、もしかしたらの可能性もあるだろ?」


 確かに広瀬は、遊びの誘いを断ることが多かった。多いというか、むしろ遊びの誘いに乗っかっているところをみたことはないかもしれない。だからこそ、大晦日に神社で広瀬の姿をみつけたときは、衝撃的だった。オレが除夜の鐘にでもなった気持ちだった。

 オレの言葉に佐藤も首を横に振る。


「いや、あの広瀬に限ってそれはないって。我妻と違って、本当に用事があるのかも怪しいし……あ、中田だ」


 佐藤が後輩をみつけ、声をかける。田村も彼と仲が良いから、にこにこしながら話しかけにいった。気負いなくカラオケに誘う言葉が聞こえてくる。大所帯になりそうだなとぼんやりとオレは思う。楽しいからいいけどな。でも今日は土曜日だし、パーティールームはまだ空いてるだろうか。

 話半分で会話を切られたオレは、もう一度広瀬が去っていった方向をみた。当たり前だが、もうとっくにその後ろ姿は見えない。

 寒々しい風だけがひゅるりと吹いて、木の枝に残った雪の上澄みをさらさらと空中に巻き上げている。

 思わずオレはぽつりとつぶやいた。


「……別に、広瀬は嘘をつくやつではないと思うけど……」


 遊びの誘いに、興味がないわけではないのだと思う。ついさきほどの誘いで揺れた瞳を思い出して、勝手な印象だけれどそう思う。

 みんなと一緒に出掛けるのだって、嫌なわけじゃないのだと思う。なんだかんだ最後まで付き合ってくれた大晦日を思い出す。


『……神様なんていない。……そう思ってる』


 きっと広瀬は嘘をつかない。たぶん、嘘がつけない。

 そう思う。そうだ、オレが思ってるだけだ。全部これはオレの考えで、印象で、想像だ。

 それらが実際の広瀬と重ね合わせた時にぴたりと一致するとは限らない。もしかしたら、オレの見ている広瀬よりも、佐藤や村田がみる広瀬の方が、本来の広瀬なのかもしれない。


(あのとき、なんでって聞いてみれば良かったな)


 なんだか、ものすごく、もやもやする。

 ふと、オレは広瀬のことを何も知らないんだなって気付いて、友達のはずなのに、なんだかとっても寂しくなった。

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