02 機は熟した

 正面には父親。

 向かい合うは、オレ、松井田まついだれん


 どうしてこう、日本人がかしこまるときって、正座になるんだろうな。そのうちじわじわと痺れて立てなくなるだろう自分の足に心の中でエールを送りながら、オレは改めて顔をあげた。


 炬燵こたつの向こう側では、オレの父親が困ったような顔で胡坐あぐらをかき、俺と、俺の目の前にある紙を交互に眺めている。その背後にあるキッチンでは、母親が夕飯の仕上げにかかっていた。

 律儀にエプロンを身に付けて、トントントン、とリズミカルにまな板の上で踊らせるその後ろ姿は、困惑に身を浸している父親と違って一見機嫌が良さそうだ。普段なら機嫌が良いことは大歓迎だというのに、今日ばかりはそれがちょっとだけ怖いなと思う。だって彼女も、いま机の上に広げられているそれらを知らない訳じゃないのに。


 というか、彼女に発掘されたからこそ、いまのこの状況なのだが。


「……ええと。あのな、蓮」


 父親はちら、と再び机の上に目を向けてから言った。


「流石に、この点数は俺も看破できないなあ……」

「……奇遇だな父ちゃん、俺も流石にどうかと思った」

「蓮。ふざけない」

「はい」


 叱るのが得意ではないと以前から宣誓している父親は、ふざけない、という注意の言葉さえどこか温かくて柔らかかった。とはいえ、本当に怒らせると一番怖いのはこのひとだと身を持って知っているから、オレもぴっと背筋を伸ばす。ふざけるのは一回まで。

 そうしてオレは、ようやく机の上と向き合った。


 机の上に広がっているのは、休み明けテストの答案用紙だ。どれもこれも赤ペンで採点が終わっており、でかでかと書かれたオレの名前の横には、小さめながらもきっちりとした数字が俺の成績をばっちりと刻みつけていた。


 現代文。四十五点。

 古文。ちょっと目を逸らしたくなる点数。

 数学。三十二点。

 世界史。ここだけ何故か七十四点。

 情報。五十点ジャスト。

 英語。我ながら直視ができない点数。

 物理。いっそこの科目を世界から抹消したい点数。


 うん、改めて見返すと眩暈がしてくる。オレは岡埜谷おかのやたちと行った大晦日のお参りでも、両親と行った初詣でも神様にテストの点数が良くありますようにと願ったわけだが、流石の神様もここまでの大惨事ではカバーができなかったらしい。

 特に物理。解答欄がひとつずれてたとかじゃないのかこれは。

 いっそそうであってほしい。


「俺もママも、蓮に勉強しろー、とは強要しないようにはしてたけど。流石に高校三年生になるのにこれだと、ちょっと心配だな」

「う……」

「ちなみに、蓮の学校は何点から赤点だったっけ?」

「……三十点、だったかな……」

「……そっか……」


 父親はオレの言葉を受けて、重々しく頷いた。


「まさか、こんなところまでママに似るとはね……」

「パパ。パパも蓮の隣で正座ね」

「はい」


 胡坐あぐらを解いて立ち上がり、母親に言われるまましずしずと俺の隣に足をそろえて座った父親を見ながら、俺は間違いなくこの二人の子供なのだなと、現時点で一番必要ない感慨深さを味わった。



「つーわけで、来月から塾に行くことになりました……」


 その後、父親と並んでこんこんと母親の説教と長時間向き合うことになったオレは、同時開催された家族会議のもと、近くの駅に併設されている学習塾へと通うことが決まった。

 テストの点数から察せるだろうけれど、オレはあまり勉強が得意じゃない。運動で身体を動かすほうが好きだから、塾って言葉だけでもう塩を振りかけられた青菜みたいになっている。いや、どっちかといえばナメクジとかのほうが近いかも。

 え、つらい。


 昼休み。家から持ってきた弁当だけだと放課後まで持たないから、いつもは午前の授業が終わると同時にサッカー部のやつと購買ダッシュを決め、そのまま中庭などでお昼を食べるオレなのだが、今日はオレの所属する陸上部の部長である岡埜谷おかのや俊一郎しゅんいちろうから収集がかかったため、購買は諦めて、いつかの大晦日の面々と机を囲っている。

 オレと、岡埜谷と、我妻あがつまと、広瀬ひろせ


 とはいえ、わざわざオレのクラスに出向いた岡埜谷からすれば用事があったのは副部長のオレだけだ。広瀬はたまたまオレの斜め前が席だったこと、我妻はそんな広瀬と一緒にご飯を食べていただけなので、四人で集まったというよりは四人が近くに居合わせたという方が正しい。

 岡埜谷が言うには次の合宿に必要な提出書類の、生徒が記入するアンケートのところがオレは白紙だったらしい。そういえば保護者の記入欄が大部分を占める書類だって聞いてたから、大きな白封筒を母親に丸投げしたな。加えてオレはアンケートを記入した覚えがない。


 拝啓、母ちゃんへ。オレの記入する書類があったなら声をかけてください。息子より。敬具。


 オレがこいつらに塾のことを切り出したのは、そんな罠のような見落としを泣く泣く埋めて、提出を果たしてすぐのことだった。


 塾への行きたくなさと、昼休み中に終わらせるには項目が多すぎたアンケートのダブルパンチによって、べしょ、と浜に打ち上げられたわかめのようにぐでんぐでんのどろんどろんになって机の上に伏せた俺に、紙パックのカフェオレをずごごっと音を立てて飲みほした岡埜谷が首を傾げた。


「確かにお前、点数がこの上なくヤバいーとは言ってたけど。塾を強要されるほどに今回ヤバかったんだ?」

「……物理も、英語も、さっぱりで……」

「……ああ。難しかったよな、今回」


 隣の席でお弁当箱をしまっていた広瀬が、心当たりがあったのか眉をしかめる。その横で「でも、ちゃんとテスト範囲から出てたよ?」とのたまった我妻を、俺は緩慢な動作で顔をあげて、恨めしい気持ちでじぃと見つめた。


「……オレは知っている。学年上位をキープし続けている天才の我妻あがつま伸也しんやくんは、今回も点数も良かっただろうことを。ということで、おりゃっ、いますぐお前の物理のテストの点数を吐け!」

「ええ……恥ずかしいから嫌だな……」

「いや、お前の点数は恥ずかしくないだろ」


 既に我妻のテスト結果を知っているらしい広瀬が呆れたように言った。「恥ずかしいんだよ」とまごついた我妻だったが、結局粘り勝ったのはオレだ。我妻は頬を掻きながら、点数を教えてくれる。


「……えっと、九十七点」


 オレは思わず上半身を持ち上げて、無言のまま広瀬や岡埜谷と顔を見合わせた。たぶんオレ含めた全員が真顔のまま、ひとつ頷く。


「またなのお前」

「それで恥ずかしいってなんだ喧嘩売ってるのか」

「しかもお前、他のテストもどうせ同じ点数だろ、舐めんな」


 岡埜谷、オレ、広瀬の順でとりあえず文句を連ねつつ痛くない程度に我妻の肩をどつく。三方向から軽く揺らされた我妻は降参とばかりに両手をあげつつ、言い訳を述べた。


「いやいや、だってまた三点足りないんだよ」

「オレたちと恥ずかしさのベクトルが全っ然違うんだよな……」


 この頭の良い友人の腹が立ちつつも面白いところなのだが、我妻伸也という男はいつも、どういうわけだかテストの点数が毎回九十七点といういまいち惜しい結果に終わっている。つまるところ、一問だけ何故か間違えるのだ。

 正直オレだってその予想はついていたけれど、今度こそ百点をとったか、今度こそもう一問くらい間違えたかの期待を持ってあえて訪ねたというのに。エンタメ性がぶれない友人である。


「というか、僕だけ点数を晒されるのは不平等だよね? ほら、広瀬たちも教えてよ」


 恥ずかしそうに手の甲を頬に当てていたのが一転、今度はふてくされたような顔で我妻が抗議する。予想していなかった展開に、え、と口ごもったオレをみて、岡埜谷が瞬時に面白そうな顔をする。


「それもそーか。おれは九十一点」


 さらっと答えた岡埜谷に、オレは察した。シュンのやつ、オレに点数を吐かせるためだけに自分の点数を言いやがった!

 しかも、良い点数の物理なら自分にダメージがないと踏んだうえでの発表だ。


 前略、こいつを部長に選んだ前部長および先輩方へ。こいつ、こういう性格ですが知っていましたか。

 え、知ってた? そっか……。

 草々。


「おお、普通に良い点数だね。広瀬は?」

「え、俺? ……あー、俺は五十九点」


 広瀬も、岡埜谷の意図には気付いているようだ。けれど岡埜谷とは違って、若干言いにくそうにテストの結果を口にした。広瀬的に納得がいっていない数字なのは、声音以上に彼の表情を見れば明らかだ。だが勿論、俺よりは遥かに良い点数である。

 悔しさに再び机の上に沈み込んだオレの頭上で、我妻と岡埜谷が広瀬の点数を反芻した。


「五十九点か……」

「……あのさ、広瀬。おれたちがリアクションに困る点数はやめてほしいんだけど」

「そういう意図でこの点数を取ったわけじゃないんだよ」


 億劫そうに頬杖をついた広瀬が、深々とため息をついた。

 それから、自分は晒したぞとばかりにオレの方にゆっくりと視線を向けて、にやりと広瀬は笑った。


 お前、お前。五十九点とオレでも反応に困る点数を口にしたときから察していたが、お前。

 ゆきちゃんへ向ける優しさのひとつくらい惜しまずオレに分けてくれたっていいだろ。なあ。


「で。松井田、お前は?」


 周りに三人しかいないのに、四面楚歌って状況があるんだなって思った。

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