第6話
十二時の鐘が鳴ってから数分して、ロシェル・グヴェンが桟敷でワインを傾けていたラファエルを呼びに来た。階下の夜会も、踊っている人々はこれが最後の曲となって、帰路に着くだろう。
「妃殿下が上階でお待ちです」
「そう」
ラファエルはワイングラスを置いて、立ち上がった。
「確か君の父上が宮廷医師として陛下を診ているんだよね? 今まではお具合が良くないとのことだったけれど……少しは快癒なさっているんだろうか?」
ロシェルは一礼し、桟敷を退出する。
(答える気は無い、か。
あいつもこの王宮では少し異質な存在だよな。
確かに王妃の腹心ではあるようだが。最初は愛人関係にでもあるのかと思ったんだけど、どうもそうではないようなんだよなあ)
部屋を出ると丁度、王太子ジィナイースもダンスホールを後にして、侍従を引き連れて自室に下がる姿があった。
全てを知る者と、何も知らされない者。
信頼がある故か、愛ある故か。
それは分からないけど。
一度も上がったことのない、王と王妃の居住区になる上階への階段を上りながら、ラファエルは今、自分が生と死の、どちら寄りにいるのだろうかと、そんなことを考えていた。
上階に辿り着くと通路の先に王妃セルピナ・ビューレイが珍しく、侍従を持たず一人で佇んでいる。
ラファエルは歩いて行って、騎士の所作で王妃に一礼した。
「来ましたね。ラファエル」
「は……。妃殿下、お許しいただけるならば、先日のことを釈明する機会を……」
「よいのです」
顔を見上げると、セルピナが優しい眼差し、と表現していいもので自分を見下ろしていて、ラファエルは少し息を飲んだ。
「さぁ。陛下がお待ちです」
ラファエルの手を自ら取り、立ち上がらせる。
ラファエルは、すでに見えている、前方の王の私室の扉に向かう間、様々なことを考えていた。
何か、妙な気配がした。
言葉にするのは難しいが、ジィナイースを見つけた以上、彼をヴェネトから本国に連れ帰り、あとのヴェネトのことなどどうでもいいという、利己的な気持ちがラファエルの中にはある。
彼がこの地に来たのは国への使命感ではない。
ただ一つの失えない愛の為だ。
その愛は、失われていないことを知った。
ジィナイースは無事であり、彼はラファエルのことを覚えていてくれたばかりか、変わらぬ親愛の念を示してくれた。
幼いあの日から何一つ変わらない、姿も魂も、彼は美しいままだった。
だからラファエルの願いはもう、全て叶っている。
あとはジィナイースと共にフランスに戻り幸せに暮らせれば、このアドリア海の孤島が、世界を滅ぼそうが、世界から憎まれて滅ぼされようが、彼は究極には興味が無い。
大体、国を吹っ飛ばされるほどの災いを前に、逃げ回ってどうするのだと思うからだ。
死ぬ時にジィナイース・テラが側にいて、自分が死を自覚する前に彼と共に消滅することが出来るならば、別にそれも幸せである。
フランスの寵児と呼ばれる、愛に溢れる人生を歩むラファエルは、実はそう思ってしまうほどには少年時代、孤独な時期があった。貧しかったり、孤独なことは、ある意味では財産だ。豊かで愛に満ちても、孤独を感じてしまったらそれこそ欲は果てしない。不幸を抱えれば、豊かなものが意味を見い出さないものにさえ、幸せだと思えることがある。
しかし、大望を抱けないという意味ではやはり不幸なのだ。
傷ついた自分が辛過ぎて、忘れられず、こんな幸せでも財産だと思ってしまえば、そこに発展はない。
ラファエルは自分自身を、既存の礼節や領地を守っていく、騎士や貴族としては、一級品だと思っている。彼は大きな変革を望むことはない。数少ない愛する者と、愛を感じられる人生を歩めれば誰よりも幸せだった。
だから彼はフランス王を愛し、自らの領地を愛し、領民を愛する。
内政でこそ、自分は多少の力を発揮出来る。
社交界の華と呼ばれてはいるが、本当は他国など、どうでもいいのだ。
自分は本来、外交を担当するような素質はない。
……しかし海洋国ヴェネトの、新しい時代の王であったユリウス・ガンディノは、全く違う考えを持った王だった。彼の視線は常に、水平線の先を見つめている。
ジィナイース・テラは、彼の血を一番濃く受け継いでいる。
そんな彼がラファエルの側にいることを幸せだと、満足してくれるとは思わないけれど、芸術や、その他の華やかな文化に触れることで、小さなラファエルの世界を小さく思わず、居心地がいいとさえ思ってくれれば、きっとジィナイースはどこへ行こうと自分の許に戻って来てくれるだろう。彼の帰る場所になることが出来たら、自分にとっては十分すぎるくらいだ。
数多の女を知っているラファエルにとって、セルピナ・ビューレイは、異国で聞き及んだ時より、会った時の方がよほど凡庸な印象の女だった。
胸に秘めた野心や、欲望は感じる。
だが別にそれは貴族の女がよく抱えるものと、何ら違いはなかった。
人によっては彼女より遥かに苛烈な野望を抱えるような貴族の女は、フランスにさえ、簡単に存在する。
しかし、この王妃の後ろにはあの古代兵器がある。
そのアンバランスだ。
それがいつも、違和感があった。
千年以上沈黙して来た、神の遺物とも言うべき【シビュラの塔】が――こんな凡庸な女の欲に負けて起動するかのという、失望。
そのことが逆に、まだ何かこの女は隠しているはずだという、根拠のない予感をラファエルに抱かせていた。
並の悪女ではないはずだと。
そうであってほしいわけではないが、そうでなければつまらない、とも自分は思ったことがあったはずだ。全く救いのない発想ではあると思うけれど。
王の私室に近づく間、その得体の知れない気持ちが、段々近づいてくることをはっきり感じた。
「慣例に従い、貴方の剣を私が預かりましょう」
王妃は言った。ラファエルは躊躇もなく、腰の剣と、懐に飾っている対の短剣を並べ、王妃の手に預ける。
開く者すらいない。
ラファエルは自分の手で押し開いた。
扉を開けながら思ったのは、この先自分に何が起こっても、それを受け入れるから、どうか国は救って欲しいという願いではなく。
自分を殺すなら、ヴェネトへの反意など、全く持っていないジィナイースだけはもう自由にして、好きに生きれるようにしてやってほしいということを願おう、ということだった。
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