第2話
顔料が切れてしまった。
ネーリは普段は自分で顔料を作る。微妙な色の違いを、作り出すのも好きだからだ。
今回は複数の制作と重なったため、珍しく外注した。
顔料を挽くところまではこなしてもらい、その先の調合は自分で行う。
ネーリは色を作る作業は好きだ。特にその時間も新しい絵の構想を練ったりして無駄にはしないので、全て自分の手作業で行う。普通はアトリエの助手たちがそれを行うが、彼は助手を持ってない。それに依頼をするとなると当然、金が必要なので、勿体ないためネーリは全て自分でやっていた。今回はフェルディナントがすでに幾つかの絵を買ってくれて、その収入が入ったので、顔料を発注することが出来たのである。
ヴェネツィアの街には顔料を作る専門の工房が幾つもあり、また、教会でも場所によってはそういった依頼を受けてくれる場所もある。この絵は大作なので、色の消耗も激しい。
ネーリはあまり依頼を受けて描く画家ではなかったので、筆は早くても期日を気にして描いたことがあまりない。しかし今回は、自分が怪我して描き出せなかった時期のことが影響しているか分からないが、描けるようになって、いつも以上に寝食を惜しんで描き続けてしまった。
「普段は色を作る時間もちゃんと取ってるのに。今回は忘れちゃうね」
フェリックスはネーリが色を描き始めてから、飛行訓練以外は倉庫の中にいるようになった。以前から倉庫の中は彼の待機場所だったのだが、建物の中が嫌いらしく、外の木の側にいたのがほとんどなのに、不思議なことにネーリが描き始めると倉庫の中にずっといるようになった。そして彼が描いている時は、じっと少し離れたところにいて、見ているのだ。
ネーリが出掛けていたり、仮眠している時は、一緒に寝てることが多いらしい。
これは騎士たちの目撃情報だ。
「ほんとに絵の好きな子だなあ」
ネーリは長い間座っていた脚立の上から降りてきて、フェリックスの身体にもたれかかり、支えにしながら伸びをした。背を大きく反らして解すのに、胴の丸みが丁度いいのだ。
それに温かい。ネーリは笑った。
「いけないいけない。君があったかいからこうやって寄り掛かってると眠たくなっちゃうよ。色を持ってこないと。ちょっと待っててね」
フェリックスに声を掛けると、ネーリは倉庫の外に出た。
色は、定期的に外から運び入れてもらっている。
側の騎士館を覗くと、そこは騎士たちの待機場所の一つでもあるので、誰かしらがいてくれる。今日は偶然、トロイがいた。
「ネーリ様。おはようございます」
「お疲れさまです」
周囲にいる騎士たちも、まるでフェルディナントが帰って来たかのように立ち上がっていつもネーリに挨拶をしてくれる。
ネーリは、自分は画家だし皆さんは騎士様なんだから立って挨拶したりしないでいいのになあ……と思うのだが、トロイが、自分もフェルディナントもネーリにそういう風にしろなどと言ったことはなく、自然と彼らがそうするようになったのだから何も気にしないでいいのだと言ってくれた。
礼拝をしたり、ヴェネトの講義を受けたり、そして何より、宮廷画家になるべき才能ある青年だと日々そのことを目撃しているから、尊重したいのだろうと説明を受ければ、いや止めてくださいと断るのも失礼な話である。
ネーリは自分を丁重に扱ってくれる彼らに、同じように深く礼を返すことで釣り合いをとればいいか、と思うようになった。
「あの、少し街に出てもいいでしょうか?」
「どうなさいました?」
この頃の習慣から、ネーリが街へ行く時は、絵の道具が足りないことが多かった。何かが足りないのだろうかとトロイは尋ねる。
「色が足りなくて、工房から直接貰って来ようかと」
「昨日運び入れたものは使えませんか?」
「あっ、いえ。顔料はあれで大丈夫です。粉末を色に仕上げるのに、少し薬品がいるので。
二、三日中に届く予定なんですが」
「ネーリ様の筆は本当に早いですからね」
工房も追いつかないのでしょう、と騎士たちが感心している。
「そうか、そういうものも必要なのですね」
「はい」
「薬品はお分かりになりますか? 私はこれから街に行きますから、こちらの部下に伝えて貰って来ましょう」
トロイがそう言うと「えっ、お使いなんか頼んでいいのかな」という顔をネーリが見せた。トロイは微笑む。
「どうかお気になさらず。ついでですから。昨夜からずっと描いておられたようです。少しお休みになって下さい。集中している時は休息も煩わしい時はあるでしょうが……少し仮眠を取るなり、何かを食べられるなり……一時間ほどで薬品は揃えますので。怪我から復帰なさったばかり。あまりにも根を詰めすぎですと、フェルディナント将軍も心配されます」
「ご、ごめんなさい」
フェルディナントの名が出て、少しネーリは赤面した。
いつも教会や干潟の家で、休憩なんかそっちのけで描いてしまうから。
これまで自分が寝食を忘れて描いても、心配する人なんか一人もいなかった。
「いえ。こちらに必要なものを書いていただけますか? 生憎私も、部下もあまり芸術には詳しくないので、店の者に伝えてはっきり分かるように書いていただけると助かります」
「はい」
ネーリは六つくらいの薬品の名を、紙に書いた。
書けました、とトロイに渡すと、それを見たトロイが「おや?」という顔をする。
「これは見たことあるな……」
「?」
少しここを頼むという感じで、部下に合図し、トロイは騎士館の倉庫の一つに入って行った。色々な物が保管してある倉庫の奥の棚だ。ネーリはここには入ったことは一度もない。奥の棚に、びっしりと薬品の瓶が置かれている。こんなものがあると知らなかった。
トロイはメモを見ながら、薬瓶を見つけて、全て取り出してくれた。
「これで間に合いそうですか?」
全部揃ってネーリは目を輝かせる。
「はい。十分です。いいんですか? これ使って……」
「構いませんよ。街で押収したもので、持ち主もいないものですから。それに全て記録はつけてありますから、大丈夫です。他にもありますから、もしこの中で絵を描くのに間に合うものがあったら自由に使って下さい。団長にも知らせておきますので」
「ありがとうございます」
「絵にはこういうものも必要なんだなあ」
トロイが初めて知ったらしく、しきりに感心している。
「画家によって調合とかが違うのかなあ。秘伝のようですね」
「押収したものなんですか? すごいなあ。こんなにたくさん揃ってる。これだけだと相当大きな工房じゃないかな。どこのアトリエから持って来たんですか?」
トロイはふと、振り返る。
「アトリエ?」
トレーの上に薬瓶を並べて嬉しそうに棚を見上げたネーリが頷いた。
「ネーリ様」
「はい」
トロイは脚立に乗ったまま、棚を指し示す。
「この棚を見て、何に見えますか?」
ネーリは目を瞬かせた。
何を聞かれているのかは分からなかったが、見たままの答えを求められていることは分かったので、素直に口に出す。
「……えと……、……立派なアトリエの棚……」
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