2. 東京都八王子市の殺人樹−2
東京都八王子市防衛部山間施設管理課。
普段は民間の人間が訪れることのない部署である。
あるとすれば、殺人樹に近づきすぎて怪我をしたとかいう苦情くらいで、当然ながらそんな馬鹿は無視するか警備を呼ぶだけで終わる。
そのため窓口担当の職員からしてみれば、正式な申請書を持った民間の訪問者というのは物珍しい話相手として、そう悪いものではないはずだった。
しかし、細めのメガネをかけた真面目な職員にとって、今日の訪問客は良い話相手というよりは困惑を運ぶ悪魔の使徒でしかなかった。
「山間部モンスターの食料利用における再検討並びに実地調査......」
目の前に立っている体格の良い男がいい笑顔をしながら提出した申請書。
その申請書に書かれた文字を読み上げ、頭痛を感じて手を頭に当てる。
男の後ろに立っている小柄な少女は申し訳なさそうに肩をすぼめている。
その謙虚さを爪の先ほどでもいいから、目の前の男に分け与えて欲しいところだ。
申請書のタイトル自体は問題無い。
モンスターの食料利用は人類にとっての生命線であり、いざとなった時に何が食べられるのかという情報は文字通り命を分ける。
そのために都市の境目に赴くというのもよくある申請の1つでしかない。
しかし、対象がイチョウの殺人樹となっているのはどういうことか。
山には猪型や熊型といった動物系モンスターが多数存在しており、どう考えても食料として利用するならそちらが優先されるはずだ。
この申請書ではそういったモンスターを無視して、わざわざ防衛線に展開されているイチョウの殺人樹を指定している。
防衛用に植えられた殺人樹を伐採、つまり都市の防衛線に被害を出した上で食用として試そうとしているわけだ。
しかも、ハンター組合が正式に許可した調査である。
組合長のサインもあるし、事前に管理課にも連絡が届いている。
申請した人間の頭がおかしいことに目をつぶれば、管理課の現場権限で拒否できるほどの理由は思いつかない。
「......正気ですか?」
「もちろん正気だ!間引きしたい殺人樹のいるエリアとかあるだろ。それを教えてくれ!ある程度数を試したいから複数のエリアと、エリアごとに狩っていい数も念の為頼むぞ」
書き間違いであって欲しい。
その願いを込めた質問は真正面から叩き潰された。
この男は本気で殺人樹を食べにいくらしい。
危険なモンスターや敵対する国家が跋扈する山間部にわざわざ突入して。
命をかけて木を食べに行く。
ハンターは一般人とはどこか異なる人間が多いが、こういった異なり方は流石に違うんじゃないのか?
あまりにも堂々とした男を前に怯み、縋るように男の後ろに立つ少女に助けの目を向ける。
しかし、そこにあったのは自分への同情と諦めを含んだ苦笑いの表情だけだった。
職員は恐怖を乗り越えて声を絞り出す。
「............イチョウの殺人樹は銀杏を落としませんよ」
イチョウの木で可食部と言えば種子の銀杏である。
しかし、イチョウの殺人樹は何故か銀杏をつけない。
一般的なイチョウに照らし合わせれば、殺人樹は種子をつけない雄株しかいないということになる。
では、どうやってイチョウの殺人樹は増えているのか。
管理課では切りたての殺人樹の枝を挿し木することで植林を行っている。
しかし、大本の殺人樹がどのように発生したのか、野生のイチョウの殺人樹がどのように繁殖しているのかは未だ判明していない。
「知ってるよ」
「知ってたんですか師匠」
職員の葛藤を欠片も気にせず男は答えた。
後ろの少女には初耳だったようで可愛らしい声を上げて驚いているが、本来であればこれが正常な反応だろう。
「どんなことでも下調べは大事だぞ。特にハンターは命がかかってるんだからな。知識があって損をすることはない」
そう言って男は後ろに立つ少女に振り向き、懐から出した資料を渡す。
それなりの厚みからして、恐らくイチョウの殺人樹に関する既存の調査報告をまとめたものだろう。
少女から師匠と呼ばれていたし、この時まで黙っていたのは自発的な調査を促す教育の一環なのかもしれない。
なぜその情熱と理性をまともな方向に向けないのか。
「イチョウの殺人樹は木材ですよ。100歩譲ったとしても、燻製のチップや青竹焼きもどきとして調理に使うのが精一杯です」
職員は自らの想像力を駆使する。
「もう100歩譲れば食用になるかもしれないだろ。やる前から諦めてどうする」
そして打ち砕かれる。
間違っているのは自分なのか、それとも目の前でニヤリと笑いながら胸を張っている男なのか。
次第に分からなくなってきた。
「明らかに駄目そうなことをやらないのが賢明さというものでは…」
「駄目なことを確かめるのも研究の1つだ。未知の空白を埋めることで人は進歩して来たんだぞ。俺たちが失敗に終わっても、別の誰かがそれを活かせるなら意味はあるんだよ。殺人樹の食用化に取り組んだ報告書はまだないだろ?つまり、誰かが既に思いついて失敗に終わった話じゃない。なら意味はあるんだよ」
当たり前のことのように言い切る男を前に、職員は呆然と立ち尽くした。
この男がまるで神の言葉を告げる預言者のごとく崇高な存在かのように思えてくる。
失敗を恐れず、後に続く者たちのために茨の道を踏み固める人間がいるとしたらこんな人間なのだろうか。
いや、おかしいのは自分の頭ではないのか?
なんでこんなことを思うようになったのか。
悪魔に魅入られたとしか思えない。
職員は軽く頭を振って頭痛と困惑を振り落とし、なんとか立入許可証を2人に渡す。
カード状の許可証は首から下げるタイプのケースに入っており、管理課が位置情報を把握できるような魔法が施されている。
移動の履歴なども残るため、そう簡単には悪事を働けないようになっている。
不審な点があれば後日呼び出しを行い、場合によっては尋問を行うこともある。
ここはあくまでも軍事拠点なのだ。
しかし、目の前の男にはそのような緊張感は全く無く、浮かれながら許可証に首を通していた。
職員はため息をつきながら、要返却と書かれた貸与用の地図に今回狩ってもよいエリアと目安となる本数を書き込み男に渡す。
うおー!と叫びながら渡された地図を熱心に覗き込む男を脇に置いて、職員は資料を読んでいた少女を呼び寄せて赤い筒を渡す。
「これは何ですか?」
「緊急用の信号弾です。もし危険なモンスターに遭遇したり、不慮の負傷などで移動が困難になった場合には空に向けて紐を引いて下さい。打ち上げられた信号を確認次第、待機している救助チームがそちらに向かいます。位置情報はこちらで把握していますから、モンスターに追いかけられている場合でも無理にその場に留まる必要はありません。可能な限りこちらの拠点に向けて逃げて下さい。............大変失礼ながら、あなたの方が理性的な判断ができると思いましてこちらをお預けします」
頭のおかしい相手だからといって見捨てるわけにもいかない。
特に子供であれば尚更である。
子供のハンターが依頼中に死ぬこと自体は珍しくもないが、だからといって最初から見捨てて寝覚めを悪くする理由もない。
少なくとも自分の手の届く範囲では犠牲を減らしたい。
本来は誰にでも貸し出すものではないが、今回は特別なケースと言っていいだろう。
イチョウの花言葉は「長寿」や「鎮魂」である。
防衛林を考案した人間は犠牲を少しでも減らすため、実用性を踏まえてイチョウの木を選んだ。
しかし、実はそれだけではなくある種の祈りも込めて、神社や寺で神木とされることの多いイチョウの木を選んだという話を聞いたことがある。
大異変の後、霊験あらたかな神木や霊木にはモンスターを近づけさせないという効果が確認されている。
慰めでしかなくとも、こんな時代においては縋れるものには縋りたいという思いを笑う者はいない。
だから、その防衛林の近くで子供が死ぬようなことは避けたかった。
「ご丁寧にありがとうございます」
そう言って少女は深々と頭を下げた。
しかし、頭を上げた後、はっきりとした声で告げる。
「でも、多分必要ないと思います。..................食中毒になるとかでなければ」
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