第5話 『 穴ぐら 』

 トンスクはのんびり屋の若者。友だちは多くはないが、まあ普通に学校に通って日々を平々凡々に暮らしている。そんな彼の悩みのタネは口うるさい母親スンニ。父親を早くに亡くした息子を不憫がる半面、「早く一人前になって出世しろ」と顔を合わせるたびに言う。それがトンスクには煩わしくて仕方がない。小学校からの楽団仲間で一番の友だちチュルグからは「そんなに母親が嫌ならさっさと家から出て一人で暮らせばいいじゃないか」と笑われるが、それはそれで度胸も潔さもないトンスクには「無理な相談」という感じ。

 ある時母親と口喧嘩したトンスクは昔小さい頃父親と遊んだ山にある秘密の洞穴に足を向けた。中に入ってみると意外と静かで心地よく、気がつくと日が落ちるまでぐっすり眠り込んでしまうほどだった。その夢の中でトンスクは父親に自分の夢=偉大な音楽家になって世界中を旅することを目を輝かせながら語っていた。それはとても懐かしく、それでいて哀しい夢にように今のトンスクには思えた。そして洞穴の入り口から見える故郷の景色が尚一層その気持ちを掻き立てるようだった。

それからというものトンスクは気がつくとその洞穴に足を向けるようになった。そして父親にも昔吹いて聞かせた大ホルンを心ゆくまで練習した。そしてそのことは母親にはもちろん、友だちのチュルグにも秘密にした。そんな時、学校で楽団のオーディションがあり、同じ大ホルンのトンスクとチュルグも試験を受けることになった。トンスクには秘めたる思いがあった。絶対オーディションに受かってオーケストラのメンバーになること。自信もあった。小さい頃から練習は続けていたし、才能だって誰にも劣らずあると思っていた。ところが審査員たちの関心は意外にもチュルグに注がれていた。彼の朴訥だが、自然で叙情豊かな音色が彼らの心を打ったのだ。それは当のトンスクにも明らかだった。そしてその結果…トンスクはオーディションに落ちてしまった。受かったのはチュルグ。チュルグは友だちの手前、気が咎める様子だったが、トンスクは逆に気にしていない素振りをし、実際オーディションに受かる自信がなかったチュルグは自分の音楽が周りに認めてもらえただけで友達のことをそれ以上考えられないほど高揚していた。

それからというものトンスクは一応楽団の予備メンバーになったが、憧れのオーケストラで晴れ晴れしく大ホルンを吹くチュルグを見ると胸が苦しくなって、そのうち練習を休み洞穴に入り浸るようになった。そして一年が過ぎ、トンスクも卒業して仕事を探す時期になった。チュルグは猛練習の甲斐もあって、上手くいけば街の楽団に参加できる程までになった。それに引き換えトンスクは洞穴での独り稽古ばかりで、アンサンブルのコーチからはいつも注意を受ける始末。そのうち「お前には才能がない」とまで言われてしまい、意地と勢いで予備メンバーまでも辞めてしまった。そうはいってもやはり夢は捨てきれない。洞穴にいても交響楽のメロディーが耳に甦ってくるし、それでなくても年老いた母親と自分の将来のことを考えるといたたまれなくなって仕方ない。トンスクにはどうしたらいいか皆目分からなかった。そんなときトンスクは洞穴の湿った壁に額をつけて、じっと何かに耳をすますしかなかった。

ある日、トンスクは母親と進路のことで大喧嘩してしまい、そのまま家を出て駅まで飛び出してきてしまった。しかし切符を買うお金はないし、そうかと言って今更母親に詫びるのも癪だったので、その足で洞穴まで行き、そこでしばらく生活することにした。

洞穴の生活は始め思った以上に快適だった。好きなときに起き、好きなときに寝ればいい。腹が減れば近くの畑から果物や野菜をちょっと拝借してくれば済む。トンスクにはそんな暮らしの中で「自分は自由を手に入れたんだ!」、そんな気持ちにまでなった。ところがしばらくすると思い出されるのは母親スンニのこと。それから親友チュルグのこと。そして何よりも自分のこれからのことだった。

「ああ、なんでこんなに苦しいんだ。この前まで『こんなに自由で気ままな暮らしはない』って喜んでいたのに…」

日々の気ままな暮らしの中で、そんなこんなの事がまるでトンスクを急き立てるように頭の中でぐるぐる走り巡って、彼の心はだんだん落ち着きを失っていった。「ああ、誰かこの頭の中の音を静めてくれ。煩くって仕方がないんだ」淋しさと不安に居た堪れなくなったトンスクはこっそり家に帰ってみることにした。すると近所で母親が他所のおばさん連中と話しているのを見かけた。

「おたくの息子さん、最近見かけないけどどうしたの?」

「え?ああ、うちのトンスクは学校でいい成績だったもんで、今は都会の大学に勉強に行ってるんだよ。それに音楽の才能もあるからしばらくは外国へ演奏旅行に誘われているようだよ。それがあの子の子どもの頃からの夢だったからねえ」

 トンスクは驚いた。そして洞穴に飛んで帰った。「なんてこった!母さんがあんなデタラメを言いふらしたら、ボクは一生家に帰れないじゃないか」

 しかしトンスクも本当は分かっていた。母親がご近所の手前、ああ言わざるをえなかったこと。そして嬉しくも自分の夢をちゃんと覚えてくれていたことを。悲しかった。家に帰れなかったことじゃない。「今の自分の気持ちを分かってくれてる者は誰もいない」そう思えて仕方がなかったのだ。

「みんな、みんな無くなってしまえ。そうすれば全てが最初から始められるんだ。そうすればボクだって…ボクだってやり直せるんだ。きっとそうだ」

 そのトンスクの叫びが洞穴の中に鳴り響いた時、外で今まで聞いたことがないほどの大きな音がして、そのすぐ後で洞穴全体がまるで遊園地のメリーゴーランドのようにぐるぐる揺れ始めた。あんまり長く激しく揺れるのでトンスクはいつの間にか洞穴の壁で頭を撃ち、気がついたときは崩れかかった洞穴の中で埃まみれになって倒れていた。

「…ああ、びっくりした。一体何が起こったんだ?」

 トンスクがよろよろ外に出てみると、そこにはあるはずの大抵のものがきれいさっぱり無くなっていた。洞穴に来るまでのクネクネ道も、途中の木立も、見晴らしの丘も何もかもが泥色に染められ、押しなべられていた。

「津波…、津波が来たんだ」

 トンスクはそう呟くと、自分の言葉に跳ねとんだ。家はどうなったんだ?学校は?町は?世界は?

 そして町を見下ろしたトンスクの目に映ったのは本当に何も無くなり変わり果てた故郷の風景だった。まだ周囲には泥水が濁流を作っていて見回ることができたのはほんのわずかな範囲だったが、あたりは不気味なくらいに静まり返り、トンスクには今にも友だちのチュルグが「よお」と元気に声をかけてくるのではないかと想像された。するとそこに大きな金色の塊りがプカプカと流れてきた。棒で手繰り寄せて拾い上げてみるとそれは大ホルンで、逆さにすると中から泥水と一緒に魚が一匹飛び出してきてトンスクを驚かせた。そして思い出したかのようにピチピチ跳ねるとそのまま泥水の川へ姿を消した。

「…僕はひとりぼっちになってしまったんだ。もう母さんもチュルグも学校のみんなも、町の人も・・・みんないなくなってしまったんだ」

 トンスクはとぼとぼ洞穴に歩いて戻った。そして拾ったホルンを自分のタオルでごしごし磨いた。磨けば磨くほどホルンには無数の傷が浮かんでいた。トンスクはその傷ひとつひとつを指先で優しく撫でていった。



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