第6話:亡者傀儡

 明り取り窓を多数脇目に、精緻な意匠を踏み越えて、マフユは幾層分を駆け降る。

 それは疾走と呼べるもの。姿なき風の助けを得て、余人の及ばぬ速度を得て、何者にも差し迫られぬ快走を成す。

 高き塔の側面を蹴り飛ばし、直下へ向けて猛進する少女は、射放たれた矢に等しい。遮る物ない夜闇の中、無心に跳びさす姿は一本の鏃そのものだ。

 揺るがぬ意志と目的と、決意を掲げてただただはしる。只管ひたすらに。


「何か居る」


 僅かな時間に相当距離を踏破して、尚も前進運動を継続しながら、マフユは誰にともなく呟いた。

 両目を細めて進行方向へ注視しつつ、闇の底を睨みやる。

 遥か彼方に望む街の灯はまだ遠い。それよりもずっと手前、これから自分が向かおうとする暗黒の奥に、何かの気配を掴み取った。


「ウフフ、どうやら闇の精霊ちゃんは、アタシ達の来訪を快く思ってないようね」


 姿ないチアキの声だけが、マフユの耳へと届けられた。その声調は隠しようもない悦びに満ち、陰惨な期待へ染め抜かれている。

 兇暴さを有し尚甘ったるい声が耳朶を打った一拍の後、マフユの進路上に予期せぬ雷が落ちた。

 紅く輝く一筋の雷線が、宵闇の狭間から飛来して時計塔の壁面を打つ。その数にして10。

 それぞれが一定の距離を置いて、狙い澄ましたように同じタイミングで降り注いだ。

 紅雷が壁面に達すと、落点から黒い泡状の物体が発生し始める。月明かりをも吸収してしまう黒泡は、上方目掛けてボコボコと盛り上がり、一瞬で肉感的な塊へと成長した。それは闇間に形作られた、奇怪な繭にも見える。それも人と同じ大きさを持つ、特大の繭である。


「なに?」


 突然生まれた不気味なオブジェを、マフユは不審げに窺った。

 この間にも移動速度へ変化はなく、彼女の体は刻々と進んでいく。一歩を踏めばそれだけ出現物へ近付いていき、暗中に浮かぶ黒い異容の詳細までが見えてくる。

 漆黒色の皮膜で覆われた人間大の塊だ。何かしら図柄が入っているわけでなく、立ちはだかる一つ一つに統一性もない。ねじくれ、膨らんだ肉厚の覆いは、完全に内外を隔てていた。

 何が入っているのかは知れない。

 一瞬後、変化は突然に訪れる。

 少女が更なる一歩を越えた時、全ての黒塊が中央へ亀裂を走らせた。それと同時に左右へと押し開かれ、内奥より勢いよく一つの影が飛び出してくる。

 暗色の領域に躍り出たモノ達は、月光に照らされてマフユの視界へ実像を結ぶ。

 それらは人間と思しき面影を感じさせながら、けれど人では到底ありえない異形の群衆だった。

 皮膚は等しく土気色をして、激しくただれている。殆どの肉が腐って削げ落ち、熟れ過ぎた果実に似る悪臭を放った。半分溶けたような表皮は粘性の糸を引き、所々が泡立ちながら次々と滴り落ちる。

 捲れ上がった腹部からは筋浮く腸の残骸がはみ出し、腐臭を吹いて引き摺られていた。壊死えしした消化器系の成れの果てが濁った体液を染み出して、通った後にぬめりくすんだ線を描く。

 奇妙にひねった四肢は異様に長い。折れた、或いは千切れた指の内側から、血に染まる赤い骨が肉を食い破って突き出ている。体内で変形した骨格が肩を部分的に押し上げる所為で、腕の位置も左右で大きく非対称だ。

 骨盤の異常は脚部の形を不揃いにさせ、彼等の歩行能力を著しく阻害する。

 10体の異形はそれぞれに、左右で眼の状態が違う。落ち窪んだ右眼窩から覗く眼球は白濁し、腐敗した水晶体に何も映ってはいない。反対側はまぶたごと欠落し、ただ暗い穴が空いているのみ。

 唇も剥げ、黄ばみと血糊で汚れた歯牙が剥き出しに。首が反れている個体や、90度角に曲がっているモノなど様々だ。

 顔に表情はなく、感情もなく、知性の輝きも生命の尊厳も感じられない。頭髪を残す者もいるが、大部分は頭皮ごと剥離はくりし、頭蓋骨が露わになっている。

 中には頭骨が壊れ、脳髄を零れさせるモノさえある。

 彼等は総じて四肢を張り、獣じみた四つん這いの姿勢で壁面に取りすがっていた。醜悪な異形者が夜の時計塔に張り付く姿は、性質の悪い冗談か、そうでなければ地獄の鍋底を覗き込んだが如き光景である。


「あれは不吉な気配がする」

「亡者の魂に受肉させたのね。なかなかエゲツナイことをするじゃない。アタシ好みだわぁ」


 怪奇の集団へ顔をしかめるマフユに対し、チアキの声は鼻歌混じりで上機嫌だった。


「既に失われた魂の容れ物を、適当に集めた材料で代用したんでしょう。本来の肉体ほど耐久力はないし、無理矢理押し込んだ魂との親和性もない。だから拒絶反応が起こって、あーんなグチャゲチョの半死体になっちゃてるのね。即席の荒技で優雅さなんて欠片もないけど、迷わずに死者への冒涜行為が出来る精霊ちゃんの精神性はス・テ・キ」


 相手の非情な応対に、チアキは歓喜へ打ち震えながら快哉かいさいを上げた。語尾がやたらと甲高く、昂奮の度合いが知れる。

 一方で喜色も露な風精を余所よそに、マフユの藍瞳は不浄者達から離れない。進行方向上で蠢く奇怪なモノ達を真っ直ぐに捉え、冷めた眼差しを射込んでいた。

 いびつな体を揺すって呻く肉塊共もまた、己等目掛けて一直線に迫る少女を腐眼へ収める。

 自意識の知れない虚無的な顔は、観察というよりもただ単眼を向けているだけ。そこに取り立てて意味はないのだろう。

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