第5話:風の加護

 マフユは目を開けて、おもむろに頭上を仰ぎ見た。天空に敷かれた闇の蔽いは果てなく続き、届かぬ高みで星が煌く。

 月もまた先頃からと同様に夜空へ映え、己へ近い空の屹立きつりつを優しく照らす。

 美しい光景だった。幻想的で、感動的な自然の芸術が無償で楽しめる。それは頂を踏んだ者にのみ開示された、最高の贅沢だ。

 至高にして絢爛豪華な星運の営みを茫洋と眺め、少女の記憶は微かに波打つ。

 幼い頃に体験した思い出の一コマが、意思に反して緩々ゆるゆると甦った。

 今と同じ様に空を見上げ、ただただ美しい無限の玄天に魅入るマフユ。その隣には、温かく手を包む母の姿がある。後ろ腰に届くほどの桃髪と、白い装束が印象的な美麗の姿。


 これが脳裏を駆けた瞬間、マフユは空から視線を切った。

 正面の闇を無感動に見据え、次いで足下を覗き込む。

 思い出に浸っている暇を、少女は自分自身へ許しはしない。少なくとも遂げるべき目的が眼前にある状態で、過去を振り返る事は認めなかった。

 マフユは清々しくさえある清涼な気配を保ち、白く端整な面貌をにわかに引き締める。

 引き結ばれた唇が覚悟の程を思わせる折、少女は目をすがめて呼気を吐く。


「大いなる風、チアキの名を持つの形。我が躍進の供となり、逆巻く加護をの身に施せ」


 詠うように紡いだ声が、周囲の大気へ染み渡った。

 それをまじかで聞く該当者は、相好を崩して鬼気と吼える。


「望むところよォ! オーホッホッホッホッ!」


 調子の外れた哄笑が高々と響き、夜闇と渡風を蹂躙した。

 声高の笑いは尾を引いて長く続き、その最中にチアキの体は再び闇へと透けて消える。それと時を同じく突風が吹き乱れ、マフユを囲み局所的な竜巻然として渦巻いた。

 間断ない猛風の煽りを盛大に受けながら、それでも少女は怯まない。平然とした面持ちのまま、今まで立っていた足場を蹴り、虚空へと我が身を投げ出す。

 華奢な体躯が夜空へ放られ、緩やかに始まる落下。直下の地上目指して落ちていく体とは対照的に、桃の短髪や着衣は風圧に押されて進路の逆方へ激しくなびいた。

 少女の体は真っ直ぐに降下する。止まらずに落ち、ただ下方へ進む。傍近くで時計塔の外壁が高速に流れていき、風を切って下るマフユ自身へ速度の程を認識させる。

 その途上、不意に彼女の背中から白い翼が現れた。ブレザーの背面部を破るわけでなく、白鳥か、はたまた天使かという純白の大翼が輝きと共に伸び出す。

 翼はマフユの両腕よりも更に長く、盛大に広がって一度大きく羽ばたいた。

 しなやかにたわみ、下がり、即座に引いて、起き、伸びる。一連の動作は一瞬のうちに行われ、その翼動が終わるや少女の落下は止められた。

 細身の体は巨大な翼が生み出す浮力によって支えられ、重力の頚木くびきから解放され空中で静止する。

 そうかと思えば時計塔の壁面へと近付いていき、マフユの両脚は垂直に建つ巨塔の側面へ着地した。すると白い翼は静かに畳まれ、輝きを伴い消えてしまう。

 全ては瞬きの間に起きた出来事だ。後に残されたのは、白翼から抜け落ちた羽が一枚空を舞うのみ。

 風の精霊であるチアキが、契約対象だったマフユの意を受けて与えた飛翼の加護である。


 間髪入れず豪風がマフユを捕らえた。少女の周囲を数巡し、激しい旋音を轟かせ、微細な破片を巻き上げて噛み砕く。

 弱らぬ風はより一層勢いを増し、今度はマフユの四肢や頭、胴体へ巻き付くように分転した。そこからまたも荒ぶるが、数秒も経ず突然に止む。

 自然現象とは思えない異風の終わりに続き、マフユは一歩前へと踏み出した。支えのない空中で、塔の外壁に足を付けたまま。されどその身がバランスを崩し、再度重力の誘いに乗って落下していくことはない。彼女は無事に繰り出した脚を目的の壁面へ到達させ、これを踏んだ。

 一歩目の成功を予期していたのか、涼しげな貌に安堵も歓喜も存在せず。ただ平然ともう一方の脚も進め、差異のない同様の結果を導き出した。

 少女は真っ逆さまに落ちないで、今度の歩も確実に時計塔の側面を踏み締める。

 そのまま更に一歩。次いでの四歩目からは速度も違った。天を突かんと聳え立つ時計塔の外壁面を、マフユはそれが地面とばかりに靴底へ押し、蹴って走り出したのだ。

 垂直に連なる長い壁を下にして、地上へ続く闇の広がりを前方へ見て、普通では考えられない変則的な移動行を開始する。


 そこから数歩目で少女は前傾姿勢となり、脚力の限りを尽くして全力疾走に乗り換えた。

 白く細い脚で壁面を蹴り叩き、炸裂する威力のままに体を前へと押し出していく。プリーツスカートが捲れ、剥き出した大腿が高く上がる。次には艶かしい脚は下り、反対側が健康的に跳ね上がる。同じ動作を違わぬ間隔で繰り返し、マフユは前へ前へと駆け進んだ。

 全ての情景が、あっと言う間に後方へ流れていく。今の彼女は小柄な女性からしては、驚異的とも言える速度で走っている。

 それは少女自身の身体能力に、超常の力が上乗せされた結果であった。

 風の精霊チアキは自らの肉体を分解し、見えざる旋風となってマフユの全身を包み込む。彼女が重力に逆らっていられるのも、チアキが与えた静かな突風が浮遊力を生み出し、少女の体へ纏わりついているからに他ならない。

 同様に風の力がマフユの推進力として働き、常人以上の高速移動を実現させてもいた。空気抵抗の一切とてチアキの加護で取り払われ、少女をさいなみはしなかった。

 彼女は走る。ただ前だけを見据え。けして止まらず、歩を緩めず、駆けた。

 駆け続けた。

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