第2話 バタフライエフェクト


 目を開けた時には、確かに、すべてが戻っていた。

 同じ制服を着た人間が詰め込まれた教室は、大人になってから戻るとひどく奇妙なものに感じる。

 おかしくない程度に、目を動かし教室を確認する。

 机は後ろにまとめて重ねられている。文化祭の飾り付け。黒板に書かれた日付。カレンダー……サヤはここが高校二年生の時の文化祭だと理解した。


「……今更、制服は恥ずかしいなぁ」


 混乱した頭が吐き出したのは、そんなどうでもいい感想だった。

 何をすればいいのか。分からない。

 いや、この日の理由は分かる。二年生の文化祭は、祭が有名になる発端だ。

 だけど、ここでどう動けば、上手くいくのか。

 それが分からなかった。


「サヤ? どうかした?」

「祭」


 呼びかけられた声に、自然と声が出た。

 日向灘祭は可愛らしい少女だった。生まれつき色素の薄い髪の毛をポニーテールにして、規則に引っかからない程度におしゃれな髪留めをつけていた。制服のスカートは少しだけ短い。

 全体を通してみれば、今どきの女子高生。それを体現したのが祭だった。

 祭は枠から外れない可愛さを表現するのが、とても上手い。

 自分を真っ直ぐに見つめる視線に、懐かしささえ感じた。


「今日は一緒に周る予定でしょ?」

「そうだったっけ?」

「そうだよー! 酷いなぁ」


 身長はほとんど変わらないのに、祭は上手に上目遣いをしてくる。

 この愛想の良さはサヤだけのものではない。日向灘祭は、全方位に愛想が良い人間だった。

 酷いと口にしながら、温かいのだ。

 もちろん、忘れてはいない。高校の三年間、どころか大学になっても、文化祭と名の付くものはすべて一緒に見たのだから。


「人が多いからね、帰っていいなら帰りたい」

「サヤはもう少し人に関心を持って」

「祭がするから、十分でしょ」

「もう、仕方ないなぁ」


 サヤは他人に興味がなかった。欠片も。

 祭のように周囲の人と関われたなら、また違う人生もあっただろう。

 だが、一人でいることに何ら苦痛を感じない人間が、今更変えられるものでもない。

 つまり、サヤは高校時代からとても冷めた人間だったのだろう。

 だが。


「どこ行くの?」

「珍しい、サヤが聞いてくれるなんて……!」


 目を見開く祭にサヤはため息をつく。

 祭とのやり取りの間に、視線が集まってきていた。

 祭が一人になるなら、誘おうという魂胆が空けて見える。

 サヤは驚いた顔をしている祭の手を引いた。


「聞かなきゃ始まらないでしょ……ほら、時間ないよ」

「あ、待ってよ」


 祭がサヤを追いかけて来る。

 教室から出る瞬間に、サヤは顔だけで教室を振り向いた。

 こちらを見ていた人間を確認。誰も彼もサヤと目がある前に顔をそらす。

 失礼な奴らだ。

 サヤはすぐに興味を失って、廊下に出た。


「まずは」

「あ、祭先輩! 寄ってってください」

「展示? いいよ?」


 歩いて、数歩。冗談じゃなく、その短距離で祭は声をかけられた。

 どうやら後輩の様で、祭は内容を確認することもなく頷いて歩いていく。


「祭ちゃん、これ食べてって!」

「わぁ、ありがとうございます。美味しそうですね」


 屋台の前を通れば、名前も知らない先輩にチョコバナナを押し付けられ。


「祭ちゃん、コンテスト、どう?」

「あはは……恥ずかしいので」


 コンテストを運営している人には、飛び入り参加を頼まれる。

 祭と歩くだけで声をかけられる。ずっと繰り返された光景だ。

 サヤはそれを遠くから見て、祭が戻ってくるのを待つだけ。


「相変わらず、忙しいねぇ」

「そうかな? 声かけてくれるんだし」

「私だったら声かけられる前に逃げるけど」

「サヤの方が、色々できるんだから、逃げる必要ないのに」

「無理無理」


 サヤは顔の前で軽く手を振った。

 できる、できないは関係ない。面倒なことはやりたくない。それだけ。

 祭とサヤは根本の感性が違っている。なのに、サヤにとって祭は、時折とても眩しく見えるのだ。


 祭といるとサヤはいつも不安定だった。まるで体の半分を熱湯に、残り半分を氷水につけられているような気分になる。

 少しでも気を抜くと、とても不快になりそうで、だけど、真ん中の部分だけは、とても心地よい。


「だいぶ回ったし、一回、中庭に戻る?」

「そうだね。そうしようか」


 祭の言葉にサヤは頷いた。

 乾いた口を誤魔化すように唾を静かに飲み込む。

 ここだ。この場面で、祭とサヤは子どもを見つける。

 緊張の糸が巻き取られていくように、体に力が入っていく。


「祭は、有名になりたい?」


 ゆっくりと自分たちの教室に戻りながら、サヤは尋ねた。

 前はきっと尋ねなかった。

 だけど、祭の人生を変える前に聞いておきたくなったのだ。


「んー、どうかな」


 サヤの知らない祭が、首を傾げる。

 数歩先を歩く彼女の後ろから日が差し込んだ。

 逆光の中で、祭は確かに笑っていた。


「サヤと一緒に色々できる方が嬉しいって言ったら?」

「嬉しいよ」

「え……?」


 サヤの言葉に、祭は笑顔のまま固まった。

 今まで決して口にしなかった言葉は、効果覿面で。

 サヤは顔に熱が上るのを抑えながら、祭を見守る。

 階段を、祭が数段下りる。身長差はなくなった。


「サヤ、それって」


 目を丸くした祭が、何かを言いかけた。

 その瞬間、祭は前と同じ運命を見つけてしまう。


「あれ……? あの子、一人かな?」


 振り返ったサヤにも5歳くらいの子が、階段で遊んでいるのが見えた。

 危ない、と思った瞬間に、世界はその方向に進みだす。

 階段を踏み外した子供の体が大きく傾いた。

 サヤと祭以外、気づいた様子の人間はいない。

 サヤの隣を祭が駆け抜ける。


「ちょっと行ってくる!」

「祭っ」


 ダメ、とは言えなかった。

 前も祭は子供を助けている。その時、サヤは見つめているだけだった。

 動けなかったのではない。動かなかった。

 助けたら、面倒ごとが起きるーーそう思ってしまった自分は、心底冷たい人間なのだと思う。


「あぶないっ」


 祭の手が伸びる。

 どうにか、子供を掴むことができた。

 が、走った反動を殺しきれなかったのか、祭の体が傾きだす。

 このままでは、一緒に落ちてしまう。

 実際、サヤが追いかけなければ、二人は一緒に階段を落ちる。

 奇跡的に大した怪我はなかったが、周囲は騒然とした。子どもの親には感謝され、小さく新聞にまで載った。


「駄目っ」


 そこから祭の人生は、勝手にシンデレラストーリーを走り出してしまう。

 周りからは勇敢な少女扱いされ、親切をしないわけにはいかなくなった。

 祭は人助けを止めるわけにはないし、注目は集める。

 その結果が少しずつ、雪だるま式に増え、ついには祭はテレビにも出るようになったのだ。


「ーー」


 だから、サヤは追いかけた。だって、それを変えるために、ここに来たのだろうから。

 祭の口が動く。音は聞こえない。

 ただ、名前を呼ばれている気が、サヤにはした。

 こんな小さなことが影響するかも分からない。だけど、今のサヤは上手くやるしかないのだ。

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