つま先の勇気-幼馴染の女の子を取り戻すために-
藤之恵
第1話 日向灘祭の自殺
『日向灘祭さんが死亡しているのが見つかりました。自殺とみられております』
椎名サヤは、ラーメンをすすっていた手を止めた。
レイ話の時代にはなかなか見ない分厚いテレビが高い所に掲げられていた。
画面を見上げる。すでにニュースは切り替わっていた。
サヤはどんぶりの奥に隠れていたスマホを引っ張り出し、画面を何度か叩く。
「日向灘祭って、あの御曹司と交際してたっていう?」
「この頃、よくテレビとか雑誌でも見かけたのにね」
「こんなに活躍してるのに、自殺なんて」
「ねぇ?」
サヤよりテレビの近くにいた二人組が大声で話している。合間にラーメンをすするからスープが飛んでいそうだ。
日向灘祭のことを微塵も知らないくせに、よくそんなことを口にできるものだ。
表に出るのは、人の一部分でしかないし、テレビの向こうの人間なんて、ほとんどの人間に関係がないだろうに。
サヤの目の前でラーメンが徐々に伸びていく。それを見つめる店主の視線が刺さるようだ。
だが、サヤはスマホを叩くことを辞められなかった。
ニュースが出る。聞き間違いでも、何でもなかった。
日向灘祭が死んだ。
それを見て、サヤはやっとラーメンに再び向かい合った。
「お会計、お願いします」
伸びたラーメンを食べ終わり、外に出る。
テレビの前に座っていた二人はとっくに外に出ていた。会社に戻るにはまだ余裕があった。
お腹はいっぱいなのに、足に力が入らなかった。
「あ、すみません」
「危ないよ!」
正面から歩いてきたおじさんに、ぶつかりそうになる。かろうじて、スーツを着ていたから不審者扱いは免れたようだ。
ぶしつけな視線が痛い。
歩くのを諦めて座る。空を見上げる。摩天楼が青い色を不格好な四角に切り取っていた。
ぼんやりしていたら、カバンの中でスマホが振動する音が聞こえた。
「もしもし?」
『もしもしっ、あんた、祭ちゃんのこと知ってた?』
大きな声が耳を突き抜ける。
祭のことは、どうやら全国ニュースだったようだ。
宮城にいる母親から電話がくるくらいなのだから。
「……今テレビで見た」
『同じ東京にいたんでしょ? 相談とか乗ってあげなかったの?』
「やめてよ、母さん。私と祭は幼馴染だけど、就職してからは会ってないし」
祭のことを気軽に話せる気分でもない。
就職してから、もう8年は経つ。8年あれば、人は変わる。
『本当に? あなたたち、いつもこっそり連絡取りあってたじゃない』
「そりゃ、幼馴染だから、連絡くらいとるでしょ。でも、このことは本当に知らないの」
『祭ちゃんも有名になって大変だったみたいだしね』
「そうだよ。私が会いたいって言っても、祭が会えない時が多かったんだから」
実を言えば、連絡自体は取っていた。
とはいえ、向こうから連絡が来るだけで、サヤからかけたことはない。
それでも週に一回は連絡が来る。サヤもそれに返す。それだけ。それだけで8年を過ごせたのは、ひとえに幼馴染だからだろう。
祭とは大学まで、小さい頃からずっと一緒だった。
『なに、その年になっても、拗ねてるの?』
「拗ねているわけじゃない」
どこをどう聞き取ったのか、母親がそんなことを言ってくる。
サヤは見えないのに、首を横に振りながら答えた。
「ちゃんと、確認しておくよ。私も祭が死んだなんて、まだ、信じられないんだから」
『そうよね。ごめんね、びっくりしちゃって……あんたも気落ちせずに、ね』
「うん、ありがと」
信じられないと信じたくないが混ざり合って、何も考えたくなかった。
動転していた母親も、サヤが口にした信じられないという言葉に、はっとしたように声が低くなる。
慌ててサヤを気遣う口調に、逆に居心地が悪くなった。
「祭が、死んだ」
母からの電話を切っても、しばらく画面を見つめるしかできなかった。
口にしても現実感がない。
祭と最後に連絡を取ったのは――メッセージアプリを開く。
最後のやり取りは、3日前。
吹き出しに囲われたメッセージに目を細める。
『プロポーズされた、どうしたらいい?』
絵文字もない短文。祭とのやり取りはいつもこんな感じだった。
受ければいいじゃん。そう返したのは自分だ。まったく、馬鹿なことをした。
断って、とサヤに言って欲しかったのも知っている。
断って、とサヤが言えば、祭は死ななかったのかもしれない。
全ては推測。確実なことは、祭がいないこと。
だけど、祭がいない世界は、サヤにとってびっくりするほど味気なかった。
「来ちゃった……ってか」
風が強く吹いている。
祭とも一緒に来たことがある場所は、なんてことはないマンションの屋上だ。
サヤが住んでいる物件で、前は祭も住んでいた場所。大学の途中で彼女は引っ越した。
就職までは、祭はよくサヤを訪ねて来た。そのときに「来ちゃった」と、どこの彼女よりも甘く言うのだ。
そのたびに、サヤは甘くてドロドロしたチョコレートを飲まされる気分になった。
一体、祭はどんな気分で、それをしていたのか。
聞けなかった。そして、もう永遠に聞けなくなった。
「日差しは良好。空は青いし、なるべく早くに追いかけた方が、祭も待っててくれそうだし」
後悔する暇はない。
サヤは高校のあの日から、ずっと後悔を積み上げてきているのだから。
つま先半歩、屋上から飛び出させてみる。
下から吹く風に体が押し戻される。
怖くない。この時点で、自分の心のどこかは死んでいるのだろう。
「祭」
今行く、なんて都合が良すぎるだろうか。
待っていて欲しいなんて、祭が生きていたら絶対に言えなかった。
サヤはつま先で屋上のヘリを勢いよく押した。
抵抗がなくなる。耳元で風が痛いくらい髪を巻き上げた。
瞬間、音がなくなった。
「人って、たまに、びっくりするくらい、大胆だよね」
「誰?」
「君には関係ないかな」
「そう。で、祭には会わせてくれるの?」
衝撃も、痛みもない。静かな空間に目を開けたら、目の前には10歳くらいの少年がいた。
周りには何もない。ただの白い空間。
死ぬなんて、こんなものかと思った。
少年はサヤを気にせず、ゆっくりと笑う。
「もちろん、君は日向灘祭に会うことができる。自殺は困るんだ、とても。これは自分の命を投げ出す人間への、一種の救済措置だよ」
救済。そんなことが可能なら、救われるべきは自分ではなく祭だ。
祭は多くの人に必要とされる人間で死ぬ必要なんてないのだから。
「祭は誰かのために自分を犠牲にできる子だった」
「ああ、そうだ。他ならぬ君がそうさせた。だから、死んだ」
少年の言葉に体全体が重くなったように感じた。
「おっと、死をもって償うとか、止めてくれよ? 天界は寿命以外の死亡だと、しばらく入れないからな」
「せこいわね」
「じゃなきゃ、幽霊なんて生まれないだろ」
妙に現実的な設定だ。天界は定員制らしい。
肩を竦める少年にサヤは目を細める。
「君が今から行く場所で上手くやれば、日向灘祭は生きることができる」
「祭を助けられるのね」
「ああ、上手くやればね」
「上手くやるわ」
祭を死なせずに済むなら、サヤは何でもするだろう。
ずっとこじれ続けた感情を清算できるなら、すっきりする。
間髪入れずに言いきったサヤに少年は満足そうに微笑んだ。
「じゃ、いってらっしゃい」
見送られて、今度こそ、サヤの意識は落ちた。
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