第8話 掃き溜めの世界で毒を吐く

 蛙田(かえるだ)は墨汁のような、絵の具のような匂いに囲まれて目が覚めた。ずっと洗われていない服の匂いだ。カーテンが閉じた室内には、パソコンゲームの箱や放置された服がごちゃ混ぜに積まれており、隅の方はうっすらと埃をかぶっていた。

 蛙田はベッドから起き上がり、照明をつける。

 充電コードが差しっぱなしのパソコンを立ち上げると、右上に今日の日付が表示される。二月十四日。忌々しい日だ。たまらず舌打ちが出る。

「バレンタインか。バカップル共め」

 企業のマーケティング戦略の一環で作られた癖に。カップル共は隙あらばいちゃいちゃしたりイイことしようとしやがる。下半身に忠実なケダモノめ。お前らみたいなのが脳もなく繁殖するせいで、能無し人間が社会に蔓延るんだよ。

 学生時代の嫌な記憶が蘇る。目を閉じれば昨日のように思い出せてしまう。バカ共達の、女子からもらえたチョコの数自慢。チョコをこそこそと持ち込む謎にテンションのおかしい女共。何より学校全体に静かに広がる妙な雰囲気。そんな時に堂々と勉強できるはずもなく、仮病を使って休んだ。

 思えばそれが、今の日常に繋がっていたかも知れない。

「くそっ」

 重い体を起こしてカーテンの方へ寄り、隙間から外を覗く。外にはジジババが散歩をしているだけで、子供の姿はいない。平日だから学校があるのだろう。

「ふん、どうせまともに勉強するはずないさ。クラスメート同士で遊んだり、馬鹿やっているんだろ」

 俺はそんなことはなかった。時間さえあれば教科書やノートに目を通し、親に言われるまま勉強に打ち込んだ。外で遊び奴らを横目に、教室で一人だけの時間ほど至福なものはなかった。おかげで中学、高校、大学の受験戦争を難なく勝ち抜いて来れたのだ。

 気分を変えようとパソコンフォルダを開く。公園で得た収集物がずらりと並ぶ。公園に来るガキ共、とりわけ顔はいい女児のスカート内を撮影した写真だ。

 いずれはもっと際どいものも狙ってはいるが、今はここらが限界だ。バカ親の監視がザルなおかげだが、逮捕でもされれば社会的に終わりだ。

(ムショ生活は地獄だろうなぁ)

 社会の底辺が集まっている上に、更に階級ができているらしいと、ネットで見たことがある。どこまでも人間とは愚かなやつだ。

(特に俺……てやかましいわ)

 蛙田は誰にともなく自己弁護を始めた。今の自分は引きこもりのニートの社不(社会不適合者)だが、大学までは本当に順調な人生だった。交友関係を対価に得た莫大な時間を資格や勉強に惜しみなく注ぎ込んだ。そうすれば、親は喜んでくれたから。

 しかし就活が全てを狂わせた。ロクに人と話さなかったツケが、不採用通知という形で返ってきた。誰も履歴書の上に並ぶ、蛙田の血の滲むような努力を見てくれなかった。社会は学校の場で勤勉さを求めつつ、学歴に秀でた彼を拒絶したのだ。

 それから、蛙田は偽善まみれの社会に嫌気が差し、実家に引き篭もる選択をした。

 気づくと、時間は十二時半を指していた。写真の並ぶフォルダを閉じて耳を澄ませる。階段を上がってくる音がしない。いつもなら母が食事を持ってくるはずなのに。

 ため息をつきながら大きく肩を落とし、足を使って床にある物を隅に押しやる。木製の床が見えてくると、その上で何度かジャンプした。かなり築年数が経った古い家らしく、蛙田が跳ねる度に全体が軋んだ音を立てた。

(早くしろ、家が倒れても知らないぞ)

 うちの母は五十代でパートかどこかに出ることがある。外に出るならあらかじめそう言うはずだ。どこへもいく場所がない哀れなババアに、自分が給餌という仕事を与えてやっているのだ。きちんとしてほしい所だ。

 六回ほど跳ねたところで息が上がったので、その場で座り込む。無様に息を整えながら耳を澄ませるも、返事どころか一切の物音もない。

 蛙田は舌打ちをして立ち上がった。

「あのババア」

 階段を乱暴に駆け降り、キッチンの戸を開ける。母はいない。別の部屋にいないか探し出す。次々と戸を開けては、壊れる勢いで乱暴に閉めた。扉の悲鳴のような開閉音と、自分の荒い息遣いだけが、室内に響く。

 蛙田は一周してキッチンへ戻ってきた。ようやく今家にいるのが自分だけということを理解し、蛙田は苛立ちのあまり壁を殴った。バキバキッと木が割れ、くすんだ壁に穴が空いてしまった。思いの外力が入ったらしい。

「いって」

 手に刺さった破片を払いながら舌打ちする。

「ババアめ、この俺を雑に扱いやがって」

 帰ってきたら壁みたいに一発ぶってやろうか。やるならボディーにしておこう。稼ぎ役は父がいるし、最悪死んでもいい。親より子供が早く死ぬことは親不孝に当たるらしいから、子供より先に死なせるのも孝行にあたるだろう。多分。

 早速その状況をシュミレーションしながら、二階への階段に足をかけた時だった。

ピンポーン

 チャイムが鳴った。珍しいと思い、足を止めた。

(郵便か? 面倒だし、居留守にしようか)

 新聞でも取っていたっけと首を傾げる。すると続けて男の声がした。

「すみませ〜ん。蛙田さんの家であってますでしょうか?」

 いかにもそうだ。この辺で同じ苗字の者はいない。だが声の調子からして郵便ではない。出ようか否か迷っていた次の瞬間、戸口が強く叩かれた。

「なあ、俺知ってるんだぞ。お前が公園で、子供相手にやってること」

 蛙田は動きを止めた。背後で戸口がギィィと開く。誰かが入ってくる。

「お、いるじゃん」

「すみません。お邪魔します」

 手足がガクガクと震え、呼吸が乱れる。

(やってることと言ったらアレだよな。なぜバレた? どうやって?)

「こっち向けよ」

 言われるまま振り返る。男とガキが二人並んでいた。ガキの方は茶封筒を見せびらかすように掲げ、男の方は白い箱を両手で大事そうに持っていた。

 どちらもただの一般人という感じだが、蛙田は彼らと目を合わせた途端に身体の自由を奪われた。まるで蛇睨みにあったかのように。ガキは意地の悪い笑みを顔いっぱいに浮かべた。

「お前で間違いないな」

「急に押しかけてしまい申し訳ありません」

 男は丁寧にお辞儀すると、一歩前に出た。柔和な笑みを浮かべていたが、目の奥には鋭い光が宿っていた。

「少々、お時間頂けますでしょうか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る