第6話 後日談
ビリーはあれから自習室に来なくなった。先生の体調を心配して、学校以外は部屋で看病をするようになったという。僕も自習室には行かなくなった。
鞄を持って学校の外に出る。
雲一つない青空の下で、ママがバスケットを持って立っていた。
「ジェイコブ、学校どうだった?」
「それいつも聞くよね。楽しかったに決まってるでしょ?」
「えぇ、そうだったわね」
「じゃ、ビリーの家に行こう!」
ママはバスケットを片手でしっかりと掴み、空いた手を僕と繋ぐ。こうして二人で歩くのは、とても久しぶりのことだった。
「今日はとても天気が良いわね」
「うん。きっと、夜になったら星がたくさん見えるんだ」
ママが楽しみねと笑う。バスケットの中からは、ほのかな甘い匂いが漂っていた。焼き立てのお菓子だけが持つ、皆を幸せにする匂いだった。
西側のアパートは今日も薄暗い。窓も全て締め切られていたが、その中の一つが開き、ビリーが顔を出した。
「いらっしゃい二人とも!上がっておいで」
「ありがとう。ビリー君」
ママが丁寧に頭を下げた。
「先生の調子はどう?」
「今日はいい感じ!」
それから僕達は階段を登った。三階から見える景色は今日も変わらない。
遠くの基地と四角く区切られた広い土地。
ママは通路の端に寄りかかり、その先を眺めた。僕も隣に並ぶ。時折ママは何か言うように口を動かしたが、何を話しているかは聞き取れない。
少なくとも、その横顔から怒りや悲しみは感じ取れなかった。
風で髪の毛がふわっと広がり、ママの青色の瞳が微かに潤む。
きっと、向こうで眠っているパパへ何かを語りかけているんだ。自分達は元気だよ、安心していいよと。僕はそう思うことにした。
室内はいつものように綺麗に整頓されていた。ビリーは嬉しそうに僕らを歓迎してくれた。
「今日も来てくれてありがとう」
「こちらこそ」
ママが軽く会釈する。
「先生も呼ぶね」
ビリーが先生と呼ぶと、隣の部屋から顔を覗かせた。前に来た時よりかなり痩せており、ワンピースの袖から覗く腕は青白くかった。
「今日も来てくれたのね、ありがとう」
先生は僕らに向かってそっとお辞儀した。一つにまとめた金髪が、パサパサと揺れていた。
「ビリー、お客様に紅茶を淹れてあげて」
「はーい」
ビリーは僕らを椅子に案内し、ティーポットとカップを用意した。鼻歌を歌いながら、紅茶を注いでいく。
「先生に淹れ方教わったんだ〜」
僕は一口飲むと、本当だと返した。最初は渋みしかなかったが、今では茶葉の甘みをしっかり出せている。
ママも感心しながら頑張ったのねと褒めた。
「じゃあお茶請けを用意するわね。あなたの好きなアレをご馳走するわ」
「わーい!」
ビリーは大喜びで四人分の皿を持ってくる。ママはバスケットの中から袋を出し、丁寧に広げた。シナモンの辛みと生地の甘さがふわっと広がる。よく焼けた薄茶色のお菓子は、ビリーがいつも食べているジンジャークッキーだ。
ビリーが歓喜の声を上げた。
「今日はいい感じに焼けたのよ。自分でもびっくりしたわ」
僕は皿を三枚取り、クッキーを乗せていく。自分の皿には少しだけ。
「食べていい? ね、食べていい?」
ビリーが目をうるうるさせて僕達三人を見る。先生が困り顔で首をすくめた。
「もう、そんなに慌てないの」
「もちろんよ。自信作なの。感想を聞かせて欲しいわ」
「やったー!!」
ビリーはクッキーをつまみ、口に放り込む。そしてんーっ!と目を固く瞑り、頬を手で押さえた。
「美味しい!!とっても美味しい!!先生もぜひ食べて!」
先生も促されるまま口に運ぶ。三分の一を齧り、味わうようにゆっくりと咀嚼する。
「上品な味ね。私のより美味しいかも」
「先生のも美味しいよ〜!!」
僕は大声ではしゃぐビリーの様子を見つめた。
何故だか分からないけど、ここ最近ビリーはすごく明るくなった。学校ではいつも通りなのだが、このアパートにいる時だけは別人のようだ。こっちが本来の彼なのかも知れない。
ママに視線を移す。パパの本当の気持ちを聞いた時は、泣いて怒ってを繰り返していたが、今では以前の優しさを取り戻していた。
ふとママと目が合う。優しさを帯びた眼差しで僕を見つめ、ゆっくりと瞬きを繰り返した。僕も見つめ合ったまま、真似をした。
僅か数秒の時間が、妙に長く感じられた。
先生がビリーを撫でる手を止め、ママへ向き直る。
「ねぇ、エリーさん。少しいいかしら」
「はい。どうかしましたか?」
ママを隣の部屋へ連れて行き、何か話し始めた。僕はそっと耳を澄ませようとしたが、ビリーに妨害された。
「ジェイコブもどーぞ」
口元にクッキーを差し出される。
「美味しいよ」
言われるまま口に含む。軽い食感、柔らかい砂糖と小麦の甘さ、シナモンの弾ける香り。ビリーの言う通りだった。僕は彼と笑いあった。
「美味しいね」
ジンジャークッキー 桜橋 渡(さくらばしわたる) @sakurabasiwataru
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