第3話 心当たり
最初にビリーが来てから何日経っただろうか。今日も彼は僕の横に座り、猛勉強し、ジンジャークッキーを摘む。あのお菓子らしくもないスパイシーな香りに慣れることもできず、いつものようにさりげなく顔を背ける。
ビリーがクッキーを齧る度に、サクサクと音が鳴る。リスが胡桃を食べるような、軽い音。
席を替えようかと何度も思ったが、それじゃ彼に悪いので我慢した。悪いのはジンジャークッキーであって、ビリーじゃない。
(早く食べ終わらないかな)
僕が横を見た時、ビリーと目が合った。彼があっと声をあげ、肩をぴくっと動かした。
「どうかした?」
「う、ううん」
僕は急いで姿勢を正した。さっきの僕は、きっと不機嫌な顔をしていただろうから。
ビリーはしばらく目をぱちぱちさせていたが、やがてクッキーの袋と僕の顔を交互に見つめ出した。
「食べる?」
「あ、大丈夫!」
むしろ逆だ。ジンジャークッキーにはいい思い出がないのだ。
「僕苦手なんだ」
「どうして? 美味しいのに」
しまったと思ったが、もう遅い。ビリーは勉強の腕を止め、椅子の向きを変えて僕に向き直った。クッキーの入った袋に手を入れ、少し前のめりになりながら。
「スパイスが苦手なの?」
「そうじゃないんだけど、なんて言えばいいんだろう……」
人前で話すにはかなり重い。だが、ジンジャークッキー好きのビリーを納得させるには、真実を話すしかないだろう。
「長くなるけどいい?」
「いいよ」
僕も椅子の向きを変えて、ビリーに向き直る。浅い深呼吸を一つ。
この話を他人に聞かせるのは、初めてだった。
瞼の裏にパパとママと僕と、焼きたてのクッキーが浮かぶ。
「僕のパパは戦争で死んだんだ。それまでママと僕の三人家族で暮らしていて、ママはいいことがあった日にはクッキーを焼いてくれた。ママはお菓子が好きだけど作るのは苦手だったけど、クッキーだけは作れたんだ。パパも僕も、ママの焼いたクッキーが好きだったんだ」
「いいママだね。ジンジャークッキーも焼いてたの?」
「ううん。パパはジンジャーだけ苦手だったんだ。理由は教えてくれなかったけど、ママもそれを分かっていたみたいだった」
この頃から、僕も少しジンジャーが苦手だったかも知れない。でも、本当に苦手になったのは、あの出来事が原因だと確信していた。
「でもパパが戦争に行くと決まった日、ママは今まで以上にクッキーを焼いてはご飯の後に出してくれた。その時は食べ物が少なかったから、材料が足りない時は自分の食事を削ろうとしていた。パパが止めなければ、きっとママは倒れるまで続けていたと思う」
「そんなにクッキーが好きだったの?」
「だと思う。前にパパは、ママの料理の中でも一番クッキーが大好きって言ってたから。戦争で頑張れるよう作っておきたかったのかも」
元々、パパは何かを要求することはほとんどなかった。家族の中では一番物静かで、いつもママや僕の話を笑って聞いていた。そんなパパの数少ない要求がクッキーだったから、ママは張り切っていたんだと思う。
でもパパが戦争に行く日が近づくにつれ、ママは憔悴していった。そして、パパが戦争へ行く日に、あれが起きてしまった。
まだ太陽が上らない暗い朝、僕はママの絶叫で目を覚ました。
「ママはその日も、パパのためにクッキーを焼いていた。でも疲れていたせいで、使う材料を間違えちゃったんだ。あの台所に広がる甘辛い香りで、ようやく気づいたみたいだった。ママは、チョコと間違えて生姜を使っちゃったんだ」
ビリーは手元の袋をチラッと見た。その袋に入ったクッキーと、あの日ママの前で焼き上がっていたそれを重ねずにはいられなかった。
「パパは大丈夫!と言ってそれを全部袋に入れた。そして戦争に行ったっきり、帰ってこなかった。ママは嫌いなクッキーを焼いたことをすごく後悔してて、今も心が壊れたままなんだ」
僕はひとしきり話すと、鼻をかんだ。もしパパが、ジンジャークッキーを一枚でも食べて、美味しいよとさえ言ってくれたら、ママも少しは救われただろう。そう思わずにはいられなかった。
話を聞いていたビリーは顎の下に手を当てていた。何かを考える表情だった。
(やっぱり話すんじゃなかったな。こんなことを聞いても、ビリーだって困るだろう……)
今後クッキーが食べづらくなるのは間違いないだろう。
自習室を使うのはこれで最後かと思っていると、ビリーは顔を上げた。
「戦争に行った時、ジェイコブのパパは、どんな服を着てた?」
「え?」
戸惑いながらも、その日の服装を思い返した。
至って普通の軍服を着ていた。パパの所属する軍隊は身なりに関してとても厳しく、ピアスなどの飾りは禁止だったのだ。
元々パパは服に興味はなく、新しい服を買うことに消極的だった。
「普通の軍服だったよ。アクセサリーもなかった」
「クッキーが入った袋は、花柄だった? そして、パパは君と同じ金髪だった?」
「え!?」
思い返すと確かにそうだ。パパは金髪をいつも自分で短く切り、クッキーを入れる袋は、僕が生まれる前から大事に使い続けていた。とにかくお金を使いたがらない人だった。
でも、ビリーはなぜそれを言い当てたのだろう。
「よく分かったね。どうして?」
ビリーはもじもじと体を揺すりながら、あのねと切り出した。彼の幼い顔は、緊張しているような、迷っているような、そんな不安な気持ちでいっぱいに見えた。
「大丈夫だよ」
僕は心にもない言葉をかけた。自分にもそう言い聞かせたかったのだ。
やがてビリーは小さく頷き、小声で切り出した。
「僕、君のパパからそのクッキーを貰ったと思う。その時は親も家もなくなって、すごくお腹を空かしていたから、命の恩人と言っても過言じゃない。そして君のパパは、僕に色々なことを聞かせてくれたんだ」
「本当に?」
「うん。花柄の袋だってある」
僕は自然と席を立ち、見せてと頼んでいた。正直、ビリーがパパに会っていたなんて信じられない。でも、彼は決して面白半分で僕を騙すような子じゃないと信じていた。
「どうしても見たいんだ。そして、パパとビリーどんな話をしたか、聞かせてほしい」
ビリーも立ち上がり、机の教材やクッキーの袋を片付け出した。
「いいよ。先生も家にいると思うから、帰っても大丈夫なはず」
それから彼は目線を落とし、小声で呟いた。
「最近、先生の調子が良くないんだ。だから自習室にいるのは今日が最後かも」
「そっか……」
僕らは学校を出た。青く澄み渡った空が、今日も呑気に僕らを見下ろしていた。
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