第2話 マクラ言葉と赤兎馬


 九州は熊本県、菊池市。

透き通る川が流れる渓谷のはずれに、『馬刺しの哲』は居た。

川の真ん中の岩に腰を下ろし、遠い目で川の流れを見ていた。



「昨日連絡をさせていただきました。山井と申します」


 川岸から、スーツ姿の山井が声をかける。

哲は、返事をせず、山井をじっと眺めた。


「それで……無理なお願いだとは存じておりますが……」


「マクラ言葉はいらねぇ……」


「は?」


「刺身は鮮度が命でぃ……俺をその囚人のとこに連れてけ……」



 同日夜、東京都日野刑務所。


 『赤兎馬の肉』を注文した囚人、細川は、余裕ありげな顔で哲を迎えた。

拘束された細川と哲が、面会室でガラス越しに対座する。


「ども。ありがたいねえ。夢だったんですよ。『赤兎馬の肉』なんて食うのは。

まあ、無理でしょうけどね。ははは」


「……おめえに聞きたいことがある」


「何です?」


「本当に、『食いたい』んだな……?」


 哲にそう言われると、途端に細川は神妙な顔つきになった。


「僕はね、生まれてこの方、親からお肉を食べさせてもらえたことがない。

勝手な親の都合でね……。

この気持ちがわかりますか?」


「『マクラ言葉』はいらねえ……食いてえのかどうかを聞いてる」


「……食べたいですよ。伝説の馬の肉。

 食べさせてくれるんだったら、社会のために死んでやることだってやぶさかじゃござんせんよ」


「……わかった。食わしてやる」


 すると、哲は持参した肉とまな板と包丁を取り出した。

側にいた山井が流石に制する。


「哲さん!? ここで調理を!?」


「……邪魔すんな。刺身は鮮度が命っつったろ……」


 哲はまず肉塊を手に取り、丁寧に表面の筋を削ぎ落とす。白い筋が剥がれるたび、肉本来の鮮やかな紅色が露わになる。

 それはまるで宝石のように輝いていた。哲は次に肉を極寒の氷水に浸す。この過程で余分な脂肪が固まり、肉の旨味を際立たせる。


「これが命を食すということだ」


 冷水から引き上げた肉は、表面に薄く霜が降りているようだった。

 彼はその一片を包丁で整え、1ミリ単位で均等な薄切りに仕上げる。切り口は光を反射し、まるで鏡のようだ。

切り終えた肉を陶器の皿に美しく並べ、その上にみじん切りにした大葉とおろし生姜を添える。

肉の隣には自家製の醤油ベースのタレが小さな器に注がれていた。哲は仕上げに白ゴマを一つまみ振りかけ、僅かな香りを足す。


「……食いな」


 料理は、警官によって細川のいる部屋に届けられた。細川は腕の拘束を解かれたが、

目の前の景色に圧倒され、言葉を失っていた。


「……これ、本当に赤兎馬ですか?」

「刺身は鮮度が命っつってんだろ! 早く食えぃ!!」


「は、はい!」


 彼の声は震えている。それが畏怖なのか、歓喜なのか、山井にもわからなかった。

細川は箸を取ると、慎重に肉を一枚掴み、タレに軽く潜らせた。そして口元へ運ぶ。噛んだ瞬間、彼の顔がわずかに歪む。


「……これが肉の味……美味しい」


 それは単なる味覚の反応ではない。舌の上で溶けるような肉の食感、タレの甘辛さ、大葉と生姜の香りが一体となり、囚人の脳内を駆け巡ったのだ。

彼は一切れ一切れを大切に口に運んだ。最後の一枚を食べ終えると、皿を見つめたまま長い間沈黙した。


「大将。お巡りさん。ご馳走様でした……僕の願いは叶えられました。

 ……覚悟を決めました。ご遺族に……手紙を書かせてください……」


 細川の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 哲はその様子を静かに見守ると、皿をそっと片付けた。


「美味かったかよ」


 そう呟いた彼の顔には、どこか達観した表情が浮かんでいた。


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