ライバルについて
浅野エミイ
ライバルについて
ライバルという存在は果たして必要だろうか? この質問に、私自身は『NO』と答えたい。
ライバルという存在がいることにより、奮起し、上には上がいることを確認し、目標とするということはよくあるのだが、その上の存在を越してしまったときに燃え尽き症候群になり得ると思うのである。それだったら最初から自分自身と戦ったほうが精神衛生上いいのだ。
とは言え、ライバルも同じ目標に向かって励まし合いながら進むものだと善いものではある。何事もひとりで戦うのは孤独である。そう言った場合、「ライバル」というよりも「同志」という言葉のほうが適切であろう。
競い合うことは何事も容易い。敵味方と区別することは楽である。だが、ライバルを「同志」に変え、敵味方なく同じ目標に向かって建設的な切磋琢磨をすることのほうが、明らかに未来を作るだろう。
何事も数値に換算することで目に見えてよいものか悪いものか判断できると勘違いしやすいのだろうが、実際の良きもの、悪しきものというのは数値だけで判断するものではないのだ。名作映画の上映館数が多いとは限らないことと似ているだろう。そこが難しいわけであるから、人はすぐに判断できる数値というものを好む。IQ値や偏差値、テストの点、視聴率やSNSのフォロワー・インプレッション数などがそれに値するだろう。だが、学術的観点から見ると必ずともIQ値やテストの点だけではないことは明白なのである。視聴率だって算出方法が今は違うだろうし、SNSの数値は場合によっては操作もできるのである。そういうことを勘案すると、いかにテストの点だけで張り合うことが無駄だということがわかるだろう。テストの点は、いわゆる目安でしかないのだ。だからこそ、論述試験などがあるわけである。
ライバルという存在はまだしも、その相手と数値で戦うことは、正直なところあまり意味がないのだろうと私は思う。それよりも、いかに自分とうまく戦えるか。自分自身と渡り合えるか。自分に対して恥ずかしくない態度を取り続けられるかのほうが遥かに人や数値と戦うことより難しい。
それだけではないが、難しいことにチャレンジして行き続けるガッツというのは、忘れずにいたいものである。ただし、昨今の日本の状況を鑑みると、人の迷惑にならない範囲でガッツを忘れないことも重要である。ときには負けを認めることも大切であるし、負けを認めたほうが心穏やかになることだってあるのだ。自分自身のチャレンジするものが難関過ぎる場合、チャレンジしてもなかなか成功せずにノイローゼになったり故障することもある。そう言ったときは、ある程度の目安をつけて撤退することも考えておかなくては生きることが苦痛になってしまうだろうし、結果も余計に出なくなるものだ。そして、案外自己目標からの撤退を考えたあとのほうが伸びることもあるだろう。それは実に面白い現象だ。
勝負というものは、昔は命がけであった。だが、勝負をしていなくても、命は軽いものとなってしまった。命がけで戦うということは冷笑主義かもしれないが、現代はそこまでしなくてもいいのである。むしろ助け合って生き続けていかないとならない時代になったのだろうと思う。
ライバルを作り、勝負をするよりも、同志として和解し、己自身を伸ばすことで他者も伸ばしていく。発展して未来を作り出していく。足の引っ張り合いよりもそちらのほうが建設的なのだ。しかしながら、文章にしてみれば簡単なことなのに、なかなかできない人々が案外多いことが非常に残念である。
まだまだ人類の心の育成には時間がかかる。しかしながら、個人の心持ちを正していくことこそ、真に未来というものの礎になるのではなかろうかと私は思う。
ライバルについて 浅野エミイ @e31_asano
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