金色に流す

白くま/Ours.blanc.

金色に流す

「ちょっとビアガーデンでも行きませんか」


 首だけになった先輩が不意に呟いた。

 

 先輩がサボりに誘う時は毎回この言葉を使う。

 すっかり日も落ちて灯りも少ないサークル棟にて、漫研と書かれた看板が下げられた一室。


 部室の扉から顔だけを出した先輩がニヤリと笑う。


「先輩、またサボりっすか」


 僕は多分嫌な表情を浮かべているのだろう。眉間の辺りに強い負荷を感じた。


「まぁ、いいじゃないの。お互い午前の授業が終わってからずっと部室に篭りきりじゃないか。体によくないぞ〜」


「あんたはあんまりいなかったじゃないですか。サボりすぎなんです」


 僕はペンを走らせ続けながら唇を尖らせた。


 我らが漫研は今大学祭の出し物に向けて合同誌として漫画を出さねばならない。それも一人一作品。

 単純にリレー漫画を提出するだけなら簡単だ。一人辺りおおよそ三ページほど書けばノルマは達成できる。後は前後の担当に迷惑がかからないように納期を守ればいいだけの話なのである。真剣に漫画に取り組んでさえいれば、難しい話ではない。


 問題なのは、その真剣に漫画に取り組むという前提の話なのである。


 専門学校ではなく、ただの大学にある漫画研究会などといったところで真剣に漫画に取り組んでいる人間がどの程度いるのか。おおよそゼミや授業で友達を作れずにあぶれた人間が集まるのが体育系や音楽系サークル以外の文化系サークルだろう。

 あぶれた人間が集まって各サークルごとの活動に精を出すのかと言われればそうではない。

 結局のところ、集まった人間たちでコミュニティを作って友達作りに勤しみ、結局は大学生活を謳歌するために利用しているに過ぎないのだ。そのため、この部活で取り組もうと話が出た漫画にも真面目に取り組んでいる人間は少ない。

 部長と副部長、後は僕と先輩くらいなものだ。

 折角趣味が似ているもの同士が集まっているのだから、こうした活動に精を出すのも一つの青春なのではないかと思うものの、きちんとものにしている人間がこの程度の数しかいないあたり、僕は最近同人サークルでもやった方がまだ身になるのではないかと思案している次第である。


 それに、折角真面目に漫画を描くこの先輩も集中力が少ないのだ。一度ペンを握り締めればかなりのものを描き切るのであるが、いかんせん、すぐに飽きてしまうのが彼の悪いところだと思う。


 だからこそ、こうして部活に取り組んでも結局は部室に僕一人という場面が少なくない。結局のところ、先輩も気まぐれに漫画を描きにきては飽きてすぐ帰ってしまって僕のことを一人にするのだ。

 それを恨んでしまっているのか、先輩が就活を始めた暁には、エントリーシートにそのことを書かせてやるというのがこの頃の密かな僕の野望と化していた。


 そんな先輩は今日は戻ってこないかと思いきや、こうしてただ黙々と漫画を描き続けている真面目な僕に向かって扉越しに生首のように顔を差し向けてきたのである。


「そうは言ってもさ。お前もそろそろ腹減ってきたんじゃないの?」


 生首は悪魔の囁きが得意だ。


 確かに今日は午前の授業を終え、学食でうどんの一杯でもかっ食らってからは水すら口にしていない。

 思えば腹は減ってきたし、喉はカラカラである。どことなく気持ち唇すら乾いているような気がする。


「……お互い、締切も間もないのですし……。ちょっとだけですからね」


 僕はペンを机に置くと、どこから出ているかわからないような奇声を上げて背中を伸ばした。


 やがて僕と先輩は部室から闇夜の棟内を抜けてサークル棟の屋上に向かう。


 屋上は全体がウッドデッキ調になっており、サークルでのダンスの練習や憩いの場としても使われる。

 しかし、周囲が木々に囲まれているこのサークル棟では、春から秋にかけて結構虫の数が多くなってしまう。故に暖かい季節になると急に人がいなくなる。

 そんな事実に目をつけて、先輩は入学当初からこの屋上を漫画でのストレス解消に使っていたのである。もっとも、この先輩のストレス解消といえばこの屋上で酒盛りをするばかりであるが。

 夜になって酒盛りでもしてましたでは、学生課から何を言われるかわかったものではない。

 故に屋上に誰かいるかということが少しでもバレないように闇夜の中を手探りで進むしかなくなるのである。


「おかげで、こうして俺たちがいい思いできるんだけどねぇ」


 という先輩の嬉しそうな顔は夏になると僕にとっての風物詩になった。


「Gのつくアレが出てくるわけでもあるまいに、皆神経質なもんですよね」


 僕も先輩に釣られていつしか笑うようになった。

 金のない俺たち大学生にいちいちビアガーデンだの居酒屋だのに飲みに行く金はない。

 ましてや漫研なんぞで漫画に明け暮れる僕みたいな人間は飲みに行くという習慣がそもそもないのだ。

 同期たちみたいにバイトに明け暮れることができれば、或いは頻繁に合コンに誘ってくれる神みたいな友達でもいれば居酒屋との縁ができたのかもしれない。


 現実は無情なのである。大学も二年ほど通い詰めたにもかかわらず、結局は飲み文化なる夜の世界の入り口にすら立てていないのが実情だ。


 先輩のビアガーデンというのは、そんな僕にとっては夜の世界であった。


 初めて先輩に誘われた時はだいぶ怪しげに感じたものの、今では僕にとっても立派なストレス解消となっている。


「ところで先輩、今日はいったいどんなビアガーデンなんです?」


 僕の問いに先輩はにんまりと笑う。

 笑った時の先輩が用意するビアガーデンは当たりが多い。


 いつだったか、冬に部誌を作るといって缶詰になった時は雪の降る中二人でビアガーデンを敢行し、怪しいテレビショッピングで買ってきたとか言っていたタラバガニで鍋をやったものだ。

 結局、雪だらけの鍋で出汁の奥ゆかしさもへったくれもあったものではないが。

 いや、こんな日が落ちてもねっとりと熱気がまとわりつく夜に鍋はないだろう。

 それに、先輩が屋上に準備していたのは鍋もガスコンロも入りそうにないビニール袋二つばかりである。

 先輩がビニール袋から取り出したのはやや大ぶりのパックだった。


「おっ、それは玉手屋の!」


「そそ、今日は結構おまけしてくれたよ」


 大学から最寄りの駅までにはあまり大した店はない。大手のコンビニや地元スーパーくらいがここいらに住む人にとってのライフラインなのだが、そんな中でもここいらに住む人たちが愛してやまない焼き鳥屋がある。それが玉手屋だった。

 玉手屋の焼き鳥は一本一本のタネが大ぶりで食いごたえがある。それに、甘辛くもタレがさっぱりしているので何本でも食べられるのが我々大学生にとってはありがたいものである。

 それに玉手屋は串一本の価格がそれなりなのだ。毎週金曜日になると店がセールを開始する。普段ではワンコインで四本くらい楽しめるものなのであるが、セールになるともう二本程度増やすことができるようになる。


 故にテイクアウト用に用意された在庫は、金曜日では夕方には大抵売り切れになってしまう。三限が終わった頃になると帰りがけの学生や主婦に買い尽くされるのだ。あのハイエナどもが見境なく何本も買って行きやがるせいで、僕たちみたいな部活を真面目に頑張る学生にはこの焼き鳥がひどく希少なものになってしまう。

 僕からしたらあいつらは転売屋と同義だ。許せねぇ。


 だからこそ、玉手屋の焼き鳥をこうして調達してきた先輩は真っ暗なはずなのに輝いて見えた。

 おお、神よ。今先輩が取り出したる焼き鳥はなんともセールの中にも関わらず、千円分程度の串があり、パックを二つに小分けしても蓋を歪に隆起させていた。


「こんな美味しそうなの見ちゃったら、漫画描いてる場合じゃないですね」


 僕は財布からなけなしの千円を取り出して先輩に手渡す。

 先輩はいらないと毎回手を振るのだが、ここに酒も加わるもので、結局千円出しても割り勘分としては先輩の方が負担は大きくなる。

 強引に先輩のシャツに千円を捩じ込むと、先輩は両目を閉じて下手なウインクをした後のようにくしゃと顔を皺寄せた。


「まぁ、払ってくれた分どんどん飲んで食ってくれよ」


 先輩は缶ビールを僕に投げてよこす。先輩は冷たさを丁寧に保ち続けてきたのだろう。缶はしっとりと外側に汗をかいている。僕はすかさずプルタブを引くのだが、少し冷やしすぎたのか少しばかりの明かりに照らされた泡は薄く膜を張っていた。

 僕は待ちきれないと言わないばかりに缶を見つめた。程なくして、先輩が乾杯と小さく呟くや否やそれを口へ持っていった。

 日がな一日水を絶っていた喉に、心許ないうっすらとした泡を突き破って炭酸が鋭く細やかに流れ込む。炭酸の弾ける感覚が、針のように喉奥を刺激する。茹だるような暑さの中、漫画に熱中した本人のせいでネグレクトを受けた体がようやくご褒美を受けたかのように冷気が全身を駆け抜けた気がした。


 すかさず焼き鳥を掴んで口に放り込む。甘辛く煮詰めたタレがとろりと絡んだ肉が歯に当たる。弾力のある肉がぷつりと噛み切れるたびに甘い脂が口の中に広がる。ももを食べたのかと気付いた時にはタレと油の香ばしさが鼻から突き抜けていた。

 この芳香を逃したくない。


 その一心で僕は更にビールを流し込んだ。ビールの苦さにかき消されながら、喉全体が芳醇な香りに包み込まれた感覚に囚われるこの瞬間が食そのものの幸せなのだろう。


「今日も最高ですね、先輩」


 僕は溜息のように感嘆を出した。

 先輩はにこやかに僕を眺めながら焼き鳥を頬張りつつ、良かったと漏らす。


「やっぱ俺のサボりにちゃんと付き合えるのはお前なもんだな」


 先輩もビールを煽ると、溜息混じりに話を続ける。


「いやさ、副部長のやつを以前誘ったわけよ」


「あの人もここのこと知ってるんですか?」


 自分たちだけの世界に他に住人がいる気がして、僕は少し心がざわついた。


「いや、あいつん家の近くの公園。しかしさ、あいつはだめだ」


「なんでですか」


 その言葉に少し安堵を覚える。


「あいつ、このビアガーデンになんて言ったと思う? 『ビールって、グラスで飲む方がいいんじゃないの』だとよ」


「わかってませんね。グラスなら家でやってろって話なんですよね」


「な! しかも家の方がおつまみがいつでも出せていいときたもんだ。つまんねぇってのマジで」

 先輩は思い出したかのようにビールを煽る。ペース的に怒りを洗い流しているようにも見えた。


「つまんねぇのはこの部活もだよ。どいつもこいつも漫画が好きって言っても読むばっか。入り口はそこでいいかもしれねぇけどよ」


「結局描いて上手くなる前に飽きて雑誌の新連載にクダ捲くだけの活動になっちゃってますからね」


「そ! その下手な新連載の足元にも及ばないくせに苦労ばっか覚えちゃって。結局ここで覚えてほしいことをそのまま他人を蹴落とす材料にしちゃってるのがよくないんだよね」


 先輩の言うことはもっともだ。

 ぶっちゃけ、僕が入部して二年目になってこれまで漫画を描く機会は年に四回程度にはあった。それでも、全部ちゃんと提出したのは結局片手で数える程度しかいない。

 結局どこまでも消費者は消費者でしかないのだ。


「だからさ、俺はもっと漫画に集中したいわけ」


「学校やめるとか言わないでくださいよ」


「言うかよ」


 先輩は自嘲気味に笑う。


「俺さ、今回の原稿も明日には済むし、それから漫画のネタを探しにちょっと旅にでも出ようと思っているんだよね」


 先輩の顔は真剣そのものだった。

 原稿に向いている時の目が僕に向かって向いていた。

 ある意味、今手にあるビールよりも鋭く直向きな目。この目をした先輩は誰よりも情熱的で、先輩がこの目で向き合った原稿はどの展示会でも参加者から高い評価を受けていた。

 僕だって漫画に真剣に向き合っている。それでも、この目と向き合うと背筋が凍るような思いを受ける。


「そんな先輩なら、今度は展示会どころか公募にでも出すべきだとは思いますけどね」


「ああ。本当にそっちの道も考えている。背中で漫画の楽しさと厳しさを皆に伝えたいんだ」


 先輩は新しいビールのプルタブを引いた。圧縮された炭酸の抜けた音は、先輩の鬱憤を晴らすかのようなガス抜きにも聞こえた。


「先輩ならいけますよ。俺も先輩みたいにいい漫画描けるように頑張りますよ」


「売れたらバイトがてらアシスタントに呼んでやるよ」


「バイトやっていい身分の間に売れてくださいね」


 うるせぇという一言を音頭に、僕たちはもう一度乾杯をした。




 あれから一年ほどが経った。


 三年生になった僕は、部長の身を任せられるようになった。


 先輩の背中を追って漫画に注力したおかげか、僕も公募で雑誌に名前が載る程度には成長できたと思う。

 漫研は相変わらずではあるが、それでも絵を描いてみようと思ってくれる同期や後輩が増えてくれたこともあり、今では一枚絵一つでもちゃんと描けるようになった子が増えた。


 先輩に部全体、そして僕の成長を伝えたいものだが、あの夜以降僕たちは先輩に会えていない。

 電話やメールですら連絡を取ることができていないのだ。

 ネタが見つかったからそっちに集中している。それであればいい。

 結局、雑誌を探しても先輩のペンネームもなければ先輩の画風も見つからない。どこを探しても痕跡が見つからないのだ。


 前は詰まった時にふと外を眺めれば先輩がいたものだ。

 そう思って僕は部室の扉にしつらえた窓から暗くなった空をぼうっと眺めていた。

 うわの空になってみれば様々な思いが脳裏を駆け巡る。それは漫画に対しての思いが多いように感じる。

 漫画に対して真摯に向き合う。それはある種孤独な戦いだ。

 僕は先輩がいたからこそ漫画に向き合うことに孤独を感じなかったところがある。


 今は孤独そのものだ。


 漫研の部員と一緒にいても、先輩と一緒にいた時のあの漫画で刺し合うようなヒリヒリとした感覚が付き纏ってこない。

 そこに寂しさを覚えれば、自ずとフラストレーションが溜まっていく。

 思えば、こうなる前に先輩は僕のことを助けてくれていたのだ。

 先輩は、あの夜同じような思いをしていたのだろうか。


「あ、部長。どこに行くんですか?」


 僕は無意識に机から立って部室を出ようとしていた。

 時期はまた、大学祭前の締切前。

 以前とは違い、デスマーチに立ち向かう部員が増えた。この時間でも部員はある程度残ってくれている。その中で一緒に漫画を描いていた部員がふと僕に声をかける。


「ちょっとビアガーデンに行きませんか」


 皆からしたら不意な提案だったと思う。

 でも、僕にはこの言葉は聞き慣れた彼との合言葉だった。


 部室の扉から顔だけを出した彼がニヤリと笑う。 

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