二
引き摺られること暫く、
人里は仙楽よりも空気が濃密で、苦悩のような邪の気が渦巻いている。それがまた、魏仙の気分を悪くさせる。
山賊は魏仙と
「李娘、李娘」
そっと声を掛けるが、彼女は反応しない。死んでいるのかと焦ったが、そういう訳でもなさそうだ。
起きそうもない李娘から目を離し、魏仙は自分の体を見下ろした。
どこからどう見ても、人の形をしている。
彼は「なぜだ……」とため息のような言葉を漏らす。今こそ燕の姿でいたいのに、現実は無常だ。
人になるのも、獣になるのも、法力(神から与えられた力)が必要だ。けれど魏仙が持っている法力はもう零に近い。つまり、獣に戻ることは出来ない。
そもそも、燕の姿に戻れたとして、魏仙にできることは少ない。一人で捕まったのならまだしも、ここには李娘がいる。
これでは『貧乏神』と呼ばれるのも無理はない。
そんな事を考えながら揺られていると、ある地点で急に牛車が止まった。
そこは、洞窟とも言えるような薄暗い穴の前だった。
等間隔に置かれた
「……李娘、人間は皆ああなのか」
魏仙の問い掛けに、李娘は反応しない。
尻尾がぴくっと動いたが、起き上がる気配はなかった。
「おい! さっさと歩け! 害獣が!」
足の縄を解かれて、魏仙はふらつきながら、李娘を抱える男の後ろをついて歩いた。周りの人間は、魏仙の人間らしからぬ鳥のような黒い
魏仙が何をしたというのか。神獣か神に親を殺されたのか、それとも鬼に唆されたのか……
前者は滅多にありえない。神は人を守るのが仕事であり、人からの『信仰』が法力になるからだ。
「貴方達の目的はなんですか」
「うるせえ! 喋るんじゃねえ!!」
ドンッと腹を蹴られて、魏仙はその場で蹲る。それが余計に琴線に触れたのか、男は殺さんばかりの目付きで魏仙を蹴り続けた。
「ぐっ」
「お前のようなッ! のうのうと生きてきた神もどきのお陰で、こっちは死ぬような思いしてんだよッ!」
「おい
「それは商品なんだぞ」
魏仙はもはや考えるのも苦痛なぐらい苦しかったが、他の山賊の声掛けで、馬良と呼ばれた男は振り上げようとした足を止めた。代わりに舌打ちをして、別の山賊に「このゴミ運んどけ」と命令をする。
命令された男は、ズルズルと魏仙を引き摺って、牢屋に連れて行った。
牢屋の中は、五畳も無いくらいの広さに、木の格子が嵌め込まれているような部屋だ。格子の先は壁があり、洞窟の中だから、もちろん窓なんてない。外の情報を一切得られない場所に閉じ込められていた。
暫くは痛みを逃すために
「う、これは痛い」
青黄色に腫れたお腹。蹴り上げられて吐かなかったのは、牛車での移動で既に吐き切っていたからか。魏仙は彼らの前で吐く羽目にならなくて良かった、と胸を撫で下ろした。
それから数日間放置されて(神獣は何も食べないでも生きていけるのだ)、十日が経ったある日、魏仙の元に嫌な気が近づいてきた。
それは、肌にまとわりつくような邪の気だった。
それと同時に、誰かに見張られているような気がした魏仙だったが、目の前に現れた存在に、そんな考えなど吹っ飛んだ。
でっぷりと太った男。目はぎょろりとしていて、親しみなんてどうあがいても込められないような見た目をしている。
一瞬で理解する。邪の気は目の前の男だと。
同時に、恐怖に震えた。今の魏仙ができる事なんて無いに等しい。そもそも、文武どちらの神にも族していない魏仙は、どちらの才能も持たなかった。
修行と称して
「ふ、馬良、これは上等な神獣だなぁ!」
「そ、そうなのですか?」
曲がりなりにも商売相手だからか、馬良は丁寧に接しているようだった。
彼は目の前の男が『鬼』だと気付いているのだろうか。
いや、どちらでも構わないのだろう。彼にとってこの醜い男は商売相手で、魏仙は憎らしささえある商品なのだから。
「八百年熟成された神獣、魏仙ですぞ」
「八百……? なら、それぐらい強い力を持っているという事ですね!」
「い、いぃや、こいつは弱い。八百年間『疑獣』だった落ちこぼれだからなぁ。だが、今は人像を保っているな……」
人の姿をした魏仙に驚いている様子の鬼。それもそうだ。獣か、人像かを選べるのは『霊獣』になってからの話だ。疑獣の状態では、人の形を保ち続けることができない。
目の前の鬼はそれを知っているからか、「まぁ上等品になったならいいだろう」と言っている。彼は、神獣を食べれば人間に戻れると考えている類の鬼だった。鬼に言われて馬良が退出した瞬間、男の姿はもっと醜く、皮が剥がれた青い肌の化け物に変わる。
(どうすればいいんだ。逃げるにしても道がない……法力さえあれば、燕に戻れるのだが)
そう考えても、法力は今空っぽだ。
……法力がない今、使いたくないが『あれ』を使うしかない。魏仙がそう考えていると、鬼は「がああああっ」と飛び掛かってくる。
なんとか縄が解け、魏仙はそのまま横に飛び避けた。それから慌てて、首に掛かっていた鈴を掲げる。
「鬼よ、静まれ……!」
シャランという音と共に、鬼の動きがぴたりと止まった。
振り続ける魏仙を、鬼は血走った目で見てくる。場面が硬直した状態。この鈴は人に『やすらぎ』を与えるものであり、鬼の動きを封じる力がある。とはいえ、時間稼ぎはできるが、決定打にならない。
汗を一筋垂らしながら、魏仙はどうしようか視線を動かす。その瞬間。
「待てぇ狸!!」
一匹の狸が、牢屋の中に侵入してきた。
それを追いかけてきたであろう山賊は、牢屋の中にいる鬼を見て、叫び声を上げた。
「ぎゃ、ぎゃあああああ」
「鬼だっ、鬼がいるぞ!!」
「助けて!! 嫌だ死にたくない!!」
山賊の全員が鬼のことを知っているわけじゃなかった。むしろ、取引相手が鬼だということは、馬良しか知らなかった。それはこの場において良いことか、悪いことか。神獣としては助けないといけないのだろうが、生憎と魏仙にはそんな余裕はなかった。動きを止めたはずの鬼は、人の『恐怖』を頼りに動き出す。鬼が人を貪り食って、血が舞う。
そんな中、馬良が逃げるのが見えた。
まさに阿鼻叫喚だと考えていると、李娘が魏仙に飛び掛った。しがみ付かれ、ずっしりと重たい体を抱き抱える形になる。
「魏仙! 他の山賊はあたしが蹴散らしといた! さっさと神に報告するぞ!」
「あ、ああ……李娘、無事でよかったよ」
「すごく痛かったし、回復するのに時間がかかっちまったけどな!」
「だから、牛車で呼び掛けに答えなかったんだ」という李娘。要するに、狸寝入りだったわけだ。魏仙は苦笑いもしながらも、全力で走る。
「魏仙、もっと早く走れないのか!?」
「この足だから無理がある! けど、李娘が法力を分けてくれれば獣化できる!」
「ああ、ちょっと待ってろッ」
李娘は魏仙の手に鼻先を当てる。するとゆっくりだが法力が流れてきた。それを使って、魏仙は獣の姿に戻った。空中に浮いた李娘も、上手く着地した。
二人で逃げ出して、洞窟の入り口が見えてきたその時──ドシン! という音と共に入り口が見えなくなる。目の前には、先ほど見た鬼とそっくりな鬼が立っていた。そっくりだが、肌の色が赤色だ。
「ああ? 俺の弟はどうなったんだァ?」と鬼が言うと、後ろからまさに『鬼の形相』といった風に青い鬼が迫って来ていた。
馬良は上手く逃げたのだろうか。魏仙も、なんとか逃げれるかもしれない。だが狸で、体の大きな李娘は逃げれないだろう。
「李娘、その体はもう小さくならないよね」
「濡れれば少しは細くなるが……魏仙、あたしを置いていけないか」
「残念だけど、私は後輩を置いて逃げるほど卑怯者じゃない」
そう言った考えなしの魏仙に、李娘は尻尾でポンと地面を叩いた。
その瞬間、突風が巻き起こる。
「李娘!?」
「あ、あたしじゃない!」
てっきり李娘が何かしたのかと思えば、彼女は何もしていないという。では誰がやったのか。魏仙が視線を巡らせた瞬間、視線の端で
「っ!!」
その男を目線で追おうとしたら、前後にいた鬼が細切れになった。肉がずれ落ちて、血飛沫が上がる。
その光景に、李娘が「うぇぇ」と舌を出した。
突然の出来事に、魏仙の動きが止まった。そのまま入口の方を見れば、琥珀のような瞳を持った男がいる。
高い身長と、腰の辺りまで流れる黒い髪。うっすら浮かんだ笑みが不気味で、それにその男からは微かに邪の気も感じられる。緑を基調とした、椿柄の羽織を羽織った男。
「お、名前は……」
魏仙が静かに聞く。李娘はギョッとしたが、彼女は何も言わず、魏仙を守るように狸の姿で男の前に立った。
これではどちらが喋ったか分からないじゃないか! と思ったが、男は静かな声でこう言った。
「小鳥の姿で喋らないでくれ。私の前では人であれ」
求めるように手を差し出されて、魏仙は一瞬迷いながらも、先程もらった法力で人の形を象った。燕のときより随分と視線が上がったが、それでも男の方が背が高い。
「名前は」
「
短く答えられた言葉を心の中で繰り返す。
隙間風がふわりと吹いて、洞窟内の蒸し暑い空気を払ってくれるようだ。
「貴方は……敵でしょうか?」
「ちょ、魏仙、直球すぎ」
こそこそと李娘が言うと、衣張は冷めたような目線を李娘に見せる。それだけで李娘はぴしりと動きを固めてしまった。
(人間か……それとも鬼か。今のところ、どちらか分からない)
邪の気があるから、神獣や神ということはないだろう。
だが、人間だったとしても油断は禁物だ。つい先程、あんな事があったばかりなのだから。
「警戒しているようだね。安心して、私は今、この場では君にも、その化け狸にも、傷をつけない」
「化け……」
「だってそうだろう? お前は魏仙が牢屋に入れられている間、山賊達と酒を酌み交わしていた」
衣張の言葉に信じられず、魏仙は眉を寄せる。
そもそもその情報をどうやって知ったというのか、知っているという事は山賊の仲間なんじゃないか、という考えが湧いてくる。それでも助けてくれた人に抱く感情じゃないな、と口を閉ざした。
閉ざした魏仙はこっそり李娘を観察する。そんなまさか、試練中に酒を飲むような子じゃないと思っていたが、彼女の口から出てきたのは「な、ああ、あたしはそんなことしてない!」という慌てたような声だった。
「私が知っているのは
「なら、私の名前を知っているのも、その……見たから?」
そう言った瞬間、僅かながら殺気が沸き立った。
何か口を滑らせたかと慌てる魏仙に、衣張は「すまない魏仙。許してくれ」と言う。なんの事だか分からなかったが、とりあえず、「私が君に対して怒ることは特にないし……別に許すよ」と答える。
「あ、あたしのことは怒ってくれないのか!?」
「あ、すまない李娘」
「くくっ、さぁ魏仙、こんな臭い場所、さっさと出よう」
自然と近くにいた男は、魏仙の手を取っていた。その素早さに驚いていると、李娘はペシペシと男の裾を蹴る。魏仙が「失礼だぞ、李娘」と言っても辞める気配がない。
「化け狸、お前は報告にでも帰ればいい」
「嫌だね! あんたみたいな怪しいやつに魏仙を任せられるか!」
「最初は貧乏神扱いしていたのに」なんてため息を吐いて、それから衣張を見上げた。怪しさ満点だけど、魏仙の手も丁寧に扱っているし、何より魏仙達を助けてくれたのだ。
そっと手を引かれながら、洞窟を出る。久し振りの光に目を細めると、衣張は空いている方の手で魏仙の目を覆った。
「い、衣張?」
「ほら、これで眩しくない」
衣張が手を退けた時には、もう眩しいなんて事はなかった。人里での豆知識なのかなと思いつつ、魏仙は「李娘、人になれるならなっておきなよ」と言う。すると、彼女は渋々といった風に身体を一回転させた。
「これで気がすんだ?」
李娘は、茶色の髪と瞳を持った普通の村娘の格好になっていた。
魏仙がすごいすごいと褒めてやると、彼女はない胸を張った。だがその瞬間、ぽこんと生える丸い耳と尻尾。
「化け狸のくせして、変化が下手とはな」
「う、うるさい! 山賊達の前では完璧だったんだから!」
「李娘?」
思わずといった風に言ってしまった李娘。衣張が鼻で笑うのを聞きながら、魏仙は小さな声で「お酒を飲んでいたのか……」と溢した。
飲みたそうな魏仙に気づいた衣張が「酒屋でも行くか?」と聞くが、魏仙は首を振った。
あくまでも今は試練中。魏仙は、決して、李娘のような悪い子ではないのだ。
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