第4話
「ハハッ……ハハハハハ……」
俺の中で大切だった何かが、壊れていく。
彼女は、美人だった。
地元の不良共には響かなかったようだが、芯のある内面もまた、間違いなく魅力的だった。
そんな彼女に、男性との接点があったとしたら。
きっと、いとも簡単に、彼らを恋に落としてしまうことだろう。
どうして、そんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
……いや、本当は気づいていた。
俺と千秋は別々の道を歩き出した。
それは、文字通りの枝分かれ。
一度分かれた枝は、風に揺られて他の枝葉と重なることがあっても、元のものとは決して交わらない。
そんなことくらい、分かっていた筈なのに。
どうしても、夢を見てしまった。
彼女の変わらない魅力に、すっかり惹かれてしまって。
思えば、再会したときから彼女には不自然なところがあった。
俺のことを、苗字で呼ぶところ。
隣部屋で偶然ですね、と言ったときの、どこか冷たい声色。
それらは、過去の俺との付き合いとは違って、彼女の中で1つの線引きがされていたのだろう。
俺は、彼女にとって、あの頃の有象無象のクラスメイトたちと同列になってしまったんだ。
こんな真実、少し考えれば簡単に気がついたこと。
1人の若い女性が、一人暮らしを望む理由なんて……
親の目なしで、彼氏を部屋に呼びたいからに決まってんだろ……
「フハッ、ハハハハハ」
乾いた笑い声が、誰もいなくなった部屋で哀しく響く。
隣では今でも、どうやら盛り上がっているらしい。
「あっ、あああっ……」
本日2度目の、男性の声。
俺は離れていても、千秋の幸せを願っていた。
高校時代は報われなかった真面目な彼女が、クラスメイトたちに笑顔を見せられなかった彼女が、幸せに笑う姿を。
ああ、それなのに。
「くそっ、くそっ……」
俺の千秋が、知らない色に染まっていく。
頭が、重い。
目頭が熱くなり、それでも涙は一滴も零れない。
行き場のないやりきれなさで胸はいっぱいになり、そして俺の願いは自分自身の身勝手な感情であったと思い知る。
俺は、千秋の幸せを願っていたわけじゃない。
俺が、千秋を幸せにしたかっただけなんだ、と。
彼女の用事が、些細な買い物なら良かったのに。
さっきのチャイムが、宅配便のそれなら良かったのに。
そんな風に考えてしまう俺は、どうしようもなく自己中心的で。
きっと献身的な霧島さんには、到底釣り合わない男だったのだろう。
夜が更けていく中。
俺の5年以上に及ぶ片想いは、散り散りになるまで儚く散っていった。
♢♢♢
「うっ……頭が……」
目を覚ますと、時刻は午後の6時すぎになっていた。
身体は重く、何をしようにもやる気が出ない。
どうしても出社することができなくて、朝方に会社へ電話を掛けた。
飲み会の後というのもあり、上司は俺の心配とともに感染症の蔓延を心配していたが……俺の欠勤で色々と迷惑をかけてしまったな。
魂が抜けたかのように二度寝をし、すっかり喉がカラカラに乾いていた。
身体のだるさは直らないが、それでも何とか立ち上がり、俺は冷蔵庫へと向かう。
「……」
ふと、視界に入ったのは、昨日洗った空のタッパー。
すっかり乾燥したそれは、俺が彼女に返さないとならないもので……
「……うっ」
いったい俺は、どんな顔をして彼女に会えば良いのか。
こんなことなら、洗っておく、だなんて言い出さなければ良かった。
こんなことなら、夕食を一緒に食べなければ良かった。
こんなことなら、散らばった弁当を一緒に片付けなければ良かった。
こんなことなら―――
千秋と、もう一度出会わなければ良かった。
部屋の隅に飾り続けていた千秋との思い出は、気持ち悪い俺の、未練がましさの象徴だ。
神様はそんな俺に、きっと天罰を与えたのだろう。
これから俺は、何度も隣部屋での物音を聞くことになるだろう。
そしてその度に俺の脳は破壊され、思い出は過去のものであると刻み込んでくれるのだ。
……ああ、夢見がちで分からず屋な俺への、最高のプレゼントじゃないか。
「……また困ったときは、いつでもお呼びくださいね」
別れ際に彼女が言い残した、社交辞令。
それに俺は、返事をしなければならない。
「……もう、手料理のおすそ分けはやめてくれないか」
小さく、声に出してみる。
俺の声は酷く震えていて、今にもかき消されてしまいそうだ。
それでも俺は、前に進まなければならないんだ……
今、一歩を踏み出さなければならない。
そんな気がした。
これ以上、昨日のひとときを想起させるものが視界にあると、気がおかしくなってしまいそうだから。
冷たい麦茶が、頭をキンキンに冷やしてくれる。
ああ、そうだ。
彼女との縁を拒絶するだけじゃない。
ちゃんと昨日のお礼も言わないとな……
ありがとう、そしてさようなら。
出来れば、俺の知らないところで幸せになって欲しかったけれど。
それでも、こんなことでもなければきっと、俺は彼女のことを諦められなかっただろうから。
覚悟を決めた俺は、唇を嚙みしめながら玄関のドアを開けた。
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