第3話

 ピンポン


 玄関のチャイムが鳴る。

 その音はいつもの宅配便の知らせと何ら変わりないはずなのに、心なしか楽しげに聞こえた。


 モニター越しに、スーツから私服に着替え、両手にタッパーを抱えた千秋が映し出されている。

 俺はそっと扉を開いた。


「お邪魔します」


 どこか落ち着かない様子でワンルームの部屋に入る千秋。

 当然ながらそんな彼女の足元に、脱ぎ散らかした服やらが転がっている、なんて惨事はない。


 千秋が来るまでに一通り部屋の片付けは済ませたし、そもそも日常的に散らかっているなんてことはない。

 ラブコメなんかでよくあるエ〇チな本とかも、そもそも持っていないので隠すものもない。

 ……まあ、他の女のことを考えていると虚しくなるからって理由で、大分前に全部捨てたんだけど。


 それでも1つだけ隠すものがあったのは―――部屋の隅に飾っていた、あの頃に撮った1枚の写真。

 何気ない日常というのは、思った以上に記録していないもので、あの写真も確か夕日が綺麗だったからとか、そんな理由で撮ったもの。

 それが唯一の、俺と千秋とのツーショットで……撮った当時、ものすごく緊張したのを今でもはっきりと覚えていて、俺にとってはかけがえのない思い出で。

 これを見つかると流石にまずいというか、付き合っているわけでもないのに気持ち悪いので、絶対に見つからないように、机の引き出しの奥へ隠した。


「すまん、もう1つ皿を持ってくるから」


 千秋が食卓に広げた料理は思ったより品数が多く、そして見るからに美味しそうなものばかりだった。

 座布団は1つしかないので、普段使っているものを千秋の側に置く。

 すみません、と、そう呟きながら、スカートから覗く黒のストッキングに包まれた脚を崩す姿に、俺は思わずドキリとしてしまった。


「いただきます」


 誰かと食事を共にするというのは、一体いつぶりだろう。

 目の前に過去の想い人がいるという緊張。

 だが、それ以上に。

 優しい味のする1品1品を口に運ぶたびに、温かさが胸に染みて、感情が溢れ出してしまいそうだった。


 千秋は元々そつなくこなすタイプではあったが、料理も上手だったんだな。

 いや、これは千秋の才能だけではないだろう。

 俺とは違って、きっと毎日ちゃんと自炊して、しっかりした生活を送ってるんだろうな。


「あっ……今さらですが、皆月さんは何か苦手な食べ物とかはありませんでしたか?」


 俺が手料理の温もりを嚙みしめていると、ふいに千秋が尋ねてきた。


 俺は強いて言えば、ピーマンが苦手だ。だけど、今日の料理にはそれが入っていないし、苦手なだけでどうしても食べられないわけではないから仮にあったとしても素知らぬ顔で口にしたことだろう。


 むしろ、目の前にあるハンバーグは俺の大好物で……サイズが小ぶりなのは、急遽俺と再会し、1人前を無理やり2人分に分けたからだろうか。そう考えると、品数で量をカバーして……おそらく数日分の食材を使って作ってくれていて、千秋にはかなり気を遣わせてしまったな。


 でも、俺が今更あれやこれやと口にしたところで、彼女の気持ちを無下にしてしまうだけな気がして。


 不器用な俺はただ一言、伝えることしかできなかった。


「とても美味しいよ」


 ありがとうございます、と言う千秋は、少し恥ずかしそうに笑った気がした。

 



♢♢♢




 幸せな時間は、あっという間に感じられる。

 すっかり平らげてしまい、空になったタッパーを洗いながら、俺はさっきまでの夢のようなひと時が現実であったことを噛みしめていた。


「すみません、この後用事がありまして。……あ、ですが、また困ったときは、いつでもお呼びくださいね」


 夕食後、少し時間を気にする素振りを見せた千秋に、俺はただただ申し訳なくて。

 俺のせいで迷惑をかけてしまったんだな、と改めて思いながら、咄嗟に提案できたのはタッパーを洗って、後で返すことくらいだった。


 一見すると千秋のためを思っていそうでありながら、実は千秋ともう一度会える口実を作りたかっただなんて、身勝手な願望も入っていたりして。

 我ながらどうしようもねえな。


 そんなことを考えていると、ピンポン、と再び玄関のチャイムが鳴った気がした。

 洗い物を中断し、慌てて玄関へと向かうが、モニターには誰も映っていない。

 どうやら気のせいだったようだ。


 ……いや、よく聞くと何やら男性の話し声が聞こえる。宅配便か?

 隣近所で何かが届いたのかもしれない。


 まあこんな風に外の音が漏れてしまうことくらい日常茶飯事だし、このアパートの壁は薄い。

 造りは割と新しめに見えるけど、所詮20代の若者が借りられるようなアパート。


 はじめて大学生のときにアパート住まいをしたときは、実家のマンションとの違いに驚いたものだが、今ではどこもこんなものだと割り切れるようになったものだ。

 前の住人はよくギターを弾くものだから、流石に少しは気になったが……最近聞こえないと思ったら、まさか引っ越していて代わりに千秋が入居するとは。


 そういえば、千秋はさっきの食事中に一人暮らしを始めたばかりで……なんて言ってたな。

 ずっと実家暮らしで、両親を説得してついに一人暮らしを始められたって。


 俺の場合、一度大学で実家を出てから地元に戻ってきたわけで、何となく実家に戻るのが気まずく、一人暮らしをしているだけだ。


 そんな背景がなければ、俺ならずっと楽な生活に甘えていたいとか考えてしまいそうだし、流石千秋は偉いな……なんて思ってたけど、初めての一人暮らしで、慣れないところもあるだろう。


「よし、洗い物終わりっと」


 タッパーと皿の水を切り、それらを並べ終えても、俺の頭の中は千秋のことでいっぱいだった。


「何か、返せればいいんだけど……」


 困ったことがあれば、助けになろう。

 まだ散らかってると言ってたけれど、引っ越しで重いものを運ぶときは男手も必要になるだろう。


 その時は俺が……


 そんな風に、これから訪れるだろう日々に思いを馳せていたときだった。




 いつだって、悲劇は唐突に訪れる。




「ひゃあっ!」


 ……綺麗な声がした。

 それは、壁越しに聞こえてきたものだから、きっと隣部屋の住人の声だろう。


 続けて、ミシッ、ミシッと、それはまるでベッドのような重い家具が軋む音。




 ―――まさか。




 一瞬で、血の気が引いていくのが自分でも分かった。

 それは俺が心の奥底で恐れていた可能性。


 だけどそうあって欲しくはないと、身勝手な俺の感情が排除しようと試みた、真実。


「……


 声が、聞こえた気がした。

 それは在りし日の思い出。

 昔の彼女が、俺のことを呼ぶときに使っていた言葉。


 過去に戻れた気がした。

 またあの頃の続きを始められるって、そんな予感がしていた。


 でも年月というものは否応なしに過ぎていくもので、変わらないものもあれば、変わってしまうものもある。


 だから俺が何度願ったって、あの頃にはもう戻れないんだ。




「あっ、あああっ……」


 男の人の、声がした。


「……好き♡」


 千秋の、声がした。




 ―――俺は抜け殻になったように、その場でがっくりと膝から崩れ落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る