曼殊沙華
思い出したくもない食堂でのやりとりの後、M子は俺を無視し続けた。
必要最低限の会話以外は、俺とは一切言葉を交わさず、ただ粛々とM子は業務を推進した。もともと頭の良い女だったから、彼女がすべき仕事は完璧にこなしてくれて、無視されてはいるものの業務上は何も支障はなかった。
支障があるとすれば、それは向かいの席に座る福島だ。まだリハビリ勤務期間中だというのに、こいつは無断欠勤をやらかした。
昼を過ぎても出社しないのに気付いた俺が福島の携帯電話を鳴らすと「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……すみません、いま起きました。こ、これから出社します」といつもの調子が悪いアピールを繰り返した挙句、結局また深い眠りに落ちて、その日は出社しなかった。
福島の無断欠勤を受けて、健康管理室の担当者から問い合わせがあった。福島の上司である戸塚が海外出張からまだ戻っていなかったので、俺が代わりに健康管理室の応対をするはめになった。
「仕事の負荷が高過ぎなんじゃないですか? 過大なプレッシャーはまだ与えないで下さい」
福島の素性をよく知らないくせに、杓子定規なものの言い方をするこの担当者にカチンときた。負荷? プレッシャー? ふざけるなよ、いま福島に与えているのは、誰でも簡単に遂行できるゴミみたいな仕事ばかりだ。
無断欠勤後も、福島のマイペースぶりに変化はなかった。
「え、M子さん、何だか、ふ、雰囲気が、最近……か、変わりましたね」
「そうですか、いつもと変わらないですよ」
時折交わされる福島とM子の無用な会話、それらを聞こえぬふりをしながら、俺は耳をダンボにする。そんなクソみたいな日常を繰り返して、週末までの業務をなんとか乗り切った。
週が明けたら、戸塚が海外出張から戻ってくる。あいつはいったい、どんな顔を俺の前で見せるのか。
「サカウエさん、私たちの仲間になりませんか?」
したり顔でそんな台詞を言われたのなら、瞬時にあいつの顔面に右ストレートを叩きこんでやる。腕っぷしには自信がある。歯の二、三本ぐらい確実にへし折るぐらいは簡単なことだ。
月曜日、出社すると部署内の雰囲気が、かつてのS子のメール騒動のような落ち着きのなさをみせていた。掲示物が貼られているスペースに人がたむろしているのを見つけて近付くと、俺の存在に気が付いた数人が何かを言いたげにその場をさっと離れていった。
まさか、と血の気がさっと引いた。すわ、M子が撮った俺の緊縛写真がそこに貼られているのかと焦った。目も当てられぬ状況に怯えつつ、恐る恐る近づいて確認すると、そこには写真の類はなく、ただA4用紙の書類が一枚貼られているだけだった。
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懲戒発令
氏名:戸塚孝史
懲戒の種類:諭旨解雇
事由:SNS上で広く撮影モデルを募集し、写真の撮影料と称して多額の金銭を受け取っていた事実が確認された。かかる行為は社内規則六十九条に記載される「副業の禁止」に抵触するものであり、管理職として自覚と責任を欠くものである。
また多くの写真は公序良俗に反するものであり、社会規範の順守が求められる中にあって軽率な行動であったと言わざるを得ず、懲戒は免れ得ない。
但し、日頃の精勤ぶりを勘案し、右記懲戒にとどめる
発令年月日:令和五年七月二十四日
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暫くぼんやりとその懲戒発令を眺めていると、背後に殺気を感じた。出社したばかりのM子だった。M子は一歩前に進んで俺の真横に位置をとった。発令をじっと見据える彼女の横顔もまた、美しい。
「あなたがチクったのね」
俺に一瞥もくれずにそう言い残し、くるりと振り返って、M子は自席に向けて歩き出した。
そうだ、正解だよ。コンプライアンス窓口にチクったのは、紛れもないこの俺だ。君を戸塚から解放するために。
午後にはコンプライアンス窓口の担当者が俺の元へやって来た。同期の山崎だった。
山崎によると、総務課から事前に諭旨解雇の通知を受けている戸塚が今後出社することはないとのことだ。それはそうだ、晒し者になるのを分かっていながら、のこのこと出社をする馬鹿なんていやしない。
「机の中身とロッカーの荷物をまとめてくれ。業務に関連する書類や物品の処分はお前に任せるが、戸塚さんの個人的な所有物は返却する必要がある。それをダンボールに詰めて俺のところまで持ってきて欲しい。こちらで戸塚さんの自宅へ発送しておくから」
山崎からそう言われて、戸塚の懲戒処分をよりリアルに受け取った。俺と山崎の会話の様子をじっと冷たく見つめるM子の視線が痛い。山崎もそれに気付いたのか、ほかにも何か言いたげだったが「じゃ、よろしく」と言い残して去っていった。
山崎の指示に従って俺は戸塚の「遺品」の整理を始めた。渡されたスペアキーを使って開けた更衣室のロッカーに荷物はなく、ただ安物のプラスチック製のハンガーが二つ、ヒマそうにぶら下がっているだけだった。
戸塚の机の抽斗には鍵がかかっていなかった。下段の抽斗に整然と並ぶ業務用ファイルから、あいつの几帳面さが伺えた。中身をひととおり確認して、今後の業務に必要なファイルは別の棚に移して、不要なファイルや書類は全て処分した。
ホッチキスや鋏などの事務用品や服用していたと思われる薬の錠剤、読みかけの小説などは個人の荷物として扱い、発送用のダンボールに詰める作業を粛々と進めた。
いよいよあいつの机を空の状態にできる、あいつの痕跡をひとつ残らず葬り去れると思った刹那、抽斗の奥に隠すように置かれていた茶色い皺だらけの紙袋を発見した。その色合いは、幼少期のころに近所の駄菓子屋で使われていた紙袋を連想させた。
その紙袋を取り出して中を覗き込むと、そこには何重にも折り畳まれた状態の赤い麻縄があった。反射的にM子の席に目を移すと、彼女は席を外していた。
麻の縄からは新品の匂いは感じられず、部分的なほつれや、縛った際についたと思われる形の癖が多数あった。間近で見ればその色は「赤」というよりは「朱」に近い。脳裏に曼殊沙華が浮かぶ、そうだ、これは曼殊沙華の色だ。
戸塚の緊縛写真の多くは相手の肉体をきつく締めあげる傾向にあったから、これだけ使い古された縄には縛られた人物のDNAがこびり付いているに違いない。M子のDNAもきっとここにある。いや、ひょっとして俺がM子に縛られたのはこの縄で、俺のDNAもここに存在しているのでは、と疑念が湧いた。
先日のラブホテルでのM子の行為がふと脳裏に浮かび上がり、しゃがんだ状態の俺の股間が膨らみを見せ始めた。いかんいかん落ち着け、と自分に命じて、その紙袋の封を閉じた。
「て、手伝いましょうか?」
背後からの突然の声に思わず両肩がびくっと浮き上がる。福島だった。福島は戸塚の懲戒発令に対して何の反応も示さずにいた。普段から空気を読まない発言が多いこいつのクールな反応は意外だった。
「これは俺が対応するから大丈夫。それより、先週頼んだデータの入力は完了したの?」
「す、すみません。グホッ、こ、これから、やります」
福島が背を向けて席に戻るタイミングを見計らって、縄の入った紙袋を俺の机の抽斗にさっとしまいこんだ。
戸塚の懲戒発令が掲示されたその二日後、M子は会社を休んだ。
「体調がすぐれないのでお休みします」
電話口の彼女は冷めた口調で、事務的に体調不良を伝えてきた。
その翌日も「お休みします」と連絡があった。
その翌日も、M子は会社を休んだ。
ついには俺に連絡することもなく、無断欠勤を繰り返した。
「エ、M子さんって、ゲホッ……と、戸塚さんの、撮影モ、モデルだったみたいです。どうりで、ど、どこかで見たことが……」M子の休みが三日連続を迎えた日だった。福島がわざわざ俺に近付いて耳打ちした。
こいつ、馬鹿なのか。そんなことは懲戒発令のあった日にはもう、部署内に知れ渡っていたじゃないか。
戸塚がSNSのアカウントを非公開にせず、また投稿を削除しなかったため、懲戒発令のあったその日の午後には、ヒマな社員によって戸塚のアカウントが特定されてしまった。そのアカウントの投稿に一番多く掲げられた緊縛された女の裸体、そのモザイクの下の正体に気付くのは実に容易いことだった。
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