従順な犬
翌朝目が覚めると、ひとり裸の状態でベッドの上にいた。上半身を起こして体の自由がきくことを確認して、ベッド横の時計を確認すると、午前五時をちょうど過ぎたばかりだった。そして部屋にM子の姿はなかった。
綺麗に片付けられた部屋の様子を一周ぐるりと眺めるも、昨夜のインモラルな行為の名残は何ひとつ見つけることができない。ベッドの上に綺麗に畳まれた衣服が違和感を助長させて、俺は酷く混乱した。
部屋にM子の気配を感じられない俺は、あれは夢だったのかと戯言を呟く。だが顔を洗うために向かった洗面所で、鏡に映った自らの体に無数の縄の跡が痣のように残されている事実を知った。
茫然自失のまま縄の跡を暫く眺めたが、このままこの場所にいても意味がないのだと自分に言い聞かせて、すぐに身支度を整えて部屋を出た。
前腕に痣となって残された縄の跡は半袖シャツから見事に顔を覗かせていた。これじゃあ電車に乗れないじゃないか、とすぐにタクシーを拾った。今日は平日、そしてもちろん出勤日。タクシーを飛ばして自宅に一旦戻り、シャワーを浴びて髭を剃り、服を着替え、またすぐに会社へ向けて自宅を飛び出した。
梅雨明けの強い陽射しの中、縄の跡を隠すための長袖シャツの着用を強いられた。額に大汗を流しながらようやく会社に辿り着くと、そこにはもうM子が涼しい顔で席に座っていた。
「サカウエさん、昨日はお疲れ様でした」
「オ・ツ・カ・レ・サ・マ」とM子の言葉が一文字ずつ俺の鼓膜に響く。なるほど、確かに昨日は疲れ果てた一日だ、これは嫌味なのか。
昨日の戦利品のノベルティグッズが向かいの机の上に広げられて、出社していた福島が「おお、これは……ゲホッゲホッ」と一つずつ品定めをする愚行を見て、溜息が出た。
「昨日の交通費の清算の件で、ちょっと」とM子に声をかけて、食堂まで連れ出した。会社の中では相変わらず、彼女は俺の一メートル後方をぴたりと付いて歩いた。
食堂の人気のない場所を選んで、M子の対面に座った。まるで昨日は何もなかったかのように涼しい表情のままのM子を目の前にして、俺は少し怖くなった。
互いにしばし無言の状態が続き、耐えきれなくなった俺が「昨日は……あのあと……」と小声を発すると「今日は珍しく長袖なのですね」とM子がにっこり笑って俺を茶化した。
「……そうだよ、体に跡が残って半袖なんか着られないよ……その、言いわけするつもりはないけど、記憶が曖昧なんだ。だから……どうしてあんなことになったのか、分からなくて」
「戸塚さんの指示です」M子は平然と言ってのけた。
その言葉を反芻するが、暫く意味が飲み込めない。いや正確には、俺の脳がそれを理解することを必死に拒んでいた。
「展示会へ行くと決まったことを、すぐに戸塚さんに報告をしました。そしたら『サカウエさんに縄の愉しみを教えてやって欲しい』と頼まれたんです。なので、トートバッグに緊縛用の道具一式を準備していました。昨夜のサカウエさんの記憶が曖昧なのは……すみません、あなたがトイレに行っている隙にお酒に睡眠薬を混ぜました。そのほうが、縛りやすいですから」
M子は一人で勝手に語り始めた。彼女の瞳は俺をまっすぐ見つめて瞬きひとつしない。抑揚のない声で喋るさまが、薄気味悪さを助長させた。
「サカウエさんがいけないんですよ、戸塚さんと私の邪魔をするから。しらばくれても無駄ですからね、知っているんでしょ、戸塚さんのSNSのこと」
俺は無表情を貫いた。少しでも表情に変化をみせたなら、この状況、俺の負けが決まると自らに言い聞かせて必死に顔の筋肉を無力化して耐え凌ぐ。
「戸塚さんのアカウント名に『T2K』って入っているでしょ。社内でそれを知っているのはサカウエさんぐらいなんですって。『其となしに教えてやったのに』って怒ってらっしゃいましたよ」
戸塚がSNS上で相手を募り、女性の緊縛写真の撮影を行っている事実を知ったのは一年ほど前のことだ。
俺がSNSの裏アカウントを使って「合法JK」やら「裏垢女子」の画像や動画を貪り、溜った性欲を満たしていると、フォローしていたアカウントからリポストされた画像がタイムラインに流れてきた。
白くて眩い美しい女の裸体が、赤い麻縄でがんじがらめに縛られて宙吊りにされていた。俺にはその手の嗜好はない認識だったが、艶やかな白い肌にめり込む赤い縄のコントラストは美しく、しばしその画像に目を奪われた。
顔に掛けられたモザイクが薄いのはわざとなのだろう。誰が見ても美人、と判断のつくその美貌をあえて世間に知らしめるような投稿者のひねくれた優越感が鼻についた。
縄の痛みに耐えているのか、それとも快楽に浸っているのか、モザイク越しにでも女の恍惚の表情が見て取れて、否が応でも興奮させられた。
それは中途採用で入社する以前の、まだ俺の知らないM子の姿だった。
M子は投稿者のお気に入りのモデルだった。SNSの画面を下にスクロールすると過去の投稿にもその姿は頻繁に登場して、様々な構図や縛られ方で艶めかしい姿をSNS上に晒した。
迷わずにフォローをした投稿者のアカウント名は「T2K 非日常の世界」とあった。そこに「T2K」の三文字を見つけて、まさか、と色めき立った。T2Kとは「トツカ」を意味する文字で、グループ内に回覧する資料のチェック欄にいつも戸塚がサイン代わりに書き込んでいた三文字だった。
SNSのアイコンの画像には、顔のシルエットだけがうっすらと浮かんでいた。表情がブラックアウトされたそのシルエット画像は、他人からすればただの小さなシルエット、本人のものかどうかなんて知る由もない。ただ、週末以外はほぼ毎日顔を突き合わせている俺にはすぐに分かった。そのシルエットの主は、間違いなく上司の戸塚孝史だった。
戸塚がカメラ好きなのは知っていた。ときおり都内の歓楽街で風景や人物のゲリラ撮影を行っている話は、本人の口から聞いたことがあった。また社内ではクールを装ってはいるが、性的嗜好に歪みがあるのだと俺は情報を得ていた。
戸塚は結婚して子供が一人いるというのに、ソープやピンサロ、ハプニングバーに頻繁に出入りをしていると、あいつの同期がそっと俺に教えてくれた。そいつの話によれば同期連中からの評判はすこぶる悪く、俺はそれが愉快でならなかった。
「私が戸塚さんのコネを使ってこの会社に転職してきてから、SNSへの違反申告が増えたそうです。ねえ、サカウエさんはいったい何がしたいのですか? 人が何を愉しもうと、そんなの勝手です。陰でこそこそ人の邪魔をするなんて、みっともないですよ」
みっともない、確かにそうだ。M子の言うとおり、俺はみっともない。
独身の五十三歳。計らず溜まってしまう性欲の捌け口を探して辿り着いたSNS。そこが合法JKやら、裏垢女子やら、性欲を掻き立てられる画像や動画の投稿で溢れかえった世界だと知った俺は、一人その世界に浸った。
巷に溢れる商業AVの性産業的な雰囲気とは異なる、素人じみた匂いがぷんぷんと漂うリアルで淫猥な世界がそこにはあった。
そんな世界で、俺の性的嗜好を満足させてくれる世界で、俺は偶然にも戸塚の写真家気取りの活動を見つけちまったんだ。
「戸塚さんの写真は芸術なのです、ねえ分かります? 芸術なのですよ。サカウエさんはいやらしい目で見ていたかもしれませんが、私たちにとっては芸術的創作活動なのです」
戸塚は緊縛写真家と自ら称して女を麻縄で縛り上げ「これはエロではありません、芸術です」と言わんばかりの画像を投稿していた。ライティングやアングル、撮影機材や縛り方への拘りをつらつらと投稿欄に記しては、独りよがりな芸術論を展開してみせた。だが、目を凝らしてその投稿写真を見てみれば、どれだけフォトショップで加工したんだよ、とツッコミを入れたくなる「芸術チック」な画像の数々で溢れ、その姑息さに俺は辟易させられた。
SNSのトップの投稿欄には撮影モデルの募集告知が掲げられ、撮影代と称した五万円の金額表示があった。過去の投稿画像から察するに、相当数の撮影をこなしている様子が伺えた。
そんな奴が。そんな芸術家気取りで、裏では金儲けをしている奴が。
会社では上司を気取って「やっておいて下さい」と先輩である俺を顎で使いやがる。
自分じゃ何もできないくせに。壁掛け時計の電池交換の仕方すら知らねえくせに、ふざけんじゃねえよ。
無表情のままM子の独演会に聞き入り、肯定も否定もしない俺の態度に業を煮やしたのか、M子はポケットから私用の赤いスマートフォンを取り出した。
「社内で私用のスマホの使用はご法度のはずだけど」
今どき時代錯誤な会社のルールを盾に彼女を窘めるも、俺の忠告を無視してスマートフォンの画面を俺に見せてよこした。
ベージュ色のベッドシーツの上に男の裸体があり、その体は赤い縄で縛られ拘束されている。男は間抜け面を浮かべて、ぐっすりと眠っているようだ。筋肉質なその体はよく引き締まり、贅肉は見られない。腹筋のシックスパックと亀甲様式に縛り上げられた赤い縄のコントラストが美しい。大腿から腹筋にかけての肉付きがよく、この人物が体幹を中心としたトレーニングに日々明け暮れている様子が伺えた。
「五十過ぎにしてはいい体をしていたので、記念に一枚撮っておきました。戸塚さんに送ったら『サカウエさんは着やせするタイプだな』って返信がありました。でも、筋肉質の体を縛るのって、いま一つ面白味に欠けてしまって。贅肉で少したるんだ体に縄をぐいぐいとめり込ませて、ボンレスハム状態にしたほうが見た目のグロテスク感が増して、いい写真が撮れるんです。あ、これは戸塚さんからの受け売りですけど」
「もう一度言っておく、私用のスマホの使用は厳禁だ。いますぐに、それをしまった方がいい」俺はもう一度、暴走するM子を窘めた。
手に持っていたスマートフォンをゆっくりとテーブルの上に置いて、静かに微笑むM子。見た目には普段のM子と何ら変わりなく、そのギャップに恐怖した。
「サカウエさんは私たちの味方だと思っていたのに、残念です。あなたもこっちの世界に入ってくればいいのに。戸塚さんにきちんと頭を下げて謝れば、すぐに仲間に入れてあげますよ。そうしたら、私があなたを犬として扱ってあげるから。ま、どうせ今だって、戸塚さんの犬なのだろうけど」
そう言うと、M子はスマートフォンを握りしめて立ち上がった。
「今日からは一人で仕事をします。戸塚さんからそう言われていますので。では失礼します」
M子の乾いた靴音がテーブルから遠ざかっていく。それを耳で追いながら、俺は熟慮した。
M子がこの会社に入社してからというもの、彼女は俺に対して従順な犬だった。俺の行く先々に同行して、昼食もいつも一緒に摂った。それらは全て戸塚からの指示で、彼女に社内の悪い虫が付かなくするための、あいつの策だった。
とっつきにくさを自認する俺をM子の番犬代わりにしていたというのなら、それは正しい判断だ。俺も「推し」のM子を守るために、何人たりとも彼女に近付けないようにと常に気を張っていたのだから。
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