行軍の鬼軍曹

 急遽、一週間ほどの海外出張へと旅立つことになった戸塚は、子飼いのM子を俺に預けた。

「福島さんと二人分で大変かもしれませんが、またマンツーマンで面倒を見てやって下さい」

 定時を三十分ほど経過した夕刻、帰り支度をしていた戸塚はそう言い残して、傍らに置かれたビジネスバッグの持ち手を掴んだ。だが、ふと何かを思い起こしたのか、俺の席に向けてつかつかと歩を進めた。

 戸塚は立ったままの姿勢で俺の耳元に頭を寄せて、静かな口調で囁いた。

「悪い虫が付かないように、見張っていて下さい」

 俺に目配せをしてその場を離れ、戸塚はバッグを手にして去って行った。


 気持ち悪い、虫唾が走る。


 当事者のM子はとっくに帰宅をしていたが、今日から残業が解禁となった福島は、まだ席に残っていた。福島は知らぬフリを貫く素振り、だが奴も戸塚の言葉を聞き逃してはいないだろう。

 戸塚は不用意だ。福島を甘く見過ぎている。

「……福島さん、今日から残業解禁だけど、初日なのでそろそろ帰宅したら?」

 俺が声をかけると福島は「……はい、そ、そろそろ、ゲホッ、帰ります」と相変わらず俺と目線を合わせずにそう返事をした。マスクをしているというのに、その下の表情は微笑んでいるように思えて不気味だった。


 戸塚が海外出張に出かけているこの一週間が勝負の時だ、とM子を公用外出に連れ出すと決めた。タイミングよく明日から横浜の展示場で「未来エネルギー技術展示会」なるものが開催される。知見を広げるための公用外出が励行されるこの会社にあって、これを利用しない手はない。

 外出申請の承認作業はほかのグループの管理職に頼んだ。かつての後輩だから、気前よく承認をしてくれたのは年の功というもの。出張中の戸塚には事後報告さえしておけば、それでいい。

「明日は未来エネルギーの技術展示があるので、私とM子さんは横浜に外出します。福島さんには新たに資料の整理をお願いするから、その仕事をやっていて下さい」

 外出する旨をM子と福島に伝えた。リハビリ勤務を継続中の福島は、まだ出張や外出の許可が健康管理室から出ていない。それを認識している福島は「わ、分かりました」と留守中の業務を受け入れた。

 M子は素直に「はい、承知しました」と言い、「どんな服装で行けばいいですか」と俺に尋ねた。

「展示会だからクールビズでいいですよ。きっと会場の中は暑いだろうから、涼しい恰好で」と俺は言った。


 翌日、午前十時半前に待ち合わせ場所の桜木町駅に到着した。改札を抜けて駅前広場に出ると数年前に開業したばかりのロープウェイが目に飛び込んだ。夏の強い陽射しに照らされた銀色の車体が、一定の間隔で吊るされて整然と進行していた。

 開業のニュースを耳にした際は、そんなの誰が乗るんだよ、と首を傾げたが、なるほどこうして現物を目の前にしてみるとこの街の雰囲気に上手く溶け込んでいた。この乗り物を企画立案した人物には、この未来の光景が鮮明に見えていたに違いない。

 展示会の方向に向かう人波をぼうっと眺めていると「サカウエさん、お待たせしました」と声をかけられた。すぐ隣にM子の姿があった。

「クールビズで」と言った俺の指示のとおり、薄手のタイトな黒のスラックスに、上半身は半袖の開襟シャツ。白くて細いその二の腕が、太陽に照らされて眩しい。肩には大きめのトートバッグを掛けていた。

「おはようございます。じゃあ、行こうか」

 M子を連れ立って展示会場へ向けてプロムナードを歩き出した。

 会社の中ではいつも俺の一メートル後方を歩くM子が、今日は俺のすぐ右隣りを歩いた。視界に彼女の横顔がちらちらと入り込む。歩く速度をいつもよりわざと遅くして、俺はこの状況を愉しんだ。

「昼どきの時間帯は混むから、早目の食事にしよう」

 俺の提案にM子は小さく頷いて、二人で道沿いにあったオープンテラス風の洒落た店に入った。普段の俺ならこんな店には入らないのに、と自嘲しながら、通りを見渡せる眺めのいい席を選んだ。

 小洒落た感じの、でも腹の足しにはならないランチセットを二人で食しながら、俺たちは日常的な会話を交わした。

 少し大きく開いた開襟シャツの襟元から臨む首すじと、半袖シャツから伸びるすらっとしたほどよい肉づきの腕。会社では決して見ることのできないこの姿。なるほど、飼い主が不在だったら肌に跡が残ることはなく、それを他人に見られる心配もないのだ、と腑に落ちた。

 食事を終えて「未来エネルギー技術展示会」の会場に入った。展示会の初日だというのに会場は人でごった返し、外より空気が薄い感があった。

 本音を言えばこの展示会への興味なんてゼロだ。事務仕事が多い俺にとって、これがいったい何の役に立つというのか。今日の目的はただ一つ、M子と二人きりの状況を作り出したかった。もちろん会社の外で、戸塚の目の届かぬ場所で。

 会社から一歩外へ出たM子は、実に生き生きとしていた。展示ブースをつぶさに見て回り、技術説明員の解説に耳を傾け、無料で配布されるノベルティグッズを次々とバッグに詰め込んだ。彼女に質問をされた説明員の野郎どもはみな、目を輝かせて目一杯の応対をした。訪れたブースの数より遥かに多いグッズの量がそれを物語っていた。

「すごい量だな……」

 肩に掛けたトートバッグ一杯のグッズを見て俺が茶化すと「はい、福島さんへのお土産ですから」と彼女は言い、その笑顔に完全にノックアウトされた。

 M子が精力的に展示ブースを歩き回った結果、一緒に行動した俺の体力は徐々に削られていった。五十三歳、いつもデスクワーク中心の業務をする俺にとって、この練歩きは辛い行軍となった。普段から筋トレで鍛えている体とはいえ、数時間の歩きっぱなしは足と腰に堪えた。

 M子は疲れた俺の表情に気付かないのか、それとも見ぬふりをしていたのか、全く顔色を変えずに「次はあの一画を見に行きましょう」と先陣を切って先へと進んだ。行軍の鬼軍曹と化した彼女の後ろ姿を追って、俺は重くなった足を引き摺り歩くしかなかった。


 午後三時をとうに過ぎたころ。

「ちょっと休憩でも、いかがですか」とM子に誘われて、展示会場に併設された臨時のカフェブースを訪れた。

 俺はアイスコーヒー、M子はモカ・フラペチーノをそれぞれ注文した。運良く空いていた席で飲む冷たいコーヒーの苦みが、俺の疲れきった体に染みた。真向いの席のM子は美味しそうにモカ・フラペチーノをストローで口に運ぶ。

「ああ、冷たくて美味しい……ちょっと疲れましたね」

 言葉とは裏腹に疲れなど微塵も感じさせぬ微笑みを見せるM子。この華奢な体の何処に、あれだけのスタミナが蓄えられているのか。見た目とは対照的な彼女のタフな一面を、身を以って思い知らされた。

「すごい元気っぷりだね……会社ではそんなふうには見えなかったよ。学生のころ、何か運動でもやっていたの?」

「いいえ、帰宅部です。でも、マラソン大会とかはいつも一位でした」そう言ってM子は悪戯に笑ってみせる。

 俺の推しはやはり、只者ではないのだと知って気分が昂る。願わくは、あいつの呪縛から解き放ち、彼女を自由にしてやりたい。その想いがより一層強くなる。

 そしてその手はもう、打ってある。

 あとは山崎の仕事ぶりに期待をするしかない。


 その日の夜、俺とM子はセックスをした。なぜそうなったのかは、記憶が曖昧で自分でもよく分からない。ワンチャンを狙っていたのかと聞かれれば、「そうだ」と正直に答えるしかない。

 展示会をぐるぐる回って疲れ果てた俺たち二人は、自然の流れで一緒に夕食を摂り、自然の流れで酒を飲み交わし、そして自然の流れでラブホテルへ向かった。

 飲み過ぎたのかもしれない。M子が先にシャワーを浴びている最中に、俺はベッドで完全に意識を失った。気が付いたときには、俺は裸の状態で縛られていた。

 ベッド上で仰向けの状態のまま、両腕を後ろ手に縛られて身動きが取れない。両足首は拘束具のようなもので何かにに固定されている感覚があった。そして素っ裸の俺の体には、赤い麻縄が張りめぐらされて、動こうとする俺の体をじりじりと締め付けた。

 頭をもたげて体を確認すると、亀甲縛りと呼ばれる縄の模様が俺の胸から腹の上で形成されているのがようやく見えた。そんな状況下にあっても、強烈な眠気が俺を襲い続けて意識が遠のきそうになる。そのとき、閉じかけた瞼にM子の姿が映り込み、俺は必死に失いかけた意識を呼び戻した。

 M子は黒い下着姿でベッドの横に現れ、裸の俺の上に四つん這いで跨った。口を器用に使って俺の息子を奮い勃たせて、手際よくスキンを装着した。そして恥じらいもなくあっさりと下着を脱いで裸になった。

 彼女の華奢な白い体と、はりのある乳房、綺麗に整えられた陰毛を眺める間も与えられず、いつの間にかしっとりと濡れた彼女のあそこが俺の勃ったものを咥え込み、そして麻縄で縛られた俺の体の上でM子は一心不乱に腰を振った。振って振って、振り続けた。

 ついには一人で勝手にオーガズムに達して、獣のような声が部屋に響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る