最終列車
眩しい初夏の日差しに目を細めて、そろそろ半袖に衣替えをするか、フライング気味だけどいいよな、などと独り言を呟きながら駅から会社までの道をいつものように歩幅を広めて歩く。部署のフロアに到着すると、早朝だというのに珍しく目の前の席に佐々木さんがいた。
自席の机の抽斗を開けて何やら片付けをする様子を見て、思わず「あ」と声が出た。今日は佐々木さんの最終出社日だったのをすっかり忘れていた。
同じグループだというのに、最近ではレッドリストなみにその姿を社内で見かけなくなり、俺の脳裏からはすっかり佐々木さんの存在を消去していた。
これはまずい状況だ。部署内で慣例的に行われている退職者のセレモニーの際に渡す記念品や花束なんて、何ひとつ準備なんてしてはいない。
不用意に出社した俺の姿に気が付いた佐々木さんは、
「サカウエさん、おはようございます。今日が最後になりました。いろいろ迷惑をかけてすまないけど、あとはよろしく頼むよ」と、戸塚の命で俺が引き継いだ業務について、気にかけた。
俺は顔を引きつらせながら「あ、おはようございます……片付け、何か手伝いましょうか」と返すのがやっとだった。
会社を辞める佐々木さんの業務引継ぎは、俺の役目だった。
数ヶ月前のことだ。
毎週月曜恒例の社内の人事発表に、佐々木さんの名と「依願退職」の文字を見つけて「あ、辞めるんだ」ぐらいの緩い反応を示して完全に油断をしていた。
そんな俺に向けて戸塚はサラリと言い放った。
「サカウエさん、佐々木さんの業務引継ぎを、よろしくお願いします」
内心腹が立った。
「すまないねえ」とは佐々木さんの弁。その表情からは申し訳なさなど微塵も感じられなくて、また腹が立った。
佐々木さんは俺が入社間もないころに世話になった人物、だから、俺は必死に口角を持ち上げながら「大丈夫です、あとはお任せ下さい」とその場を取り繕った。だが自分に正直になれば、先輩ではあるものの素直に退職を祝う気持ちなど微塵もなかった。
俺の前の席で、佐々木さんは黙々と手持ちの荷物を片付け続ける。大半の荷物は捨てるつもりなのか、傍らに置いたダンボールに躊躇なくぽんぽんと物を投げ入れるさまが、見ていて痛快だった。俺もああやって机の荷物を片付ける日がくるのだ、と数年後に訪れる自らの退職日のことを想い、感傷的になった。
「そういえばさ、早期退職って、今年度で終わるらしいよ」
佐々木さんが不意に放った一言で、頭が真っ白になる。
自席でパソコンを起動して、パスワードを入力する直前のことだった。入力欄のプロンプトの点滅を暫く見つめながら、その言葉の意味を噛みしめる。返す言葉が見つからず、思わず唾を飲み込んだ。
「資金が尽きちゃったみたいだね、みんなホイホイと手を挙げるもんだから。あ、俺もか」
すでに心ここにあらず、無節操な自虐。佐々木さんにはもう、遠慮というものがない。
情報ソースを手繰る必死さを悟られないように無表情を貫き、感情を押し殺して訊いた。「それって、誰に聞いた話ですか?」
「俺の同期に本社の役員がいてね、このあいだバッタリ会ったときに『早期退職する』って伝えたらさ、『最終列車に間に合ったな』って言われたよ」
佐々木さんと役員がどうしても上手く結びつかず、全く府に落ちない。「最終列車」なんて洒落た台詞が鼻に付く。だが、たぶん真実なのだろう。
早期退職制度終了の噂が拡散していたのは、もちろん知っていた。総務課の山崎が言った、制度終了に否定的な発言をすっかり鵜呑みにして、自分の退職後の青写真を勝手に描いていた。いや正直に言えば、わざと鵜呑みにして不都合な噂を必死に握り潰していただけのことだ。
大金をまんまと掴み、早抜けして辞めていく佐々木さんの口から「終了」の事実を知らされるという、この耐えられない屈辱。本人に悪気がないのは明白だからこそ、全く割り切れない。
「おはようございます」
気が付けばそこには、出社したM子の姿があった。彼女にしては珍しく、手には何か荷物を持っていた。そういえば、M子と佐々木さんは同じグループだというのに、一緒に席にいるところを見たことがない。まさかの今日が初対面なのか。
「ああ、M子さん。昨日はお世話になったね」
「いいえ、あれぐらい、大したことじゃありませんから」
二人の会話が俺のすぐ頭上を通過する。それをよそに、唖然としたまま自分のパソコンに向き合った。
今日は月曜日だから、この二人は休日である昨日に、何か出来事を共有していたということ。社内ではいつも俺と行動を共にしていたM子と、放し飼いだった佐々木さん、この二人がいつの間に近しい間柄になっていたのか。
知らぬが仏とはこのことか、と嗤う。
未だ点滅したままのパスワード入力欄のプロンプトが、早くしろ、と俺に入力を促し続けた。
その日の夕刻の定時間際、部署の人員が集められてささやかな退職セレモニーが開かれた。佐々木さんは最後の挨拶を皆の前で披露して「ソーキそば大食」を完遂し、大金を手に最終列車に乗り込んで行きやがった。
M子が首尾よく用意した記念品と花束のおかげで、退職者への無下な扱いを部署内に晒すことは回避された。手ぶらのまま退職させても、それはそれで面白かったのだが。
佐々木さんが帰宅して間もなくのこと、M子が俺の元へやって来た。
「佐々木さんの記念品とお花代をグループでワリカンにするので、八千円をお願いします」
「は? 何それ、そんなの払わないよ」と言ってやりたかった。
だがM子の静かな笑顔に促されて「はいはい」と財布から一万円札を取り出す自分は、偽善者以外の何者でもない。
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