ハラスメント
とある日のことだった。出勤ラッシュの喧噪を避けて定刻より少し早く出社すると、部署のフロアがいつもと違う空気の色を見せていた。
先に出社していた連中が何やら落ち着かない様子で、数人が一台のパソコンの画面を覗き込んでは話に花を咲かせていた。その表情からは下世話な話で盛り上がる無節操ぶりが伺い知れた。
その様子を横目で捉えながらいつものように自分の席に座り、個人用パソコンの電源を立ち上げて、新規に届けられた数件のメールをチェックする。その中に「業務終了のご連絡」と件名が記載された派遣ゲストの女性から、昨夜遅くに届いたメールがあった。
そういえばこの人は昨日で派遣契約が終了だったな、貸与品のパソコンや携帯電話の返却は彼女の管理者が滞りなくやってくれたのか、未返却だとまたこちらへ仕事が回ってくるから面倒だ、などと無用な心配事がさっと脳裏に浮かんだ。
届いたメールはどうせまたいつもの「みなさん、大変お世話になりました。本日で業務を終了します」といった類のご挨拶メールだろ、と高を括ってそのメールを開いた。
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お世話になっております。
通信システム開発課 派遣社員のS子です。
宛先多数のため、一括でメールを送信させて頂きます。
面識のないかたにも配信となりますことをお詫び申し上げます。
本日をもちまして、業務終了となります。在職中は大変お世話になりました。
派遣社員という働き方をしていくつかの企業を回って参りましたが、こちらは空調設備の整った清潔感のある職場で、概ね働きやすい職場でした。
ですが、大変残念ながら、ここ一年間はハラスメントに悩まされました。
派遣社員の赤木さんからのセクハラと、それに相乗りするような河合主任のパワハラです。
赤木さんのセクハラについて管理職の河合主任に報告をしましたが、河合主任は赤木さんのセクハラを放置して、相談していた私に対してもパワハラまがいの高圧的な態度で「我慢をしろ」と命じました。
おかげさまで心身への疲労が限界を超えて、心療内科へ通院するはめになりました。
そして、最終的には私だけが、派遣契約を切られることになりました。
海外にも支社を持つこの大きな会社に河合主任のような管理職がいること、また同じ職場に赤木さんのような派遣社員がいること、そしてパワハラやセクハラを放置しているこの会社を非常に残念に思います。
正社員も派遣社員も、ともに本当に働きやすい環境になりますように祈っております。
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S子のメールにはエクセルファイルが添付してあった。その中身を確認すると、赤木さんから受けたセクハラ行為の詳細と、その被害を河合主任に訴えた日付、訴えに対する河合主任の対応とS子に浴びせたパワハラまがいの文言が、時系列順に理路整然と記されていた。
S子には文才があったのか、あまりにリアルに描写されたその内容に思わず眉をひそめた。
メールと添付ファイルを読み終えて「はあ」と溜め息を付くのと同時に、戸塚が息を切らせて出社した。管理職のみに支給されているスマートフォンのメールアプリで、すでにS子のメールの件は承知済みらしい。
「サカウエさん、S子のパソコンをすぐに回収して下さい」戸塚は焦った様子。
「S子さんのパソコンは、私が担当している管理物件ではありませんよ」俺はわざとつれなく返した。
「だからお願いしているんです。昨日、S子はパソコンを返却せずに帰宅したみたいなので、すぐに探し出して下さい」
「……分かりました。ただ、メールはもうみんなに送信されているので、いまごろパソコンを回収しても意味がないんじゃ……」
「証拠が必要なんです、メールが送信された証拠が。早く探し出して下さい」
S子が起こした騒動は衝動的な行動ではなく、彼女が用意周到に準備を重ねた結果だったことが、騒動の事後処理をさせられた複数の関係者の証言を重ね合わせることで判明した。
S子のメールは彼女が所属していた部署のみならず、わが社のほぼ全ての部署に送りつけられていた。宛先に設定されていた他部署のグループアドレスを、S子は何らかの方法で事前に調べ上げていた。
メールの本文やハラスメントの詳細が克明に記述されていたエクセルファイルは、業務時間中にS子が密かに準備をしていたものだった。
最終出社の日を迎え、S子は平然を装って机やキャビネットなどの身の回りを整理しつつ、世話になった社員たちに謝辞を述べて回った。
会社からS子に貸与していたパソコンは、最終日に彼女を担当していた管理職へ返却するのがルールだった。だがS子は「まだ仕事が残っていますので、帰宅する際に自分でIT部へ返却します」と主張して担当管理職を煙に巻いた。
定時を過ぎてもS子は仕事を続けて、多くの社員が帰宅の途につくのを静かに待った。そして「パソコンを返却してから帰ります」と残っていた数名の社員にそう告げて、その足で食堂へと向かった。
S子は人気のない食堂の一画で、事前に準備をしていた「告発メール」を一斉に送信し、パソコンを現場に残してロッカーで着替えを済ませて、そそくさと帰宅をした。
食堂の机に放置されたパソコンは電源が入れられたままの状態だったため、深夜にバッテリーが切れて自らその命を絶った。
翌朝、そのパソコンの亡骸は、戸塚に捜索を命ぜられた俺が発見して回収した。
S子が送信した「テロ」とも呼ぶべき告発メールは、周囲に多大な影響を及ぼした。
セクハラを告発された派遣社員の赤木さんは何も知らずに出社をしてS子のメールを一読し、青色吐息のまま席を立ち、Uターンをして帰宅の途についた。その後、二度と赤木さんが出社することはなかった。
同じく告発された河合主任は、よほど面の皮が厚いのか「俺は悪くない、あれはパワハラじゃない」と周囲に吹聴して身の潔白を主張した。人望が厚い河合主任を擁護する声は多かったが、会社の上層部にまで届けられたメールの影響は大きく、三週間後に河合主任の人事異動が発令されて、彼は現在の職務とは全く関連のない部署へと去って行った。
S子が所属していた人材派遣会社のT社は、今後は新規の派遣契約を結ばないと通告され、契約中だったT社のほかの派遣社員の面々も契約延長をしない方向で社内の調整が行われた。
S子のメールが送信された一週間後には、社内にコンプライアンス事務局が設立され、相談窓口も併せて開設された。窓口への相談や報告は「匿名でも可」とされて、これは部署内でもちょっとした話題となった。
コンプライアンス事務局の取りまとめ役は総務課長の山崎健一が兼任した。
告発メールテロ騒動がひと段落して、誰もが「ああ、そんなことがあったな」と笑い話にし始めたころだった。
「S子さんはその後どうなったのですか?」
食堂でM子に尋ねられた。すでに食事を終えて差し障りのない日常会話をし始めたばかりのこと。こういう展開は珍しい。
「さあ、どうなったのかな? 間違いなくT社はクビだろう。回収したパソコンに彼女のログイン情報やメールを送信した履歴が残っていたからね。うちのお偉いさんが『T社とS子に損害賠償を請求する』って息巻いていたらしいけど、さすがにそれは回避されたんじゃないかな」
「そうですか……一番の被害者はS子さんなのに、可哀そう……」
M子の言葉に、はっとさせられた。今回の騒動を受けて「S子は被害者」と認識を持つ社員は皆無だろう。無論、俺もその考えを持ち合わせてはいない。
退職時に迷惑千万なメールを送り付けたS子の罪は重い。だが赤木さんのセクハラがなければ、または河合主任が適切な対応を取っていたのなら、S子はいまでも派遣社員としてこの会社で働いていたはずだ。企業としてのコンプライアンスが大甘だったこの会社にも、責任の一端は確実にあると言える。
「そうだ、最近コンプライアンスの相談窓口っていうのができたから、何か嫌なことがあったらすぐに相談をして下さいね。匿名でも良いみたいだから」
生まれ持ったその美貌から、異性からちょっかいを出されやすいM子に、相談窓口の存在を教えた。この窓口の担当を兼任するのは総務課長の山崎だ。口は悪いが仕事熱心な彼なら、誰からの相談に対しても適切な処置をするに違いない。
「え、私ですか? 私は大丈夫です」と、静かに笑みを浮かべるM子。
「うちの会社の社風って古めかしいから、セクハラだのパワハラだの、そういう概念はほぼないに等しいんだ。だから――」
「私は戸塚さんとサカウエさんに守られているので、大丈夫です」
M子に発言を遮られたのは、初めての経験だった。さっきまでの彼女の微笑みは、顔から消え去り、二人の間に沈黙の時が流れる。
「それに、何かあったら私は反撃に出ますから」
満面の笑みを浮かべたM子。普段から表情をあまり崩さない彼女の破顔は、破壊力抜群だった。
M子が入社後初めての有給休暇を取得した日、計ったかのように同期の山崎から休憩に誘われた。
「いつもの相方は今日はいないのか。ついにコンビ解消か?」
「……彼女は休みだよ」
のっけから軽口を叩く山崎の表情はくすんだ色を浮かべていた。よほど疲れているのだろう、いい男が台無しだ。
「コンプライアンス事務局を兼任じゃ、大変だな」と、薄っぺらな労いの言葉をかけた。
「そんなことを言ってくれるのはお前だけだよ。みんな、総務課がやるのが当たり前だって顔してやがる。まったく、くそったれが」
「このあいだ、コンプライアンス講習を受講したよ。講師が酷かったけどな……」
「あれか……上から『社員全員に向けた講習をすぐにやれ』ってうるさく言われちまって。急いでセッティングしたもんだから、講師のレベルなんて気にも留めなかったよ。終了後にアンケートを書かされただろ? まだ一部にしか目を通してないけど、酷い書かれ方だったぜ」
「社員全員が必ず受講のこと」と御触れが出たコンプライアンス講習は、S子の騒動があった日からちょうど三週間後に開催された。講師としてやって来たのは白髪猫背の老人だった。そのルックスに似合わず声のトーンだけは甲高く、活舌の悪さも相まって、受講者を容易にイラつかせる素質の持ち主だった。
「講習のサマリーを上に提出しなくちゃいけないんだが……どうやって内容をでっち上げるかって悩み中だ。まったく頭が痛いよ」と言い、山崎は顎を上げて、手にした缶コーヒーをぐいっと一気に飲み干した。
全員参加が義務付けられたコンプライアンス講習には運営管理グループの全員が出席し、俺とM子と戸塚の三人が、ひとつの机に横並びで着席をした。早期退職目前で放し飼いの佐々木さんも出席していたはずだが、講習会場にその姿を見つけることはできなかった。
俺の隣に座った戸塚は、講習が始まるとじっと腕を組んでずっとうなだれていた。彼は寝ていたのかもしれない。さらに向こう隣のM子の様子は、俺の視界からは窺い知れなかった。
俺はといえば、いつもの癖でメモを取りながら、聞き取りにくい白髪講師の講習内容に熱心に耳を傾けた。そして、その内容に気になる点を見つけていた。
「コンプライアンスの件なんだが、ちょっといいか?」と山崎に質問のボールを投げた。
「ああいいぜ、俺も相当勉強させられたからな」ボールをキャッチした山崎はまんざらでもない様子。
「セクハラとパワハラの話だけかと思っていたんだが、ほかにもあったじゃないか、収賄とか横領とか接待とか」
「そう、コンプラってかなり広い範囲のことを示すんだ。社会的規範というか、倫理的にこれは駄目だろう、という内容が全て含まれる。うちの会社って、いままでそういうのはザルだっただろ? 特に接待には気を付けたほうがいいぜ。取引先の相手から『一席ご用意しました』って言われても、絶対に断っておけよ。あとで誰にチクられるか、分かったもんじゃないからな」
「チクりか……チクられたら、いったいどうなるんだ?」
「倫理委員会ってやつにかけられて審議されちまう。審議内容に公平を期すために、外部の弁護士までそのメンバーに入っているよ。その審議で『これはアウト』と判断されたら処罰が下されるってわけだ」
「処罰かよ、世知辛いな」
「相談窓口ができたばかりなのに、もう二件の相談が寄せられている。そのうちの一つは重いパワハラの案件で、懲戒処分が発生するかもしれないぜ」
倫理委員会について喋る山崎は、さっきまでとは一変した、生き生きとした表情を浮かべる。
「人の不幸は蜜の味」
思わずそんな言葉が浮かぶ俺も、正直にいえばこの手の下世話な話は嫌いじゃない。
「あと、社内規則にも十分気を付けろよ、特に副業にな。お前、何かやっているか?」と山崎。
「いや……金にはそれほど困ってない。俺は独身貴族だから」
「うちの会社が社内規則で副業禁止を謳っているのは知っているだろ? 最近、若い社員の副業の噂が絶えなくて。若手の給料は安いから、今までは上の連中も大目に見ていたんだが、コンプラの件もあってこれも厳しく罰するって方針転換したらしい」
山崎の言うとおり、確かに若手社員の副業の噂は何度も耳にしたことがあった。休日を利用した自宅での英会話講師やスポーツの指導員なんてのは序の口、平日の帰宅後にオンラインサロンを開いて株売買の指南をしている強者までいると聞いている。
「組合からも副業は認めるべきという声が上がっているけど、現状では認められていないから気をつけろよ。こいつもバレたら処罰の対象になっちまうぜ」
山崎の口から出た「副業」と「処罰」。この二つのキーワードに、ピンと来るものがあった。なるほど副業か。会社の給与以外に労働の対価として収入を得ているのであれば、それは副業であり、処罰の対象となる。
それはもちろん、あいつにも当てはまることだ。
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