増員

 南からじわじわと北上しつつあった梅雨前線が関東地方に差し掛かったころ、グループミーティングの場で戸塚の口から早期退職制度が終了すると告げられた。知っていたことなので特に驚きもせずにいると、間髪入れずに、

「それと、このグループに一人増えます」と付け加えた。

 青天の霹靂。M子のときもそうだった。いつも突然に思いもよらぬことが起こる。隣で一緒に聞いていたM子は、気にも留めていない様子だ。

「元ITシステムグループの福島さんです、サカウエさんは彼をご存じですよね」と、戸塚はその人物の名を口にした。

「はあ、いちおうは……」表情を崩さずに返事をするが、内心は忸怩たる思いだ。

 ITシステムグループの福島武史は部署内きっての役立たず社員で、つい先日まで体調を崩して休職扱いになっていた奴だ。

 世間的によく言われる「メンタル休職」の扱いだが、こいつの場合は「あれは仮病」との周囲の声が絶えない。精神科の医者を買収して診断書を書かせてメンタル休職に逃げ込んだ、というのがもっぱらの噂だ。

 福島は四十歳を目前にして、もちろん独身。休職中も会社から支給される手当を餌に、毎夜をオンラインゲームに費やすと噂されるクソ野郎だ。

 休職明けは元の所属グループで復職するのが社内のルールだが、福島はこれが三度目のメンタル休職明け。元のグループがサジを投げた形で、この運営管理グループが彼を引き取ることになったのだと、戸塚からその経緯が説明された。

 引き取る側としては、たまったものじゃない。使えない社員のリハビリ勤務に振り回されて、自分の業務が疎かになるのが目に見えている。

「サカウエさん、福島さんの面倒を見てあげて下さい」

 管理職のくせに自分は福島の面倒を見ないつもりなのか、と憤りながらも声を殺して「はい」と返事をした。

 ミーティング終了後、隣の席のM子に「福島さんって、どんな人ですか?」と聞かれて、返答に窮する。本当ならば、会社の恥部である福島の醜態を全て曝け出したい。だが夢や希望を持ってこの会社に転職してきたM子には関係のない話。

 少し間を取ってから「福島さんはメンタルに不調を抱えていから仕事のパフォーマンスに問題があるかもしれないけど、長い目で見てやって下さい」と当たり障りのない受け答えをしてお茶を濁した。勘の良いM子だから、これで察してくれるはずだ。

 翌週の月曜日、その「会社の恥部」が一年半ぶりに出社をした。

 ボサボサの髪にヨレヨレの作業着と薄汚れた靴、風邪気味なのか口にはマスクをしている。そのマスクはいったい何年前のものだよ、とツッコミを入れたくなるほど黄ばんでいた。

「おはようご……ゲホッ、ゲホッ、お、おはようございます。ゴホッ、すみません、体調が悪いもので……ゲホッ」

 これが話に聞いていた「体調悪いアピール」なのかと、思わず眉をひそめる。以前所属していたグループのリーダーから、福島の情報は事前に仕入れていた。

「いろいろやらかしてくれるから、気を付けて」とはこのリーダーの弁。ふざけるなよ、こっちのグループに丸投げしやがったくせに。

「……おはようございます。福島さんは今日からこのグループのメンバーなので、よろしく。戸塚さんが出社したら、三人で今後の業務について打合せをしましょう」

「はい……ゲホッ、ゴホッ、分かりました、よろし……グホッ、よろしくお願いします」

 挨拶を交わしながらも、福島の視線が明らかに俺のほうを向いていないのだと気が付いた。なるほど、こんなクソ野郎でも異性への関心というものはあるらしい。

「……こちらは中途採用で入社したM子さん」と福島にM子を紹介した。

「初めまして、これからよろしくお願いします」分け隔てなく、静かに挨拶を交わすM子。

「福島です。よろしくお願いします」

 急に咳き込むのを止めやがったこいつを、殴ってやりたい衝動に駆られた。


 遅れて出社した上司の戸塚を交えてミーティングスペースへ移動した。今後の福島の業務に関する打合せを三人で行うつもりだったが「私も同席させて下さい」とM子も一緒に付いてきて、四人でテーブルを囲んだ。

 休職明けでリハビリ勤務の扱いとなる福島は、当初の二週間は午前中のみの勤務となり、その後少しずつ勤務時間を伸ばしていく「復職のためのプログラム」なるものが健康管理室から指示されていた。

 毎日決められた時刻に出社して席に座り、負荷の低い業務を完遂させて、決められた時刻に帰宅をする。脳や体を少しずつサラリーマン生活に慣れさせるための措置だが、似非メンヘラ社員の福島にはたしてそれが適しているのかと、疑問を隠せなかった。

 戸塚から「復職のためのプログラム」の説明を受ける福島は神妙な面持ち、だがその視線は時折M子にちらちらと向けられているのを俺は見逃さなかった。

「それじゃあ、詳しい業務内容はサカウエさんから指示を受けて下さい」と戸塚は福島の扱いを全て俺に丸投げした。

「M子さん、ちょっと話があるので席を移動しましょう」とM子を連れ立って、戸塚はミーティングテーブルを離れて行った。

 席に残されたのは俺と、その対面に座る福島。

「じゃ、詳しい業務内容を説明しようか……」

「はい……ゲホッ、お、お願いします」

 業務内容の説明を開始して五分後、福島の目が死に始めた。どうやら眠いらしい。それに気づかぬふりをして、粛々と業務の説明を続けた。

 福島の業務については前のグループのリーダーから「急に会社に来なくなるリスクがあるから、重要な仕事は任せないほうがいい」と助言があった。そんなの当たり前じゃないか、と毒づきながら当たり障りのないゴミみたいな仕事の説明を福島に向けてし続けた。

 眠たい目をショバショバさせながら俺の説明を必死に聞く福島、説明を聞こうとする努力だけは買ってやることにした。

 ひととおりの説明を終えて「じゃあ、席に戻ろう。今日はとりあえずパソコンのセットアップから始めて」と俺は言った。

「ゴホッ、ゲホッ……あの、ちょっとだけ、い、いいですか」と福島は何かある様子。

「いいけど」

「M子さんって、グホッ、何処かで見かけたことがある気がして、ゲホッ、ど、何処だったかなあ……」

「どこかの女子アナとか、そんな感じじゃないか? 綺麗な人だから……毎日テレビを観ていれば、そんな気にもなってくるよ」

「私はテレビを、グホッ、観ないので……」

「他人のそら似だろ。それはいいから、早く席に戻るぞ」

 俺はすっくと立ち上がった。これ以上、この話を続ける気は毛頭なく、自席に向けて歩を進めた。後方に福島が付いてくるのを横目で確認して、歩く速度を少し増した。

「厄介」の二文字が脳裏に浮かぶが、それをすぐに黒板消しで拭い去るように消滅させた。

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