第3話



「ネーリの絵は、描くのが早いのに時々、立ち止まってることがある」

 フェルディナントが言った。

 フェリックスの身体に凭れかかりながら、絨毯がわりに敷いた毛布に腰掛けて、彼は時間のある時に時々、ネーリが描いている姿を眺めるようになった。面白いのだ。彼は絵が描けなかったので、画家の作業は何もかも新鮮に見える。

「じっと見てるから、立ち尽くしてるように前は見えたけど、違うんだな。多分この変わらない景色を見ながら、お前の頭の中では未来に描くものが見えてるんだろう」

 ネーリはフェルディナントが側にいても、無言で描き続けることがあった。

 以前は側にやって来ると筆を止めたことがほとんどだが、フェルディナントが話しかけないならば、挨拶だけに留め、描き続けている。フェルディナントは、自分という存在にネーリがそれほど慣れてきているのだと思って、嬉しかった。

 彼は描き続ける時もあるが、筆を止めてる時は、フェルディナントの側に寄って来て、もたれかかり、二人で未完成の絵をそこから眺めることもあった。フェルディナントは自分の側でネーリが押し黙って、何かを考えながら絵を見上げている姿が好きだった。まだ見ぬ未来を視る、彼の横顔は、いつもの明るさやあどけなさが消え、美しい。

 その日、ネーリはフェルディナントの胸に凭れながら、聞こえてきた彼の声に、優しい笑みだけ浮かべた。

「描くものが固まったらまた一気に描く」

 描き始めた時のネーリの集中力は凄まじい。両手に何本も筆を持って、器用に持ち替えながら、画面に張り付き描き込んでいく。とても外から声など掛けられない。

 剣を持つ騎士のような覇気を纏って描いて行く。

 フェルディナントはこれが画家なのだ、と初めて知ったような思いがした。

 彼は自分が芸術に疎いことも原因だったが、ネーリに会うまで、正直な所、画家というものを軽視していたと思う。自分たちが死線でやり取りをするからといって、彼らなど、危険のない家で、援助を受けながら絵を描いているだけではないかと思い込んでいた。

 だから彼らに庇護を与える貴族も、フェルディナントはあまり快く思っていなかった。

そんなものに財を使うなら、社会貢献にでも使った方がまだいいと、そんな風に思っていたけれど。

 寝る間も惜しみ、朝も昼も夜も、描けるものが自らの中に絶え間なくある限り、力の限り描き続けるネーリの姿を見て、考え改めた。そうして彼が生み出す作品の素晴らしさを見て。

 フェルディナントは初めてミラーコリ教会で、ネーリの【エデンの園】の大作を見た時、一体、どんな人間が、どんな技術と信念で、こんなものを生み出せるのだろうと、感動し、想像も出来なかった。

 今はその答えの全てが、抱き寄せる腕の中にある。

 何かを深く愛し、その為に深く憂い、喜びも悲しみもただ一つ、その方法でしかこの世にあるものとして描き出せない。

 彼の愛情深さ、真剣さ、頑強さ、美徳の全てで、困難を越えていく。

 普通の人間なら、こんな大作を描くことは「困難」だ。

 だがネーリ・バルネチアにとっては描く喜びに変わる。

 いや……、きっと彼らにとっても大作を仕上げることは困難だろう。でも彼らは描く喜びを知っているから、その困難にも恐れず立ち向かっていける。

 画家にとっての大作には、苦難も喜びも、そこに込められているのだ。


 今、王家の森の絵は、一面が青くなっている。

 その青に陰影がある。

 よく見ると緑がかった部分もある。

 陰影は光の明るさを示すと、ネーリが教えてくれた。

 これからここに景色を描き込んでいくが、その時にその陰影を辿り、景色にも影と光がついて行くのだそうだ。

「……いま何を一番考えているんだろう?」

 今日は倉庫を覗きに行くと、ネーリはフェリックスに凭れかかって、尾に包まるようにして、寝そべり絵を見上げていた。


「光源だよ」


 試しに側に座ってみると、ネーリがフェルディナントの膝に凭れて来てくれた。今は二人で寝そべって、ネーリはフェルディナントの胸に耳を寄せて、その穏やかな心音を聞いていた。

 静かに返った単語を繰り返す。

「光源……」

「この世界の、光がどこから来るのか。それは何なのか」

「太陽ではなく?」

 ネーリは微笑む。

「太陽も光源の一つ。きっと太陽を光源にイメージすると、この世界は明るく穏やかな光の色が出る。でも世界の光ってそれだけじゃないんだよ。月や星もそうだし、他の光が水に入り込んでも輝きが光源になる。

 ううん……それだけじゃない。実際にあるものだけじゃないんだ。

 この世界でたったひとつ、竜の存在する国の、竜達の暮らす森。

 フレディが教えてくれた言葉が、すごく心に残ってるんだ。

『竜は精霊の亜種』。

 あの子たちは精霊寄りの存在なんだ。

 だったら、ここは普通の森じゃなくて、精霊の棲む森であるはずだよ。人間でも自然でもない……僕は精霊を見ることは出来ないけれど、感じることも出来ないものなのかな?

 大きな力で包まれてることを感じたり、ここにはいない誰かに見守られてることを感じられたり、不思議な予感、信仰や、希望も、

 ……きっと『光源』になるんだ。

 あの森を訪れた、あの時の記憶や気持ちを、思い出してる。

 なんにも知らなかったあの時と、今と。

 おじいちゃんが側にいてくれて、見知らない世界も、僕にはあの時は未来に位置する、希望だった。

 不安の感じない世界。

 でも知らなかった意味とか、

 今過去を振り返って感じる郷愁、あの時、感じれなかったものも、ここには描きたい。

 上手く説明できないけど――その時は分からなかったけど、知らない間に出会ってた可愛い竜の子のことも」

 ネーリがそんな風に言ったから、フェルディナントは優しく笑い、彼の柔らかい髪を撫でてやった。


「……フレディはあの時、どこにいたんだろう?」


 あの時は【エルスタル】も、まだこの世界にあった。

 穏やかな日常が、失われていなかった。

「完全な世界。

 そうでない世界。

 どっちも描き出したい。

 朝と夜みたいに、過去も未来も」

 言葉は迷っても、きっとネーリの頭の中にはすでに描きたいものの全景は、出来上がりつつあるのだと思う。

「精霊の世界の『光源』ってなんなのかな?

 精霊は、何に光を感じると、フレディは思う?」

 画家でも芸術家でもない自分には、難しい問いの答えを与えてやれない。

 でも……。

「俺にも精霊のことは分からないけど。竜が『精霊の亜種』なら……竜が喜ぶのは何かと信頼で結ばれていることなんだ。竜騎兵と騎竜もだけど、はぐれ竜というのは、群れることが出来ず、不安だから外に出て空を飛ぶらしい。

 騎竜や、王家の森にいる竜は誰かを乗せて飛ぶ喜びを知ってる。或いは、独りじゃない、大きな庇護を与えられていると実感出来るから安心して森では飛んでる。人だけじゃなくて、竜の好む天候や、場所もある。そういうものと出会うと、こいつらが喜んでいることを、確かに感じるよ」

 フェルディナントは、今はすぅすぅと眠っているフェリックスの温かい身体に手の平を置いた。

「人とも、仲間とも、自然の美しい景色や、心地いい居場所。望むものと繋がっているという実感が、こいつらの幸せなのかもしれないな」

「それが、竜の『光源』?」

 ネーリは優しい表情で聞き返す。

「彼らに光をもたらすものなのかな」

 フェリックスを見てみると、自分の傍らにフェルディナントとネーリの気配を感じ、安心しきって眠っている顔だった。


「竜にとって、安心出来る場所を描きたい。

 それを見て、人間も綺麗だって思える場所。

 ね、そうだったら、竜と人間の心も同じ場所を大切だと思えるよね」


 そんな絵にしたいな……、

 呟いたネーリが目を閉じた。

 フェルディナントはしばらく青一面の絵を見上げていたが、やがて腕の中でネーリが眠りについたことに気付くと、一番近くにあったランプだけ息を吹きかけて消し、側の毛布で自分とネーリを包み込み、彼も目を閉じた。



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