ナツミ

 

 細く熱い湯が、体に染みこむように伝っていく。髪の下の頭皮を伝い、まぶたの上を流れ、頰、あごの下、首、そして体の線をなぞって、つま先まで流れていく。

 シンナーの臭いが顔にまとわりつく。

 栓をひねるが、水圧はこれ以上強くならない。前髪にペンキが固まって、氷柱のようにぶら下がっている。

 扉がノックされた。


「省吾さん、溶剤がありましたけど使います?」


「髪の毛、溶けないですかね」


 返事はない。

 外になにかが置かれた音がした。扉を開けてみると、油絵用の溶剤のビンが置いてある。中身を恐る恐る手のひらに出し、髪の毛を少しずつほぐしていく。

 また湯船でうたた寝をしてしまった。

 嫌な夢のせいで、より疲れた気がする。

 シャワーを止め、ふと視界の端にうつったものに動きを止める。

 緑色の絵の具が、二の腕についている。

 熱い湯の感触を身体中に感じる。息を吐いて、心臓の音を聞く。

 自分が生きていることが、不思議に思えた。なぜ、このポンプが動いているおかげで、恐怖が生まれ、怠惰が生まれ、夢が生まれるのだろう。とても残酷なことなのに。

 浴室から出て、もう一度二の腕を確認する。

 そこには、ひっかき傷しかない。

 私は頭をかき、踊り場の窓を見た。

 薄灰色の空が広がっている。このまま一雨来そうな雰囲気だ。

 どこからか生臭い匂いがする。ぬれた洗濯物の匂い、腐った草花の匂い、風呂に入っていない女性の匂い。

 空をもう一度見る。本当は、鈍色の雲から落ちてくる夏の夜の匂いだった。

 居間へと戻る。

 疲労感とも浮遊感ともつかない妙な感覚に包まれて、ぼんやりとソファに座る。由理さんは外にいるのか、人の気配はなく、額縁の中の動物たちが、こそこそと話す声が聞こえそうだった。

 机の上に、埃除けを被ったおにぎりが鎮座している。

 急に空腹を覚えて、一つ手にとる。アルミホイルをはがして一口かじると、少し固い米、たっぷり詰まった鮭の塩辛さが舌に染みた。飲みこむと喉に引っかかり、むせてしまったので、胸を叩きながら台所で水を飲んだ。

 そうすると、ふらついた感覚が少しだけ落ちついた。胃の中から吸収した別の命から、落ちつけ、となだめられたようだった。

 私はおにぎりとコップを握りしめて縁側へ向かった。

 外には予想通り由理さんがいた。花壇にうずくまり、一心不乱に雑草をむしっている。

 由理さんは私に気づくと、顔をしかめた。


「まだニンジンですね」


 前髪にさわると、まだ束になって固まっていた。

 由理さんは鼻で笑った。


「居間におにぎりがありますよ」


「ええ、食べてます」


「本当だ。ああ、冷蔵庫に煮つけの残りがあるから温めますね」


 そう言うと、すばやくバケツやゴム手袋を片付けて、縁側から家にあがった。私は所在なく彼女の後ろをついて歩いた。


「うっとうしいですね」


「すみません」


「まだまだ子供ですね、省吾さんは」


 由里さんは笑いながら冷蔵庫を開け、かれいの煮つけを温めてくれた。

 ありがたく食事を頂きながら由理さんを眺める。シンクを磨いたり、冷蔵庫の中身を確かめたりと、忙しく働いている。


「由理さんが忙しそうにしているのを見るのが好きなんですよね」


「はあ、どうしてです?」


「安心するから」


「なるほど、それなら、いくらでも見てください」


 食事を続ける。

 台所の小窓が、少しずつ橙色に染まっていく。由理さんと私は他愛もない話をした。


「じいちゃんって、なんで絵描きになったんでしょうね」


 由理さんは私の問いに、うれしそうに「神性があるからですよ」と言った。


「省吾さんもそう思いますよね?」


 同意しか答えが用意されていなかったので、私はうなずいた。

 しかし由理さんは納得しなかったのか「わかっていませんね」と言った。


「私たちは芸術家ではありません。だから、わざわざ理由を詮索する必要はありません。おじいさまという、神性を宿したすばらしい画家の存在に感謝するだけでよいのです」


「そうですね。うん、そうかな……」


「省吾さんは、なぜそんなことを聞くんですか?」


 私は言葉に困り、箸で空の皿をつついた。


「ちょっと気になっただけですよ」


「なるほど。それでは、省吾さんはどう思うんですか。おじいさまは、どうして絵描きに?」


「たとえば好きな人がいて、その人にいいところを見せたいと思ったとか……」


「好きな人?」


 冷や汗が出た。

 由理さんが怪訝そうにしているのを見て、つばを飲む。


「あのね、省吾さん。芸術家の恋人は芸術ですよ」


 彼女はゆっくりと言った。


「そうですよね」


「省吾さん、なにか見ましたか?」


「なにも見ていないです」


「そうですか。子供のころからですけれど、省吾さんは嘘をつくときに、私の目をのぞきこみます」


 思わず、目を反らしてしまった。

 由理さんはため息をつくと、おもむろに席を立ち、台所から出て行ってしまった。


「由理さん」


 引き止めたかったが、なんとなく声が小さくなってしまった。

 階段をあがる音がする。後を追おうかと思うが、由理さんが怖かったので、おとなしく皿を片付けることにした。

 数分後、着信音がした。

 それと同時に、家が震えるような大きな音が響き、体が硬直する。音は外から聞こえたので、恐る恐る居間へ行き、庭を見る。

 私の部屋にあったはずの子供椅子が、ひっくりかえっていた。続いて階段から、ガタン、ガタン、となにかが不規則に落ちる音が聞こえる。

 階段へ行くと、由理さんが子供机を一階に降ろそうと奮闘していた。あぜんとして見守っていると、彼女は無表情で手を払った。


「省吾さん邪魔ですよ。危ないので、どいてください」


「えっと、なにしているんですか」


「急に片付けがしたくなって」


 家が揺れた。子供机の立派な脚が、階段下の床に食いこんでいる。

 私は由理さんの握りしめた右手から、折れ曲がった紙がはみ出ているのを見つけた。


「由理さん、それ」


 手を伸ばすと、ぎょっとした様子で避けられる。


「なにするんですか」


「それ、手紙ですよね? じいちゃんあての」


 由理さんは私をにらみつけた。


「ちがいます」


「いや、そうですよね」


 無理やり手紙を取ろうと、もう一度、今度はすばやく手を伸ばす。しかし由里さんは階段を一段上がって私の手をよけた。


「人のものを取るのは、悪い人がすることですよ」


「じゃあ、貸してください」


「嫌です」


「人にものを貸さないのは、いじわるな人がすることですよ。由里さん」


 由里さんは、むっとした顔になったが、言い返さなかった。そして一瞬、考えをめぐらせるかのように目を伏せると、いきなり右手を自身の顔にぶつけた。


 はへふぁいますた。


 由里さんが、もごもごと言った。

 私が驚いているあいだに、由里さんは階段を飛びおり、脱兎のごとく玄関へ走った。紙の端が口から飛び出ている。

 あわてて追いかけるが、彼女の足は早い。


「そんなもの、食べちゃ駄目ですよ!」


 そう叫ぶも、声が届いている気がしない。

 由理さんは庭を走りぬけて、門の外に飛び出てしまった。

 急に走ったので、おにぎりを消化していた胃がせりあがってきた。

 膝に手をついて息を吐く。年齢のやるせなさを感じたが、由里さんのほうがずっと年上だ。

 顔をあげると、夕暮れを背負った山々の影が見え、セミのやかましい鳴き声が額縁のように視界を囲む。

 そしてその中を、由里さんは走っていく。

 どこからかピアノが聞こえる。

 アレグロ。アレグロ。リタルダンド。フィーネ。

 私は首をかしげた。

 由理さんは、門の外で坂を見下ろしていた。

 なにをしているのかと思うと、きびすを返して戻ってくる。頰が膨らんでいるので、まだ手紙は口の中に入っているようだ。

 彼女は顔を背け、片手に紙を吐き出すと、


「あの、だれか来ました」


 と、困惑した様子で言った。


「だれか?」


 胸元をさすりながら目をこらした。逆光でよく見えないが、たしかにだれかが坂の上にいる。

 その影は、手に握っていた、おそらく携帯らしいものをバッグにしまうと、ゆっくりした足取りで庭へ入ってきた。

 肩と足のシルエットで、私はその人物の正体をつかんだ。

 正体は、生活そのものだった。

 生活とは、ポケットに入ったワイヤレスイヤフォンであり、低速な通信状態だった。フルラのサーモンピンク色のハンドバッグ、韓国旅行のときに八千ウォンで買った帽子、ハニーズで千九百九十円で買った黄色い花柄のワンピース、ヒールの少し汚れたコルクヒールのサンダルだった。財布の中に入った春水堂の百円引きクーポンであり、剥げたベージュのネイルであり、唇の右上に数本生えている水墨画のように薄い灰色の毛であり、悲鳴をあげればゴキブリだって冷蔵庫の下に逃げだす甲高い声だった。

 鼻の穴が膨らむ。ファンデーションのにおいだ。それに、耳の後ろのにおい。落としきれていないシャンプーとフケが混じる、あぶらじみた生活。


「省吾」


 彼女は私を抱きしめた。

 その瞬間、この庭を中心としていた夕方の絵が粉々に砕けた。由里さんは呆然と立ちすくみ、セミたちは森へと後退する。夕方が夜になる。

 だけど時間が進むのは、当然のことだ。


「ナツミ」


「省吾、ひさしぶり」


 彼女は甘えるように、私の首元に回す腕に力をこめた。彼女の背中を軽く叩きながら、由里さんに視線を送った。

 由理さんは、ぽかんとしていたが、合点が行ったのか、


「省吾さんの」


 と、ナツミを指さした。

 私はうなずいた。


「由理さんですよね? お話には伺っています」


 ナツミは私から離れ、愛想よく話しかけた。


「ナツミです。よろしくお願いします」


 由理さんはナツミを見つめた。

 その視線に色はなく、いつもどおりの表情に見えたが、


「予想外です」


 と彼女は言った。


「省吾さんって、こういう方がお好きだったんですね。なんというか、省吾さんは子供のころからすごく大人びていて。だから、率直に言って意外です」


 ナツミの笑顔がこわばる。


「ええと、悪い意味ではなくて、それだけです」


 由里さんは目線を下げた。


「どうしてここに来たの?」


 私は急いで話題を変えた。するとナツミは、弾むような動きで体の向きを変えた。


「省吾が喜ぶかなと思って」


「そりゃ、うれしいけど」


 と言うのは嘘だった。思わず付けてしまった「けど」の理由を説明しようと、さらに「うれしいよ」と、もう一度言う。


「だけど、急だったね。宿とかは決めたの?」


 ナツミは、けげんそうに首をかしげた。


「どうして? 省吾がここにいるのに?」


 私は困りきって、由理さんに目をやった。すると彼女は私の目を見て、


「ここだと暑いので家に入りましょうか」


 と、家の方向へ歩きはじめた。


「よろしくお願いします」


 ナツミは気を取り直したように愛想笑いを浮かべ、声をかけたが、由理さんは早足で歩き去ってしまった。不安そうな顔でふりかえるので、苦笑を浮かべて見せる。


「聞こえていなかっただけだと思うよ」


「なんか、変わった人ね」


 ナツミはコーヒー豆の選別でもするかのように、由里さんをその言葉で片付けた。

 反論したかったが、なにも言えなかった。玄関をくぐっているあいだ、自分が非常に卑怯な生物に思えた。

 家に入ると、ナツミは物珍しさに多少機嫌を直したらしく、口数が多くなった。

 居間の絵には露骨に驚いた表情を浮かべ、祖父のことを聞きたがったが、私はナツミをソファに案内すると台所に入った。

 由里さんは、火にかけたやかんを目の前に、腕組みをして湯が沸くのを待っていた。その表情に普段と変わったところは見受けられない。

 私は「すみません」と声をかけた。


「来るなんて、少しも言っていなかったのですが」


 頭を下げると、由里さんはきょとんとした顔をした。


「は? いや、べつにいいですけれど」


「本当に申しわけないです。ナツミには、あとでよく言っておくので」


「まあ、だから、いいですよ」


 由里さんは棚から湯のみを取りだしながら、


「それより、よくこの家まで来れましたね。地図でも渡していたんですか」


 と言った。


「ああ、いや、たぶん位置情報でわかったんですよ」


「位置情報?」


「携帯で位置情報を共有できるんです。どこにいるのか、よく聞かれるので。アプリを入れているんです」


 由里さんは、私をじろじろと眺めまわした。なにか言いたいことがありそうだったが、結局は肩をすくめて黙ってしまった。

 私は居間に戻りたくなかったため、由里さんの横に手持ちぶさたに立っていたが、聞かなくてはならないことを思いだして口を開いた。


「そういえば、どうしてあんなことをしたんですか」


 由里さんは、私がなにを言っているのか分からない様子だった。

 しかしポケットを指さすと、目を丸くし、そっぽを向かれてしまった。


「教えてくださいよ」


 彼女は答えない。


「そのメモ、やっぱりじいちゃんの」


「違います!」


 私はとっさに居間の様子をうかがった。ここから見える位置にナツミはいなかった。

 由里さんは、口をとがらせて私をにらんでいる。

 ナツミがいる今、この話を続けるのは良くなさそうだった。


「その、じつを言うと、なにも気にしていないです。急に家具なんて放り投げるから、びっくりしただけで」


 そう説明すると、由理さんは大声を出したことを気まずく思ったのか、視線をさまよわせた。


「いいですよ。でも、今日から省吾さんは客間で寝てください。あの部屋はよくありません。この話題も汚れているのでここで終わりです。いいですね?」


「わかりました」


「では、ナツミさんのお相手をしてください。私はお茶をいれますから」


 どうやら由理さんは、スケッチブックの出所を子供部屋だと思っているようだった。なぜ彼女があそこまで動揺するのか考えたが、特に心当たりはない。

 あの女性の絵から伝わってくる祖父の念に関係があるのは確かだろうが、それの正体は私にはわからなかった。

 居間に戻ると、ソファの端に座っていたナツミがふりかえった。

 四方八方から動物たちが威嚇するこの居間にいると、彼女は被食者のように見えた。色の強さの問題かもしれない。この部屋において、彼女は水で薄められた淡い黄色だった。


「あの人は?」


 ナツミは不安そうに聞いた。


「ああ、今お茶を持ってきてくれるよ」


「……ねえ、あの人こわくない? 省吾、大丈夫? 私とべつのところに泊まろうよ」


「いや、ここが家だからね」


 思わず即答してしまい、慌てて言葉を続ける。


「たしかに、さっきは少し失礼だったかもしれないけど、でも由理さんはとてもいい人だから、大丈夫だよ」


 私はそれから、まくしたてるように由里さんについて話した。できることなら、ナツミが由里さんを好いてくれればと思っていたのだ。

 それが難しいことも、わかっていたのだが。

 ナツミは不服そうに目をそらしていたが、急に白目を充血させ、瞳を潤ませて、泣いた。


「さっき、こわかったのに」


 そう呟く声は幼く、駄々っ子のようだったが、私は途端に申し訳なくなり、彼女を抱きしめた。


「ごめん」


 大丈夫だから。自分がついているよ。大好きだよ。来てくれてありがとう。とても幸せだよ。


 そんな、とりとめのないことを言いながら、背中を優しく叩いてやる。

 ナツミはそれに満足したのか、抱き返してきた。

 ほっとして、背中を叩きつづける。

 ふと視線を感じた。

 白い猿が見下ろしている。隣にいる象も、宝石のような目で私を見ている。

 部屋中の動物たちが、私と、私のナツミを見つめている。

 ナツミの顔をのぞきこむと、彼女はほほえんだ。まるで子どもに、よくできました、と言うような顔。

 私はきちんと正しい行動が取れたことに安心し、ナツミの手を握りしめた。

 まだ怖くて震えているようだ。


「こわくない、こわくない」


 そう呟いて手を離すと、私の指先のほうが震えている。

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