夢:すべてを知っていて許してくれる
スーツを着た男は床に膝をつき、なかば体を突っこんで浴槽を洗っている。
彼は私に気づくと、うれしそうに顔をあげた。
まくっていたシャツの袖を元に戻して立ちあがる。スーツの肩や袖口がほつれており、疲れた顔をしている。
彼は恥ずかしげにほほえんだ。昨夜に会ったときの苛立った鋭い目つきはなくなり、おどおどした笑顔が顔に張りついていた。
彼は「やあ」と優しく媚びるような口調で声をかけた。
「すごい橙色だね。夕日の化身みたいだ」
「さっき倉庫を掃除していて被っちゃったんだ」
「それはお疲れさまだね」
彼は私の肩を叩いた。
「僕も掃除をしていたよ。彼女に頼まれてね」
「彼女?」
彼はなにも言わず、手を握ったり広げたりしながら、薄く笑った。
よく見ると手のひらは豆や赤切れだらけで、使いこんだ様子だった。親指の下にある一センチほどの赤切れが、彼の口の代わりとなって会話をしている。
「絵を描くのをやめたの?」
彼は黙ってうなずいた。
壁には、昨晩の動物たちがいなかった。白い壁はきれいに掃除されているが、時間の経過により否応なく発生する黒カビの跡や排水溝の溝の垢には逆らえていない。床には、洗剤や掃除用具が落ちていて、薬品の匂いを放っている。
足元の排水溝から濁音が聞こえている。
昨日の夜には浴室を支配していた絵具たちが、溺れているのが見える。ピンク色、青色、緑色が、彼の足先にしがみつこうと、排水溝から指先をひらめかせている。
彼は気まずく思ったのか、私から視線をそらし、再び浴槽を洗いはじめた。
「正直に言うと、やめたわけじゃない。ただ、描けなくなってしまったんだ。
僕は高校を卒業したあと、悪い人間になった。
信じてほしいのだけれど、その根本的な理由は、見聞を広めたかったからなんだ。
僕はそもそも教科書にのっているような、いわゆる善なることが嫌いでね。世の中の善人はいつも鈍く思えたし、嘘を信じこんでいると思っていた。
それは親や教師、友達……良い人間と評価される人々が、僕の絵を理解できなかったからだろうね。わざわざ解説文付きで教えられるような美しか、彼らは知らなかった。
だから僕は道徳を憎み、想像力を阻害するものだと思っていた。
見捨てられた、すべての良きもの、だれの許しも得ていない善を発見したい。
そんな気持ちで、悪いことばかりした。
こんなことを話していると死にたくなるよ。
自分がどれほど、おごっていたか。世間に対して生意気だったか。いかに物を知らず、愚かだったか。
こんな姿になったのは、ひとえに僕の傲慢さのせいだ。そのために、あれだけ誇っていた才能や感性が墓標すら残さずに消えた。
そうだ、僕は悪事に明け暮れて、必要な努力をしなかった。
ただただ溺れた。
朝から晩までしこたま飲んで友達を餌にして逃げた。そのせいで殴られたから殴りかえした。女の子と暮らしたけれど、あれこれとうるさいから捨てた。追いかけてきたその子の金を借りるだけ借りて行方をくらませた。悪い取引の片棒を担いで警察の世話になりかけた。そのとき助けてくれた友達とも、結局、金が返せなくて縁が切れた。
僕は怠惰だった。
世の中に見捨てられるような生活をした。幼かったんだ。船に運ばれるように、未来が僕をいつしか光ある場所へ連れていくと、勘違いをしていた。
気づいたときには僕は年をとっていた。
年をとっただけだった。
そのときには、僕は僕のことが嫌いになっていた。
そういった生活の隣で、習慣のように絵を描いた。
ああ、そうだ。昨日の質問に、ようやく本当の答えが返せるね。
動物ばかり描くのは、動物しか描けないからだ。
風景画も肖像画も抽象画も自信がなかった。動物を描くと褒められたから、そればかり描いた。いつしか僕は、動物を描く画家になっていた」
彼は私を見あげた。
虚ろな目。少年のように頰をほてらせていた。
「怠惰で情けない気持ちのどん底で絵を描いた。
大きな魚の死体だ。
泳げない腐った魚。それは救いようのない生活をして、なかば死んでいる僕だった。
ある日、友達が恋人を連れて、絵を冷やかしに来た。金だけは持っている奴だったから、僕はなにかと都合をつけて金をせびっていた。
ただ、恋人のほうは本物の金持ちだった。そして信じられないことに彼女は魚の絵を見て、僕に才能があると言ったんだ。
そのときの言葉を、一語一句覚えているよ。
彼女はこういったんだ。
魚なのに森の底みたいな色をしているのね。
とても静かだわ。
死んでいるし生きているのね。
この魚は、すべてを知っていて許してくれる。
あの言葉に救われたんだ。
この世界に、ようやく理解してくれる人が発見できたと感じた。
たしかに彼女の言葉は、魚の死体にふさわしくなかったよ。
想定していた罵倒ではなく、美しい詩で評価してくれた。
けれども、なぜか僕は理解された気分になってしまった。だれにも認められず、さびしかったことも理由だろう。
男として、彼女のすばらしい容姿に惹かれただけかもしれない。彼女は、とてもきれいだったからね。
それから、彼女は僕の部屋を訪れるようになった。
彼女はこれまで出会った女の子のだれよりも賢いように思えた。
思想に偏りがなくて、自立した人だったから、話をするたびに尊敬が増した。
彼女も僕を気に入ってくれたようだった。美術や思想について遠慮せずに話ができるのは僕だけだと言っていた。
まるで異なる人間にも関わらず、僕たちは似た価値観を持っていた。
ある日、ついに家賃未払いで部屋を追い出されることになったと話すと、彼女が働き口を紹介してくれた。彼女の父親が経営する会社の保養所、そこの管理人だった。
箱根だ。東京の片隅から、山の中に引っ越すことになる。
彼女はこう言ったよ。
あなたの綺麗な心には、都会よりも森の中が向いている。
あまりに感傷的で、馬鹿げているだろう?
僕も心の中で笑ったよ。だけど、それを正直に口に出す胆力も財力もなかったし、なによりも彼女の提案だったから、東京から神奈川の山の中に移り住んだんだ。
実際のところ、彼女の提案は、僕の精神状態にとって正しかった。こんな田舎では悪いことをしようがないし、刺激がなくてひまだったから、自然と絵に気持ちが向いたんだ。
仕事は気楽だったよ。
保養所はそんなに忙しくなかったし、絵のほうも、まあまあ順調に進んだ。ちょっとした賞をもらったり、小さな画廊で個展をさせてもらった。
そうして数年がすぎた。
彼女は例の友達と結婚した。
彼女たちは数ヶ月に一回、夫婦で来たり、友達や親戚を連れて泊まりに来たよ。そうした生活は悪くなかったな」
仕事がすんだのか、彼は立ちあがった。凝った肩に手をあてて、首を回す。疲れているようだった。
「それじゃあ、あの手紙は」
「うん、彼女からもらったんだ。ある日、突然」
「じゃあ、その魚の絵を彼女の父親の展覧会に出したんだね」
彼は浴槽を見つめたまま、うなずいた。
「出したよ。手紙がうれしかったんだ。彼女が僕のもとに遊びに来てくれるだけでも、十分うれしかったのに、僕の絵のことまで考えてくれることに感謝した。だから、出した。
覚えているよ。
僕は、めずらしくスーツを着て東京に出向いた。展示会の初日、顔や名前を知っているけれど会ったことはない画家が、たくさん集まっていた。
僕の絵は第二展示室の壁際に飾ってあった。
ささやかな場所だけど、目立たない位置でもなかった。横にある絵の作者は、普段から雑誌で名前をよく見る著名人だった。
人々が通りかかった。
なんの評価もなかった。絵の前で立ち止まるけれど、すぐに立ち去った。
彼らは、なにも言わなかった。
もちろん、そんなものには慣れていたよ。
だが、通りがかりに彼女と彼女の父親が現れたんだ。彼女は僕を紹介しようとした。
だけどそのまえに、父親が怒った。
なぜこんなグロテスクな絵を展示させたのかと言った。正気ではない。芸術ではない。美しくない。
そう彼女は怒られた。
僕は、なにも言わずにその場を離れた。
虚しかったけれど、納得もしていたよ。父親の言うことが正しかったからね。そもそも僕にとっても、あの魚は死体だった。ただ彼女が価値を見出していたにすぎない。
展示が終わった。
彼女は僕のせいで恥をかいたからか、それとも申しわけなく思ってくれたのか、どちらにせよ保養所には来なくなってしまった。
それから絵を描くのが、なぜか怖くなった。
人に認められるような業績は、僕に残せないのだとわかった。筆を取っても無意味だと思った。なによりも、彼女がいなくなったことが堪えた。
それで、結局気づいたんだ。あれほど誇っていた美への探究心は、他人からの評価がなければしぼんでしまうようなものだった。
そんな浅はかな欲求を認めて、それでも絵筆を取れるだろうか。
みじめな僕は、絵を描けるのだろうか」
私は困惑していたし、少し怒ってもいた。
魚の絵は、私にとっても理想の象徴だった。
それが、そのように酷評されたなど信じたくなかった。
「たんに、父親が浅はかで理解力不足だっただけだよ。だって、その彼女は美しいと言ったんだろう? それなら絵を描いた意味はあったんだ。それに美への探究心だって本物だ。森や川が綺麗だと知ったのは、だれからだと思う? それは……」
「やめろ!」
彼は急に叫び、頭を抱えてうずくまった。
電球が切れ、何回か点滅したあとで消えた。浴室は暗闇に閉ざされた。
彼は顔を手で覆い「すまない」と言った。
「僕は言わなきゃいけない。僕が教えた理想、あれは嘘なんだよ。考えてみるんだ、こんな場所の、どこが綺麗だ?
僕は見えもしない空想を教えることで、君を大人にするのを阻んでしまったんだ。
だから今でも君は、まともに悲鳴をあげることすらできないんだよ」
なにを言っているのか理解できなかった。
彼は悲しそうな声で泣いた。顔を覆う手が外れ、私は息をのんだ。
そこにあるのは、スケッチブックに描かれていた女の顔だった。
私は理想を守るため、目を固くつむった。
左腕がひどく痛んだ。視界の黒を、緑色が侵食する。
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