スケッチブック

 私は浴槽に横たわっていた。冷めきった湯の中で眠っていたのだ。

 虫の死骸が天井の蛍光灯の中で黒い粒になっていたので、しばらくそれを見つめていた。

 虫たちは、何年間あの中に閉じこめられているのだろう。蜘蛛が食べるまでだろうか。

 不愉快な穏やかさが、聞こえない時計の針の中で続いた。肌がかゆい。首の後ろが痛い。

 浴槽から出て、シャワーを浴びた。熱い湯を体に当てると、ようやく夢から体が戻ってくるようだった。

 浴室を出ると、窓から朝日がさしこんでいた。すでに由理さんも起床したのか、一階から物音がする。髪をタオルで拭きながら階段を降りる。

 台所をのぞくと、由理さんは鍋の前で腕組みをして、ぶつぶつと独り言を言っている。


「由理さん」


 彼女はびっくりしながらふりかえり、思いだしたように鍋の火を止めた。


「もしかして、お風呂で寝ていました?」


 とぶっきらぼうに聞かれた。


「ええ、すみません」


「べつにかまわないですけれど」


 その場で、由理さんが立ち働くのを眺めた。

 あっという間にサラダが盛りつけられ、卵焼きが焼かれ、鮭が食卓に並んだ。

 席につき、手を合わせ、食べはじめた。

 冷たい朝の空気に、茶碗からのぼる湯気が溶けこむ。


「省吾さん、なにかありました?」


「いえ、特に。どうしてですか?」


「なんとなく聞いただけです」


「なにもないですよ。鮭、ひさしぶりに食べましたけど、うまいですね」


 褒めても、由理さんは、やはり「はあ」としか言わない。


「そういえば、省吾さん。私、今日水道料金の支払いに行きますから」


「ああ、わかりました。片付けは進めておきますから」


 ビニール製のテーブルクロスに、楕円形の白い光が反射している。流し台の上に飾ってあるものが原因だ。


「あれ、まだ飾っているんですね」


「そりゃそうでしょう」


「ちょっと恥ずかしいですね」


「非売品なので貴重なものなのですよ。恥ずかしいことありません」


 私が図工の時間に作って、由理さんに渡したものだっだ。

 アルミホイルを折って作った花の真ん中に青い折紙が貼りつけられ、その中に絵が描いてある。私は立ちあがってそれを眺めた。線の集合体で、絵とはとても言えない代物だ。


「これ、なんですかね」


「自分で描いたのに覚えてないんですか。四本足なので犬ですよ」


「ああ。おじいちゃんって書いてある……」


 由理さんは憮然とした。


「省吾さん、電話、鳴ってますよ」


 ズボンのポケットに入れた携帯の画面が光っている。


「ちょっと外しますね」


 着信画面を確認しながら、玄関に向かう。靴を履きながら電話に出る。


「省吾?」


 小さな声。電話越しなのに、耳元に吐息がかかる。

 玄関扉を開ける。

 外は、信じられないほど明るかった。風が強く、庭の砂が舞いあがっている。呼吸をすると、冷たい水のような空気が口の中に染みた。


 省吾、元気?


「うん、元気だよ」


 声が白々しく響いたように感じたので、少し焦り「会えなくてさびしいけれど」と、さらに白々しいことを付け足す。


 ねえ、いつ帰ってくるの。


「まだかな。昨日来たばかりだし」


 ふうん。ねえねえ、わたし、プールに行きたいの。


「そうなんだ、帰ったら行こう」


 突然、足首がくすぐられた。

 大きな甲虫が足を這いあがろうとしているので、手で払うと、羽音を立てて飛んでいった。

 彼女はなにかを話している。

 私はうなずきながら、まだくすぐったい気がする足首を掻く。


 あんまり、邪魔しちゃアレだから。じゃあね。

 

「うん。またね」


 電話が切れた。

 食卓に戻り手を洗ってから、席を外したことを謝った。


「ナツミさんですか」


「ええ」


 由理さんは、うなずいた。


「省吾さんとナツミさん、どちらのほうがお互いを好きなのですか?」


「ええ? どうですかね」


「話を聞いている感じですと、ナツミさんのほうが、好きの度合いが大きそうですね」


「いや、こっちもちゃんと好きですよ」


「ちゃんと、とはなんですか」


「だから、ちゃんと……」


 と、つづけて言葉を見失う。


「大切にしていますよ、おたがいに」


 由理さんは唇を尖らせた。


「べつにいいですけどね。ナツミさんにお会いしてみたいです」

 





 その日の午前中で、絵の移動がようやく完了した。

 昼食後、由理さんは水道代の支払いに出かけたので、私は倉庫に残された用具や雑貨を庭に出していた。

 絵の後ろには、出自不明の小さな彫像やトルソー、使いかけのペンキ缶、大工仕事の用具、その他、さまざまなガラクタが置いてあり、祖父の良く言えばおおらかな、そしていい加減な性格を私は思い出した。

 二時間ほどは集中して片付けをしていたが、そのうち暑さで気が散ってきた。

 私は台所からお茶の入ったペットボトルを拝借し、それを飲みながら休憩した。

 空には小さな綿の塊がいくつも流れていた。

 目で追えるほどに、早く流れていく。

 山と空のあいだを眺めた。そこに緑色の鱗の魚が泳いでいないかと、目を凝らす。なにも動かない。絵のように静かな風景だ。

 休憩を終え、片付けに戻る。

 頭の中を、不思議な光景が占領していた。

 浴室にあふれる淡い緑色の光。魚の鱗。私の二の腕から流れる血。

 考えごとをしていたため、棚の上の用具入れに腕がぶつかった。トタン製のそれは、がらがらと音を立てながら落ち、床に中身をぶちまけた。

 ため息をついて屈み、拾い集める。

 逆さに投げだされた用具入れを上に向けると、中でカタンと音がした。

 のぞきこむ。

 汚れた用具入れの底に、一ミリ程度の隙間がある。本来の底の上に板が引いてあり、透明なテープで簡易的に止めてあった。

 爪でテープを外し、箱を逆さに振る。

 板と共に、小さなスケッチブックが落ちた。ずいぶんと長いあいだ、箱の中で眠っていたようだ。

 興味をひかれて、めくってみる。

 一枚目は、ただのウサギのスケッチだった。細く丁寧なタッチで描かれている。

 次のページはカラスの水彩画。

 その次は、箱根山の風景だった。

 それらの絵には日付やメモが添えられていた。筆圧の薄い文字で書かれている。祖父の字だ。彼の禿げた頭頂部や洗いくたびれたシャツを着た背中を思い出す。

 そのページ以降は、ほとんどが白いままで、時々小さなスケッチが現れるだけだった。

 最後から二枚目で、手が止まる。

 ランダムな黒い線の集積にしか見えなかった。紙が削れるほどに強い筆圧で、一気に描いてあるので、もしかすると子供のころの私が描いたものかと錯覚した。

 しかし、見つめているうちに正体がわかった。

 紙いっぱいに広がる大量の線が、長い髪の毛。下のほうにある丸い線が輪郭。中央の強く塗りつぶされた二つの円が眼球。その下の、くの字が鼻。さらに下の弧が唇。 

 女性の顔だった。

 由理さんの顔には見えないので、祖母の顔だろうか。それとも母の顔だろうかと考える。どれもが違うような気がした。

 人さし指に引っかかりを感じ、そのページの裏を見る。

 二つに折りたたまれた紙が、貼りつけられていた。中には次のように書いてあった。


 ぜひ展覧会に出展してください。

 あの絵は、多くの人の心を動かせると思います。あなたがそう思わなくても。

 来週、父に引き取り便を出してもらいますので、そちらに渡してください。

 あなたの成功を心の底から望んでいます。

 自身の才能を無駄にしないと約束してください。

 あなたの絵を心から愛する者より。


 優雅な文字で書かれた手紙を取りかこむように、指の跡がびっしりと残っている。あらゆる色が混じり、黒になった指紋だ。

 絵を描いている途中で、何度も手に取った。この短い文を味わい、噛みしめたのだ。

 私は立ちあがり、用具入れの中にスケッチブックを戻した。底を被せて、ふたを閉める。

 長いこと屈んでいたため、ふらついて棚にぶつかってしまった。

 頭に重いものが落ちた。声をあげる間もなく、視界が橙色一色になる。足元にペンキ缶が転がり、なにが起きたのかを察した。  

 身動きがとれず、立ちすくんでいると、幸運なことに由理さんが帰ってきた。

 ペンキまみれの私を見ても顔色を変えることなく、


「だからヘルメットを被ればよかったのに」


 と言い、台所から雑巾を持ってきて拭いてくれた。使い古しの雑巾だったのだろう。とても臭かったが文句は言えなかった。

 ようやくペンキが地面に滴り落ちなくなったので、由理さんは風呂を準備するために倉庫を出て行った。

 私はペンキが乾きだして固くなったTシャツを脱ぎ、表をひっくり返して丸めた。

 外に向かって一歩踏みだし、ふりかえる。

 半裸に靴を履いたまま、用具入れの元に戻る。底を外し、スケッチブックを取りだす。なんとかペンキが付かないように、指でつまんで持つ。

 家を汚さないように慎重に玄関をくぐり、二階へあがって子供部屋を開けた。スケッチブックを中に投げいれ、扉を閉じる。

 由理さんが浴室にバスタオルを置いてくれたので、礼を言ってから、浴室の扉をくぐる。

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