夢:僕はずっと1人で、これからも1人

 

 油の匂い。

 部屋は白と、黄緑色の淡い光に満ちている。湯気が部屋中にたちこめ、せまい部屋に閉じこめられた巨人のように、太い指先で天井を這いまわる。

 足元は水浸しで、表面に浮いた油が玉虫色に照っている。

 空の浴槽の手前に、傷だらけの大きな魚が横たわっていた。整然と並ぶ棺桶のように鱗が並び、その一枚、一枚に、黒い人影が映る。

 梯子が立っており、壁や天井に住む動物が周りを囲んでいる。赤い象は浴槽をまたぎ、青いキリンは小窓の上に首を伸ばし、黄色いパンダは目を忙しなく動かし、白い猿が飛びまわる。

 頰になにかが落ちた。

 指でぬぐうと、黒い絵具が付いていた。その一滴は黒い狼へ変身し、浴槽の奥底にある深海へ飛びこんだ。

 私は、この夢のすべてに見覚えがあった。

 上から声が降ってきたが聞きとれなかった。

 数歩下がり、梯子の頂点に目をこらす。

 若い男が体を海老ぞりにして座り、天井へ筆をすべらせている。汚れたエプロンを着ており、それ以上に顔も手も汚している。

 濁った沼のような目が私を見下ろした。


「やあ」


 下を見る。今度の声は、魚の口から聞こえたのだ。

 夢の中の音が常にそうであるように、声は押し殺した調子と、叫ぶ調子を同時に持ちあわせていた。


「この魚は僕だ」


 魚は、男の声で言った。

 私は呆気にとられていた。

 魚は問いかけた。


「いま、いくつなんだ」


「今年で、二十八だよ」


「どうして来たんだ」


「絵を片付けに来たんだ」


 魚も男も黙っていた。

 私は背後をふりかえった。扉はない。


「すごく汚れているな」


「え?」


「腕」


 見ると、左腕が緑色に染まっていた。二の腕の傷から、流れ出しているようだ。


「痛い?」


 と、魚が聞いた。

 思わず首を横にふる。本当は、とても痛かった。

 男の顔を観察する。顔立ちは祖父にそっくりだが、真っ黒で気難しそうな目は、私の知らないものだった。


「ずっと聞きたかったんだけれど」


 と私は聞いた。


「うん」


「どうして動物の絵ばかり描くんだ?」


 男の筆が止まった。赤ん坊の口の中のようなピンク色の絵具が、筆からこぼれおち、浅黒く痩せた指先に垂れた。

  





「どうして、どうしてなんて聞くのだろう」


 と、彼は言った。そしてつづけた。


「省吾は、まだすべてに理由があると思っているんだね。

 もし答えがあるとすれば、単純に動物が好きだからだよ。

 僕の叔母は金持ちだった。家に洋画の複写がたくさんあったから、昔から絵に親しんだ。アングルとドラクロワが好きだった。対立こそが、昔から引き継がれて来た運命の概念だからだ。

 僕は理性が好きで、それ以上に、感覚が好きだった。

 十五歳の春のことだ。ひとつ年上の姉の同級生と知りあった。その人も絵が好きで、叔母のコレクションを頻繁に観にきた。

 彼女はルノワールやモネが好きだった。


『どうして好きなの?』


 そう聞いても、あの人は理由を説明しなかった。


『ただ、好きだから好きなのよ』と言う。


 僕は彼女の頭が悪いと思った。理屈を説明できないことは、能力の不足から起こると思っていたんだ。

 それで、僕は非常に苛々して、目を離せなくなったのさ。

 やがて彼女の視線が淡い色調に吸いとられるのは、恋が理由だと気づいた。同級生の男を好いていた。

 湖に映る太陽やピアノを弾く女の指先。恋愛感情。

 そんな感じだよ。

 僕は軽蔑したよ、そりゃあね。

 ある日、その男が死んだ。酔った父親に殴られた。当たりどころが悪かった。

 彼女は変わり果てた。

 学問に専念し、絵には見向きもしなくなった。友人とも遊ばなくなって、家にも来なくなった。彼女は気がふれたように本を読み、壊れた機械のように文字を書いた。

 僕は思ったよ。彼女は別の意味で空想家になったんだと。

 手で触れられるもの、目で見えるものに意味があると思いこむ、空想だ。彼女は目に見えないものを捨てた。

 彼女は大学へ進学する予定だった。

 僕は絵を贈った。紫色のスズメを描いた。派手で高慢な着飾り屋。どこにでもいる鳥だ。

 僕はどこかで期待していたんだ。でも、彼女は喜んでしまった。


『綺麗な鳥ね』


 そう言った。


『なんの鳥を描いたの』


 そう聞いた。

 僕はみじめだ。彼女は軽蔑するべきだったのに、そうしなかった。

 この鳥が彼女自身であることにも気づかない。

 捨ててしまった夢には戻ってこれない。感性を失い、もはや交わらない人間になった。そうして、僕は、他人って奴がどうでもよくなった」


 話を聞き終え、私は聞いた。


「画家になるのが夢だったの?」 


「違うよ。それしかすることがなかったんだ。それからも、絵を描くことは何回も何回も僕を失望させた。そこにおる動物が本当は何者なのか、説明できるのは僕しかいなかった。それがどういう意味か、省吾にわかるかい?」


「いや」


「僕はずっと一人で、これからも一人なんだって意味だよ」


 話し疲れたのか、魚と男は口を閉じた。

 私は男を可哀想に思った。

 彼は私より少し若いように見えた。まだ子供の頃の傷跡が癒えていないのだ。


「やがて、僕が一人なのは、上手く表現できないからだと気づいた。下手な絵が僕を一人にする。それでもやめられなかった。まったく伝わらなくても、嘘をつかなくてすむのは絵を描いているときだけだったから」


「そんなに思いつめなくてもいいのに」


 男は首を横にふる。首ふり人形のように、散々ふりつづけ、黙ってしまった。


「痛い?」


 魚がもう一度聞いた。


「痛くないよ」


 私はもう一度答える。

 すると、腕から緑色が吹き出し、傷口が広がったので、私は驚いて叫んだ。

 魚が言った。


「省吾が僕みたいに失望するのを見たくないね。だから、正直に言えばいい」


 頰から、固い球体の涙がころころと転げ落ちていく。


「助けて」


 と口走った、その瞬間に、そんなものは無いと気づく。

 妄想のように。

 いつのまにか浴槽の中にいた。栓が抜かれ、湯が黒い渦を巻く。

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