絵の片付け
シャワーの栓をひねる。
湯が熱すぎた。ちょうど良い塩梅になるように、水を加えて顔から浴びる。
この家に居たころは必ず祖父と一緒に風呂に入っていたので、湯の温度調整も彼がしてくれたものだった。祖父は風呂好きで、日中でも気が向くと湯船に浸かっていた。
母が中国へ旅立つと、事情を察してしばらく家を離れていた由理さんが戻ってきた。私は祖父に懐いたように、由理さんにもすぐに慣れた。
祖父の家は居心地がよかった。祖父も由理さんも、完璧な人ではなかったからだろう。大人を演じていなかった。だから私も子供を演じる必要がなく、それは同時に、私に子供らしく振る舞うことを許した。
自分らしくいてもよいのだと、祖父と由里さんは私に教えた。
目をつむってこの家の記憶を思いかえすと、実のところ具体的な思い出は少なく、ただ穏やかな日々だけがあった。
たった一年間だったので無理もないが、祖父ともっと話をすればよかったと思う。願わくば大人になってから、祖父と話がしたかった。
湯の温度が少しずつ下がっていく。
目をあけて栓を調整するが、どんどんと冷たくなり、やがてただの水になった。身震いをして栓を止める。
静かだった。水滴の音すらしない。
左腕に痛みを感じた。見ると、数日まえに怪我をした二の腕から血がにじんでいる。みみずばれになった傷から染みる血は、なんだか赤ん坊がむずがって口から泡を吹くさまを思い出させた。指でなぞると、透明な水と混ざりながら血があふれ、排水口に流れた。
「いたい?」
鏡の中に私がいる。
怖くなり、脱衣所へ出た。急いで全身をタオルでぬぐい、服を着て、階段を駆けおりる。
居間に顔を出して由理さんを探すが、いなかった。寒気を追い払おうと縁側に行く。空に斜めにかかった太陽が、髪を焼いた。
倉庫のまえに由理さんが立っている。
安心して息をつく。古びたサンダルが置いてあったので拝借し「由理さん」と呼んだ。
彼女はふりかえり、頭からつま先まで私を眺めた。
「どうしました」
「絵の片付け、やっぱり始めませんか?」
「なぜ?」
「えっと、なんとなく」
「そうですか。じゃあ、やりましょうか」
興味がないのか、それ以上はなにも聞かず、由理さんは倉庫へ入った。後をついていく。
倉庫の中は、想像よりも整頓されていた。
由理さんが定期的に掃除をしているのだろう。外から入った土埃が舞っているが、棚に積みあげられた絵は綺麗に梱包され、きちんと収まっていた。
「とりあえず全部外に出して、客間に持っていきます」
「わかりました」
この服装では危ないとたしなめらたので、軍手と靴下を装備して掃除を始めた。
由理さんが絵を下に降ろし、私は彼女が降ろした絵をひたすらに客間へ運んだ。祖父の絵に大型の物は少なく、ほとんどが両手で抱えられる大きさだったが、何往復もしていると、さすがに額を汗が伝った。
ほとんどの絵はきちんと包まれていたが、そうではない絵の題材はすべて動物だった。私が客間から戻るたびに、由理さんは意気揚々と絵について言及した。
「この絵、とても素敵ですね。黄色いカマキリ。女の子らしいと言うか、かわいらしい感じ」
「へえ」
「省吾さん。カマキリのメスってオスを食べちゃうんですよ。知ってました?」
「ええ」
「そういえば、省吾さんには彼女いないんですか」
「一応いますよ」
「どんな人?」
私は困って、意味もなく倉庫を見渡した。
背の低いはしごの天辺にすわって私を見下ろしている由里さんの、黄色い安全ヘルメットの下の目の輝きを見て、昔から彼女は恋の話が大好きだったことを思い出す。
「ふつうの人ですよ」
「顔はかわいい?」
彼女の顔を脳裏に思い描く。
丸いアーモンド型の目。細いあごの輪郭。それをおおう茶色い髪の毛。
「たぶん、かわいいと思います」
「なるほど。性格はかわいい?」
私は頭をかいた。そもそも、かわいいとはなんだろう。
「かわいいっていうのは、どういう意味でしょう」
「いい人かってことです」
「なるほど」
私は一呼吸いれた。由理さん以外はだれも聞いていないのに、彼女を評することに罪悪感があった。
「そういう意味なら、いい人ですよ。やさしくて、料理が上手くて、責任感が強くて……」
由理さんが上の空だったので、言葉を止める。急に彼女は、はしごを降りて外に出た。私も後を追った。
日差しがやわらぎ、ひぐらしの声が聞こえた。まだ明るかったが、空は薄い黄色に染まって柔らかい布で覆われているようで、裾野の山が折り紙のような陰影を遠くに臨ませていた。
由理さんは黙って台所へ行き、夕食の支度を始めた。
彼女には昔からこういったところがあるので、私はなにも言わずに手伝った。
一時間後、食卓の上に御馳走が並んだ。ハンバーグ、唐揚げ、ポテトサラダなど、子供が好きそうなメニューだった。
私のまえには、戦隊ヒーローのプラスチック製のコップが置かれていた。さすがに箸は大人用だったが、数センチしかない取っ手の穴は、人さし指と親指でつまむと埋まってしまった。
「いただきます」
由里さんと私は小さく呟き、食べはじめた。
「おいしいです」
「はあ、それはよかったですね」
由理さんは褒められるのが嫌いなため、そっけない顔をしている。
私は話題を変えた。
「想像よりたくさんありましたね、絵」
「多作な人でしたからね、おじいさまは」
「ええ、知らない絵もいっぱいあって驚きました。でも、あれだけあると、少し処分したほうがよさそうですね」
由理さんが箸を止め、きっぱりと、
「いやです」
と言ったので、私は肩をすくませた。
「処分なんて言い方はよくないですよ。せめて売るとか、寄付するとか、追悼展をするとか?」
「うん、そうですね。すみません」
彼女は納得したのか「いいですよ」と言った。
私は唐揚げを食べながら、現在、居間に山積みになっている絵の行き先について考えた。捨てるのは忍びないが、場所を取ることにも変わりない。
芸術の捨て方はむずかしい。
米を噛むと、甘みが口にひろがった。
それを昔から、ぬいぐるみを噛んだような味だと思っている。
もちろん実際に食べたことはないのだが、乳臭さと、かすかな埃っぽさというのか、空気の味が、私にとっての米の味なのだ。
米と違って芸術は消費されない。胃の中にはおさまらない。だから延々と場所をとって、いずれかは邪魔になるのだが、その割にはこの世界はまだスペースが余っている。
ということは、それだけ芸術家は希少なものなのだろう。
人間でさえ処分され得るのに、唯一、捨てることをまぬがれるのが芸術であるならば、永遠の生命とは芸術のことだ。
だがそれは、死からの逃走とは、少し異なるかもしれない。
最初から死んでいるので、生きていないような。そんな曖昧な場所が、芸術の生きている場所なのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと考えていると、
「夏休みなのに彼女さんと会わないのですか?」
と聞かれた。
「え?」
「恋人同士は、海へ行ったり、花火大会へ行ったり、いろいろと遊ぶものですよね。片付けなんか手伝わせてよかったのでしょうか」
由理さんは真面目に聞いているようだった。
「全然かまいませんよ。もう、そんなふうに遊ぶような年でもないので」
「では、普段はなにして過ごすんですか?」
「そうですね、大抵は家でのんびりしていますね」
「彼女さん、なんの仕事しているんですか?」
「ええと、通信関係の会社で事務をしていますよ」
「ふうん。彼女さん、なんて名前ですか?」
「ナツミです」
「ナツミさん」
由理さんは舌で転がすように名前を言った。
そして、あごに手をやって、何回かうなずいた。
私は緊張していたので、これ以上質問が続かないように、他の話題を振った。
食事の片付けを終え、私はかつての子供部屋で寝転んでいた。
子供机やタンス、ベッドは今もそのままになっている。布団は事前に洗ってくれたのだろう、香ばしく温かい匂いがして、気持ちがよかった。
由理さんは、一階でテレビを観ている。
枕に顔をうめ、目を閉じた。疲れているのか少し眠かった。
ふと一週間前の金曜日を思いだす。その日は、ナツミの家に泊まったのだ。
雨の日だった。
彼女の家は川崎市の小さなアパートにあり、私の家からは片道一時間かからない程度の距離だった。
私たちは大抵の場合、金曜日の夜にはどちらかの家に行き、休日を共に過ごしている。夕飯を一緒に食べながらテレビを観て、そのあとは映画を観るか、テレビゲームで遊び、深夜を過ぎてからシャワーを浴びて眠る。
土日はどこかに出かける。彼女には、常にどこかしら行きたい場所があったので、私は土日のスケジュールを長いあいだ立てていない。
手をつなぐ。目を見つめる。肌が出ていない部分には、さわらない。彼女がしてほしいと言ったときだけ、つむじと、こめかみと、唇に軽く口をつける。
それが私たちの関係のすべてだった。
先週は彼女の家で手巻き寿司をしようと事前に話をしていたので、私は会社からの帰り道でマグロとイカ、サーモン、帆立などが入った刺身のパックと、手巻き寿司用の海苔を買い、準備をしながら彼女の帰宅を待っていた。
普段であれば、彼女の方が先に帰宅しているのだが、その日は居なかった。
酢飯を混ぜながらテレビを観ていると、ようやく玄関扉が開いた。
ナツミは濡れたままの傘を扉のノブにかけると、小雨でカールの取れてしまったロングヘアーを悲しげに見つめ、ぺらぺらすぎてブラジャーの紐が透けているブラウスと、膝のところにシワのできたフレアスカートを検死官のように見下ろしながら、ヒールを玄関に脱ぎ捨てた。
彼女は私と同い年だ。しかし、線が細く身長も小さいので、大学生に見えた。
彼女は私の顔を見ると、ぽろぽろと泣きだした。
私は「どうしたの」や「なにがあったの」などと、愚かなことは言わず、彼女を抱きしめて「がんばったね」と言った。
彼女は用意してあった白米や刺身を冷蔵庫から取り出しながら泣きつづけた。
電話交換で担当者の名字をうまく聞き取れず、休憩室で同僚に嫌味を言われた。と、話しはじめたのは、ほとんど食事を終えたころで、私はほとんど話を聞いていなかったが、
「たいへんな一日だったね」
と述べた。
聞いてはいなかったが、心からの一言だった。
おそらくナツミにとって、本当に悲惨な一日だったのだろう。
そう胸を痛ませながら、私は同時に、米に酢を入れ過ぎたことを後悔していた。すっぱい味が舌にこびりついている。脳にこびりつく味だ。
食事を終えて、くつろいでいると、ナツミが肩に寄りかかってきた。
「どうして省吾はそんなに優しいの?」
ナツミは泣き疲れて枯れた声で聞いた。
「そんなことはないよ」
「どうしてって聞いているのよ」
「うん、どうしてかな」
私はほほえんだ。
「わからないけれど、そう言ってくれてありがとう」
寝返りを打つ。
目をひらく。蛍光灯がまぶしかった。
携帯を開いてみると、真夜中だ。二時間ほど眠ってしまったらしい。
このまま朝まで眠ろうかと思ったが、片付けで汗と埃まみれだったことをを思い出し、身を起こす。
そっと扉を開けると、廊下は静かだった。
由理さんは一階の和室で眠っているはずなので、物音を立てないように浴室へ向かう。
扉のノブに手をかけたところで、かすかな匂いに気づいた。ベビーパウダーのような匂い。動きを止めた指に、白い湯気が絡まっていく。
「由理さん?」
小さく声をかけると鼻歌が聞こえた。男の声だ。
扉を開く。
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