世界で一番大切なものはあなた

 小学校高学年のころから、私の心と体は分裂したように思う。

 もう一人の私が少し離れた場所から私を眺めている。

 友達と馬鹿な話をしているとき、真面目に勉強をしているとき、リビングで母親と夕食を囲んでいるとき、私は私を見ている。

 それはゲームコントローラーを握る感覚に似ていた。

 私は私の人格を操っているプレイヤーにすぎず、本当の私はどこにも存在しないものだ。

 そんなものは、くだらない妄想だった。だが、手放せなかった。

 やがて非現実的な妄想が実害をもたらしたのは、生活に女性関係がもたらされて以降だった。 

 高校生で初めて彼女が出来たとき。

 母親のいない隙に部屋に彼女を連れこんだ。私は年相応に興奮していたが、キスをした瞬間、例のように分裂した。

 頭の中は心地よさよりも行動に囚われ、義務的に服を脱がせ、教わったような言葉を投げかけるあいだに冷めていった。

 いま思えば、緊張していただけかもしれない。

 だが、最終的には横たわった彼女の体に強い嫌悪感を覚え、私はなにもすることができずに彼女を家に帰した。その後、関係は壊れてしまった。

 それから私は女性と関係を持つことを恐れ、成人後も女性に触れることなく過ごした。

 女性と仲よくなっては、直前で手放した。その上で彼女たちが追ってくると拒絶した。恥をかき、みじめな思いをするのが嫌だったのだ。

 そしてだれかに悲しい思いをさせるたびに、祖父から教わった空想を何度も描いた。

 美しい魚が森を飛びだし、月を目指して泳ぎだしている。

 浴室で何度もくりかえし想像し、慰めを得る。


 妄想。私は二人いるようだ。

 妄想。その美しい魚は存在する。

 現実。魚は存在する。醜ければ。

 現実。月は天体にすぎない。私はみじめで、現実を直視できない。


 そして、ナツミと出会った。

 大学三年生の春、居酒屋でアルバイトをしていたときに客として出会った。

 シフトを終えて店を出ると、電柱の側で泣きつぶれている女性がいた。それがナツミだった。肩が透けた花柄のワンピースを着ており、あらわになっているふくらはぎは驚くほど細かった。

 無視して去ろうかとも考えたが、あまりにも周囲の目を気にせずに泣いていたので、放置して犯罪に巻きこまれても気分が悪いと思い、声をかけた。

 彼女はひたすらに謝った。店に戻りたくないと言うので、近所のファストフード店に連れて行き、話を聞いた。

 泣いていた理由は、正直なところ少し想像からずれていた。

 男女関係が原因だと予測していたが、彼女はあえて言うならば加害者側だった。

 三人の男に好意を持ち一線を越えた。その内に友達の恋人が含まれていたため、飲み会の場で糾弾され、逃げ帰ったのだ。

 彼女はその話を、とつとつと素直に話した。

 友達の恋人だと知っていたことも正直に言った。なぜそのようなことをしたのか聞くと、泣いて「わからない」と言った。

 私は彼女を困った人間だと思ったが、同時に可哀想に思った。悪事に対して言い訳もせず、ただ泣くことしかできない姿が、迷子の子どものように見えた。

 帰りぎわ、彼女は何度も礼を言った。


「こんなに、人に優しくされたのは初めて」


 そうつぶやいて、花柄のボロ雑巾のように、夜道をふらつきながら帰っていく。

 背中を目で追っているうちに、私は恋しくなった。

 なにが、とは言えない。二度と会えないのだと思うと、非常に惜しく、後を追いかけて連絡先を聞いた。

 それから私たちは何度も会い、お互いに好意を伝えあうようになった。だが一線を越えることはないままに、一年間が経過した。

 ある日、ベッドに横になり、ひたいを寄せあって話をした。


「私、眠るのが好き」


 ナツミはうれしそうな声でささやく。


「どうして?」


「夢を見ているときは、ひとりじゃない気がするの。どんなにこわい夢だったとしても、さみしい気持ちになることってないよね」


「まあ、そうだね。でも、自分という名前の他人と遊んでいるからかも」


 すると彼女は「ひねてくれているね」と笑い「現実でもそうだといいのになあ」と言った。


「私、現実の私はだいきらいだけれど、省吾が言う、夢の中の私は好き。理想の女の子だから。

 可愛くて頭も切れて、自信に満ちあふれている。

 私とは逆だね。このときの私は間違ったことをしないの。

 男の子と遊園地に行く夢をよく見るの。顔は見えないけれど、多分その子も理想の恋人。

 それで、遊園地にいるのに、アトラクションに乗らないで歩くだけ。

 でもそれが本当に楽しくて素敵な時間なのよ。彼を喜ばせてあげたくて、たくさん面白い話をする。それが驚くほどうまくいって、彼は私を好きになってくれる。

 目を覚ましたあとは、幸せな気持ちになるの。今度は現実にその子に出会えるんじゃないかなって期待する。

 そうすれば私も理想の子になれるし、ちゃんとできるんじゃないかなって……」


「ちゃんとできているよ」


 思わずそう言うと、彼女は首をかしげて少し笑った。そして私たちは眠った。

 その夜、子供のころの夢を見た。

 私がひとりぼっちで森を歩いていると、同じようにひとりぼっちの祖父が現れた。

 私たちは森を探検した。懐中電灯を持って、森の深い口腔に潜りこんだ。

 砂糖水を溶かしたビンを持って木に塗り、翌朝カブト虫を捕まえようとした。

 祖父と私はお互いにひとりだったけれど友達だった。

 それで良かったのだ。

 アパートの窓から、朝日がさしこんでいた。目覚めた私は直感的に、夢と同じように一緒にいれば良いのだと思った。

 理屈をつけて、他人を恐れるのではなく、ただ一緒にいれば良いのだと。

 そうしてその朝、初めて抱きしめると、彼女は泣いて「ありがとう」と言った。

 私は喜びに胸がいっぱいになった。

 彼女を救えたことによって救われたのだと思った。






 食卓に三人で座っている。

 テーブルの上には華麗な食事が並んでいる。

 由理さんが職場から拝借してきた食材でこしらえたのだ。鮪と鮭とタイの刺身、小さな枝豆の豆腐に花をあしらった人参とシイタケ、数切れの牛肉のステーキもある。

 由理さんは、すまし汁を私たちの前に置いた。器の中に丸くて白い餅のようなものが入っている。


「これ、なんですか?」


 そうナツミがたずねた。


「カブとトロロのお麩です」


「料理お上手なんですね」


「まあ、それが仕事なので」


 他意なく聞こえたが、ナツミには素っ気なく思えたのだろう。


「こんなにおいしいご飯ばかり食べていたから、私のご飯を食べようとしないんだね」


 と、私に当てつけた。


「いつも食べてるよ、ちゃんと」


「たまに残すじゃん」


 それはナツミが食べきれないほど、たくさん作るからだ。そう思ったが言い返さず、由理さんに食事の礼を言って食べはじめる。

 沈黙が痛い。

 どの料理もおいしいと由理さんに伝えたかったが、それすら不可能に思える空気だった。

 ナツミは由里さんが夕飯を作るあいだ、私がそばを離れることを嫌がった。由里さんが自分を歓迎していないと思いこんでいるらしく、ずっと怯えた目をしている。

 由理さんは黙って食事をしていたが、その目がナツミの手元をじっと見ていることに気づく。

 私もつられて視線をうつし、ギクリとする。

 ナツミは握り箸なのだ。

 まさかと思ったが、さすがの由理さんも指摘はしなかった。

 鼻をすする音がした。見ると、ナツミが箸を握ったまま泣いている。


「どうしたの」


 狼狽しながらたずねる。


「どこか具合悪い?」


「違う」


「じゃあ、なにがあった?」


 ナツミは話そうとしなかった。首を横にふり、両手で目をこすると、


「もう帰る」


 と、蚊の鳴くような声で言った。


「どうしたの、急に」


 私は動揺して、ナツミの肩に手を置いた。

 するとその仕草に腹が立ったのか、彼女は火がついたように私の手を振り払い「もう帰る!」と叫ぶと、箸を机に叩きつけて立ちあがった。

 右腕がお椀に当たってひっくり返り、中身が飛び散った。汁が服に掛かったナツミが小さく悲鳴をあげて後ずさる。由理さんが慌てて身を乗りだし、ふきんで机をふく。


「大丈夫? やけどしていない?」


 心配して手を伸ばすと「触らないで!」と言われたので、手を空中で止める。混乱した脳内の端っこで、なんとまぬけなポーズで止まっているのかと、自分を笑う声がした。

 由理さんは、私とナツミを見比べている。無表情に見えるが、実際は動揺しているのか、ふきんをつかむ指が白くなっている。

 申し訳なさが湧きあがってきた。関係のない痴話喧嘩に由里さんを巻きこんでいる自分に嫌悪を感じた。


「あ、そう」


 つい漏れた声は、自分でも冷たく聞こえた。


「帰るのなら、さっさと帰りなよ。由理さんにこれ以上迷惑かけられないから」


 ナツミは泣きっ面で私を見た。


「省吾も一緒に帰ろう」


「いや、だから無理だって」


「なんでなの?」


「なんでって」


 ナツミが、グラスを手に取った。のどから、ひゅっ、と軽い音がする。私か、ナツミかは、わからない。どちらかの気管が詰まったのだ。それは、どちらでもいい。

 ただ私は、不思議なくらい冷静に、はじまったことを理解した。

 反射的に左腕で顔をかばう。腕に衝撃が走る。さほど痛くはなかったが、グラスは床で細々とした欠片に分かれて、二度と戻らなかった。


「私のこと好きじゃないの?」


 左腕をつかまれた。

 リスのようにつぶらな目が血走り、左唇の端から白い小さな泡が出ている。爪が食いこむ。ジェルネイルだから細いナイフのように皮膚が切れるのだなどと、他人事のように思う。


「ねえ、省吾も帰るよね? だって私のこと好きだよね? こんな女より好きだよね? ちがうの? 省吾も私のこと捨てるの? ちゃんとできないから? ねえ!」


 髪の毛を引っぱられる。抵抗はしたくなかったので、引っぱられるままに床へ膝をつく。グラスの破片で両手のあちこちが切れた。赤い色は、皮膚の黄色っぽい色と混じり、なんとも認識できない、例えるなら写真のネガのような、そんな色に変わった。

 ナツミは私の背中を蹴った。

 血を見ると、いつも奇妙な平静がもたらされる。脳の奥のほうが凍ったような、パニック映画の裏にある映写機のような、そんな存在だ。

 ナツミは私の頭を叩いた。

 おそらく痛みは、本当に痛い思いをしているときには不要だからだろう。

 ナツミは私の脇腹を蹴り飛ばした。

 私は灰色とも黒とも白とも、透明とも思える血を両手で握りしめて、じっとしていた。ナツミは叫び、滅茶苦茶に私を叩く。

 五分ほど癇癪を起こせば元に戻るだろう、そう考えていると、こぶしが落ちてこなくなった。

 ナツミが横で尻餅をつき、自分を殴った人間を呆然と見あげていた。その視線の先、由理さんは、片手を前に突きだした格好のまま停止している。

 無表情でギクシャクと一歩踏みだす姿はロボットのようだ。怯えた標的に近より、もう一回体操選手のように片手をふりあげ、頭に当てる。

 ナツミは立ちあがって逃げたが、ワンピースの裾をつかまれて転んだ。

 恐怖が怒りに転化したのか、ふりかえって相手の顔に手をふりあげるが、由理さんも負けじとその腕をつかむ。しばらく押しあった果てに、二人とも倒れこんだ。

 ナツミが由理さんの下から這いだし、今度こそ全力で逃げた。由理さんが後を追う。

 二人の殴りあいを見送ったあとも、私はしばらくその場に倒れこんでいたが、なんとか持ちなおして立ちあがった。

 階段を駆けあがる音がしたので、ふらふらと居間を出て階段に足をかける。登りきったところで、由理さんが浴室に駆けこむのが見えた。

 目眩がした。

 階段の手すりをつかむと、手のひらが痛みにしびれた。見ると、赤い。

 痛みが雷のように神経をたどり、一瞬、心が遠くへ行く。

 足がもつれ、視界が反転した。

 木、天井、木、天井、壁、壁。

 真っ白になった。






 殴られるとき、なぜかいつも母を思いだす。

 まだ若く可愛らしい、あの日の母だ。

 母は向日葵色のワンピースを着ている。私は辞書を隠す。ゲームを買ってもらう。美味しいハンバーグを食べる。そうした楽しい記憶の後に、坂を下りていく背中を思いだす。

 母が暴力を振るったことはない。ただ坂を下りていっただけだ。その過去を特別に思ったことはないはずだが、なぜか痛みと一緒に母の姿が蘇る。

 ナツミが怒鳴っている。手が振りあげられ、怖くて目を閉じる。頭や背中に衝撃が走る。痛い。けれど耐えなければならない。そうしているうちに現実が遠ざかり、心は過去を思い返している。

 母が坂を下りていく。見えなくなっていく。

 それらが終わると、ナツミは必ず大泣きしながら謝る。そして今度は自分自身を傷つけようと、包丁を手にとったり、ベランダから飛び降りようとする。

 それらの行為に、私は安心する。

 彼女が自分の犯した罪を自覚し、自己嫌悪に陥るのを見ていると、許さなくてはならないと強く思う。なぜなら彼女はきちんと私を好きでいてくれて、その上で殴っているのだから。

 それならば問題は存在せず、私は許すべきだった。


 初めて殴られた日、ナツミの部屋でピザを食べていた。

 私はなにも考えずに、紙の皿に垂れたチーズをすくい取っていた。

 急に皿を投げつけられた。乾きはじめていたトマトソースとチーズが顔面についた。衝撃が肩に走った。ナツミはマグカップの次に手近な本を、枕を、ぬいぐるみを投げた。最後に投げつけた灰皿が力なく私の腹に落ち、灰が舞って渦を巻いた。

 その混乱の中で、彼女は自分が殴られているかのような悲鳴をあげて私を叩いた。


「省吾は私を裏切ろうとしている」


 彼女は、食事中の沈黙が許せなかったのだ。それまでにも私の些細な冷たさに不安を蓄積させており、その日、それが爆発したのだった。

 散々殴られた。そして抱きしめられた。


「世界で一番大切なものはあなた」


 そう言われて、私はうれしかった。

 散らかった部屋で泣き疲れて眠るナツミに膝枕をし、髪をなでた。安らかな寝息が手のひらにかかり、体は痛かったが、幸福を感じた。

 母親は、こうして幸福を感じるのだろう。

 ふと思ったことに、自分で笑ってしまった。

 慈悲深い人間を演じたかっただけだ。だれかを許すことで、私も許されたかった。

 母を許せない私を、許してほしかったのだ。

 

 




 目のまえが、ぼんやりと白く光っている。

 何度か瞬きをして、水の中にいると気づいた。灰色がかった水面から光線が射しこんでおり、砂に落ちた影がゆらいでいる。

 水をかいて、ゆっくりと前へ進む。鼓膜に圧が掛かってゴボゴボと鈍い音がする。

 視界の端をなにかが通りすぎたと思うと、肩の上を泳いでいく。

 魚だった。

 二匹目、三匹目。次々と私を追いこして泳いでいく。

 私は彼らの後を追って進んだ。

 しばらく時がたち、日が落ちて、水中も暗くなってきた。

 すると魚たちが、急に水面へと腹を向けて、浮かびはじめた。

 泳ぎ疲れて死んでしまったのだ。

 私は魚たちの反対側、砂の底に落ちていく。

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