第三夜 霧の向こう側
避暑地の早朝は十分涼しかった。年老いた紳士は、まだ霧の晴れない湖畔を散策している。
道中の街並みがすっかり変わったことを寂しく感じていたが、この自然の地形は昔のまま、クヌギの森に水鳥の鳴き声か木霊する。
老人は、霧の向こうに懐かしい風景が思い浮かべていた。
そんな景色の中、歩く先に人影があることに気づく。
どうやら女性らしい。ウェーブのかかった黒髪に、白いワンピース。モダンな格好をした乙女が一人、大きなカバンを肩にかけて立っていた。
「おや、お嬢さんも散歩ですか。若い人とは珍しいね」
「ええ、船が来るのを待っていまして」
「船?」
遊覧船は確かにあるものの、乗り場はもっと先である。
乗り場を間違えているのではないか、と老人は思ったが、女性のカバンからスケッチブックの端が見えた。
「君、絵描きかね?」
「下手の横好きですけれどね」
乙女は曖昧に微笑んだ。吸い込まれそうな漆黒の瞳であった。
「そうかい。私の妻も絵を描く事が好きだったよ」
「あら、それは素敵ですわ」
「そうなんだ。本人は毎度気に入らないと言うけど、私からしたらどれも見事なものでね」
「仲がよろしいのね、おじさま」
乙女はふふ、と上品に笑う。爽やかな気候も相まって、老人はついつい話を続けてしまう。
「今も自宅に何枚か飾っていてね、ああ、そうだ」
老人はそう言うと、湖の方へ指を向けた。
「ちょうどここの風景だ、玄関に飾っているのは」
「朝霧の湖畔、美しい風景ですわ」
乙女も同じ景色を眺めた。
「しかし久しぶりに来たものだから、道中すっかり変わっていて驚いたよ。時代かな、観光客も、昔はもっと居たのだが」
話しているうちにすっかり懐かしい気持ちが溢れていた。
息子がまだ幼い頃まで、夏になるとここへ遊びにきていた。妻も、その頃は健在で、ちょうどこの女性のように黒髪をなびかせていて——。
「向こう岸に景色の良いレストランがあったのだか、閉店してしまったらしくて」
「何がお好きでしたの?」
「ナポリタンとハンバーグ、半分づつ食べられるセットがあったんだ」
「私はオムライスとクリームソーダのセットが好きよ」
「そうかね、それは——」
それは妻がよく頼んでいたメニューだ。
老人がそう言おうとすると、乙女は、老人の前に立ち手を取った。
なんというかとだ。その乙女は、紛れもなく亡き妻そのものだった。
風のざわめきとともに胸が震えるのがわかる。霧は二人をすっかり包み込んで、懐かしいあの日に閉じ込めた。
「ねぇ、一緒にあちらへいきましょうよ、あなた?」
きゅっと目を細めて、乙女は、老人の手を、引いた。
「おじいちゃん、危ないよ!」
振り向くと、幼い孫がこちらへ歩いていた。舗装されていない道はなれないようで、よたよたとしている。
老人は、自分の足元を見た。このままぼうっと歩いていれば、足を滑らせて湖に落ちていただろう。
「お義父さん、もう、何処へ行かれたのかと…!」
孫に続いて、息子の嫁が顔を青くして向かってきた。
老人は、孫と息子の嫁と、数十年ぶりにこの避暑地へ来ていた。仕事の都合で遅れてくる息子とは、夕方に合流する予定であった。
「あ、ああ、いや、すまないね」
老人はまだ少しばかり頭がぼうっとしていたが、湖を背に二人の方へ歩いてゆく。
いつの間にか霧はすっかり晴れていて、じわじわと暑さも出ていた。
船の上、乙女は寂しそうにこちらを見ていた。
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