第二夜 冬眠する女房
「冬眠しようと思います」
助けた白蛇が嫁に来てから、半年ほど経った晩のことだった。
初めは不気味に思い追い出そうと考えていた男であったが、あまりにも健気に尽くすので、今ではすっかり夫婦として生活していたのだ。
『冬眠』などという人間らしからぬ発言に、男は久々に困ったように唸った。
「つまり、今晩から春になるまでずっと寝ているということだね?」
「ええ、来年は慣れるように頑張りますから…」
どうやら、人間らしい振舞いに無理が出てきたようである。
男は、気にせず休みなさいとそれを許すと、女はほっと息をもらした。
そうして、あれこれ家のことや眠りの間周囲になんと誤魔化すかを話合い、心配事を片付けると、いつものように寝室に布団を敷いた。
「冬眠って、ここで眠るのかね?」
「夫婦なのに、私だけ土の中は変でしょう?」
男は、それもそうか…いやどうだろう…とまた唸った。
女はそれを少し面白がると、
「私が寝ている間も、必ず隣で寝てくださいね」
そう一言残して布団に潜ってしまった。
翌朝、男が起きてみると、確かに女は隣でスヤスヤと寝息を立てている。
いつもであれば、女が準備した食事の良い匂いがしていたものだ。男は少しばかり不便に感じながら、一人の食事を準備した。
そうして、その日はそわそわと何事も手につかない一日を送った。
翌日もやはり女は眠っている。
頬に触れるとひんやり冷たく、まるで死んでしまったかのようで、不安な気持ちになる。
心地良さそうな寝息を確認すると、男は、また今日も落ちつかない一人の生活を送ることとなった。
次の日も、その翌日も。男は、時折布団を直してやったり、寒くはないかと気にかけたりしていたが、女は寝言も寝返りもせず、心地よさそうに眠るだけであった。
そんな日々がしばらく過ぎたある日、男は偶然、昔の仲間と出会った。彼らとは少しばかり疎遠になっていたが、昔のように話が弾んだのであった。
「そうだ、せっかくだ、このまま飲みに行かないか」
仲間の一人がそう誘った。
「よせよせ、こいつ、まだ新婚なんだぜ」
「お前のとこの鬼嫁とはちげぇよ。べっぴんなんだから」
三人の仲間たちは、思い思いのことを口にした。気兼ねない会話と少しの気遣いが、とても嬉しく感じた。
「いや、せっかくだ、行こう行こう」
女房は実家の家族の看病に行っているから、などと話すと、男は、そのまま夜の街へ入って行った。
賑やかな街並みを歩くとともに、男は気分が晴れてゆくのを感じた。
——なんだ、女が寝ている間、こうして昔と同じように過ごせば良いだけではないか。
思えば、つい去年まではこのように独り身で暮らしていたのだから、なにも困ることは無いはずだ。
酔いが回ると共に夜も深まり、次第に周りは艶やかな色に染まってゆく。
「ねぇ、お兄さんたち」
仲間の一人が、赤い口紅の女郎らしい女に呼び止められた。
「お兄さんたち、私たちと遊んでいきません?」
次は男が、椿柄の着物をきた女に絡まれた。
「なはは、綺麗だねお嬢さんたち」
「おい、ウチのには黙っててくれたまえよ」
仲間たちはすっかりその気になっていた。そして、男にも一緒に来ないかと誘った。
「そうだな、久々に——」
男は、心地よい酔いのなか、そのまま仲間たちにふらりとついて行きそうになった。
確かに、あれほどぐっすり眠っているのだから、少しくらい遊んだところで、一晩くらいは……。
しかしその時、女が冬眠する前の言葉がふと頭をよぎった。
「……いや、申し訳ないない、やめておくよ。あれでも蛇は嫉妬深いというからね」
「蛇、とは?」
仲間たちはきょとんと首を傾げた。
「巳年生まれだなんだよ、女房」
男はそう言って女の手を振り解き、早足で帰路に着いた。
「ただいまぁ〜…」
明かりすら灯ってない家の様子は、なんだから責められているように感じた。
男は、重い足取りで寝室へ向かった。しかし、そっと襖をあければ、相変わらず女はスヤスヤと気持ちよさそうに寝ていた。
「ねぇ」
男は、眠っている女の横に腰を下ろした。
肌はいっそう雪のように青白く、暗い部屋でぼんやりと浮きだされる。その様子が、まるでこの世のものではないように見えて、男は確かめるように女へ触れる。
「ねぇ」
うなだれるように彼女の身体に身を寄せた。しかし、男の声には何一つ応えてはくれなかった。
「ねぇ、そろそろ起きておくれよ……」
菜の花が咲き始めた頃色に、女はようやく目を覚ました。
「よく眠れたかい?」
男は、長いこと締め切っていた寝室の窓を開けた。少しばかり冷たい空気も、春らしい風景の中では心地よいものに変わる。
女はまだ少し眠たそうに目をこすり、ぼうっと日差しを浴びていた。
「あら、珍しい花が咲いていますね」
「珍しいかい?」
「あまり見たことがなかったわ。いつもより早起きしたものですから」
そして女はこちらへ視線を向けると、はにかみながらこう言った。
「なんだか、あなたが寂しがっているような気がして」
「は、はは! まさかまさか……」
男はそれからも、夜遅くまで家を開けることはなかったという。
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