第2話
私が陸上をやめたのは、去年の同じ時期だった。正確には、やめた、というよりやめざるを得なかった、というほうが、半分正しい。
やめる理由だってよくある話で、大きなけがをしてしまって、長い間のリハビリが必要になったから、というだけだった。
だから、私が陸上をやめたのは、半分はけがのせいで、もう半分は、ここが私の限界だろう、と自分の中で踏ん切りがついたからだ。今日まではそう思っていたのだ。三か月はかけて心の中のもやもやを咀嚼しきって、すっぱりあきらめたつもりでグラウンドに立っていたのだ。
なのに、今さらそれは梓への、いまだ走り続けられている恋人への嫉妬へとなって、私の中でむくむくと急成長している。この原因が、季節の変わり目なのか気圧なのか、はたまた大けが一周年記念なのかは分からないけれど。
もちろん、この感情をそのまま梓にぶつけるなんてことはできないし、だからといってこっそりしまい込んでおくことだって、当たり前だけどできないのだ。
じゃあどうすればいいの、と私は家に帰って早々、ベッドの上で膝を抱えていた。梓との個人チャットを開いては、言えるはずもない、と閉じるのを、さっきからずっと繰り返している。そこにうつるのは昨日までの楽しげなやり取りで、今の私にはそれさえも喉を焼く毒のように苦いものだった。
私はすっくと立ち上がると、さまようように部屋を一周して、それからベランダにつながる窓に頭をつける。ひんやりと、というよりキンキンに冷えた窓が、私の煮詰まった頭の熱を奪って心地がよい。外はもう暗く、遠くに整然と、高速道路の光が並んでいるのが見えた。
――久しぶりに走ってみようかな。
私はそんなことを思い立った。今まで何度も思い立って、その度にやっぱやめておこう、と躊躇してきた思い付きだった。
でもなぜか、今日はそんなためらいも起きないくらいにむしゃくしゃしていた。右手の指先が窓ガラスの上をつるりと滑る。私はそれから、たたたとクローゼットまでの道のりを駆けた。
クローゼットの奥底から引っ張り出したウインドブレーカーは、あの頃と変わらず、少しぶかぶかだった。私はジャージの上から袖を通すと、ぴょんぴょんと何度か飛んでみる。動きもばっちりだ。私は仕上げにライトを首からぶら下げると、何度か点けたり消したりして、それから部屋を飛び出した。
怪訝そうに私を見るママに、ちょっと走ってくる! と叫んでから、家の玄関の前でぐいーっと、腱やら関節やらをほぐしてやっていると、それだけで体がぽかぽかと温かくなってくる。それはまるで、エンジンがだんだんと暖まるような感覚だった。いける。走れる。全身をつらぬく無意味な万能感に、私は久しぶりに心地よく風を切る。
……とはいっても、最初は軽くジョグからだ。私は軽く腕を振って、夜の明かりが灯る住宅街を抜けてゆるやかな坂を下り、小さな橋を渡って小川沿いの遊歩道に出た。かつて私が日夜練習をしていた道だった。
もう少し、ペースをあげよう。
一回走り出してしまえば、もう止まれなかった。足のギアはジョギングをこえて、もはやランニングのそれへとうつっていく。街灯が一本、二本、どんどんと私の後ろに過ぎ去っていく。夜の冷えた空気が顔を叩いて、私は前髪を横に流した。
心地がいい。強烈な喉の乾きも、口の中に感じる血の味も、太ももの筋肉が張っていく感覚も、全部が久しぶりの感覚で、新鮮にさえ感じられた。
もう少しだけ速く、もう少しだけ長く――。
しかしそれはプツリと、糸が切れるように終わった。
左足の脛のあたりに鋭い痛みが走る。喉から絞り出すような悲鳴が上がる。つんのめるように急ブレーキをかけて、私が全部理解をしたのはそれが全部終わった後だった。私は急に血の気が引いて、しゃがみ込んでいまだ鋭い痛みが残る脛をさする。それから一つ、意味のない安堵の息を吐いた。……けがが再発したわけではなさそうだった。少なくとも、あの時みたいに血が出ているわけでもない。
だからといって、この刺すような痛みが引くわけでもない。立ち上がることさえできずに、私は古傷が痛むのだろうと結論付ける。
――やっぱり、だめなんだ。
私はよろよろと立ち上がって、左足をかばいながら今さっき来た道を歩く。夜の遊歩道の街灯が、今になってひどく頼りないものに思えて、首元のライトをぎゅっと握りしめる。夜の冷たい空気が私にまとわりついて、そのまま固まってしまいそうだった。
さっきから私は、冷めたように冷静だった。さっきまで浮かれていたのが嘘のようだ。たぶん一時の衝動にまかせて走ってはいけなかったのだろう……、私はそう断じた。
家にたどり着くころには、私の体は冷え切っていて、そのくせ体の奥からは、興奮とは違う、嫌な熱が湧き上がってくるので、あーあ、本格的に風邪を引いたな、と私は他人事のように思った。
ふらふらのまま玄関をくぐって、ただいま、とやけくそな声を上げると、ママが怒りの形相で立っていて、しかしその姿は急にこちらを心配するようなものに変わった。
「ちょっと、顔真っ赤だけど」
「……風邪ひいた」
「こんな日に外出るからでしょ」
ママの小言に何も言い返す気力も、言い返せるだけの言葉もなくて、すいません、と搾りかすのような声を出す。それだけで、ママは、ほら、と私の体を支えてリビングまで連れて行ってくれる。足が痛いなんて、言えるはずもなかった。
リビングの椅子に座ると、今まで忘れていたあれがふつふつと湧いてきた。私は握りこぶしを膝の上で作って、それにじっと耐えた。
熱は三十八度あった。
私は有無を言わさずに入れられたベッドの中で、マネージャーのグループチャットに簡単な報告と、明日はよろしくとだけ投げて、それから私は梓とのチャットに向かい合った。まだ昨日のたわいもないやり取りが一番下に踊っていて、それを見ていると、休みの連絡の文面は思いつきそうになかった。
休めてよかった。そう思う自分がいて、私はそれが嫌になった。
次の更新予定
2025年1月9日 17:15 毎日 17:15
ひとりでも走れる君へ 藤澤流砂 @fujisawaryusa
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