ひとりでも走れる君へ
藤澤流砂
第1話
十一月ともなると、昼でもそこそこ冷える。
私は片手をダウンジャケットのポケットに入れながら、からっと晴れた空を見上げてみる。ひゅうとかわいた風が吹いて、私はうぅ、とうめきながら早々に首をきゅっとひっこめた。
首筋を冷気にあてたからだろうか、けほけほと乾いた咳が喉からなる。……先週からはじまったこれも、治る気配すらなくずるずると続いている。風邪薬も飲んでるんだけど、そろそろ病院でも行ったほうがいいんだろうな――。
「――莉乃先輩!」
目の前から声をかけられて、私はびくっと肩をはねさせる。
「ごめん咲奈、どうしたの?」
「そろそろ梓先輩方、戻ってきますよ」
あ、ほんと? と、私は急いでタイム計測の準備をする。――気をひきしめないと。タイム計測はマネージャー業務の基本のキだ。今年は私がマネージャー長なんだから、ミスなんて許されないのだ。
私はボードの上に記録用紙とストップウォッチを置いて、よし、と小さく声を出す。おそろいのユニフォームを着た数人が、グラウンドへと入ってくるのが見える。その先頭はもちろん――。
「あ、梓先輩、トップですよ!」
「……うるさい、集中するよ」
咲奈がはあいとしょぼくれたような声を出して、横に並ぶのを見て、私はもう一度、よし、と気合を入れなおした。もう梓は後ろで一つに結んだ髪を揺らしながら、トラックを走っている。速い。ストップウォッチを見るまでもなかった。それにフォームだっていい。長距離を走った後なのに、頭がぶれていない。それに――。トラックを曲がってくる梓をしばらく目で追って、私はまずい、と手元に目を落とした。
「さんじゅうさんふん、じゅうご、じゅうろく、……」
私の読み上げの前をランナーが通過して、私と咲奈がタイムを書き留める。それを何回繰り返しただろうか、最後の一人が私たちの前を通り過ぎ、私はペン先をぴたりと止めてふうと一息ついた。
「梓先輩、速かったですね!」
――おちゃらけた後輩が、にやにやと私を見る。なんだか憎めないんだよな、と咲奈の顔を見ながら私は思うが、いや、これだけはがつんと言ってやらないといかん、と、私は仰々しく口を開いた。
「あのね、咲奈。私たちは誰か一人じゃなくて、選手全員を見なきゃいけない立場なの。確かに私と梓は、その、恋人、同士だけど、今はマネージャーとして全員に目を配ってるし、梓だって、私を恋人として見てないはずだよ? だからね、えっと、何が言いたいかっていうと……」
「でも莉乃先輩、秒読みの時以外ずっと梓先輩見てましたよね」
「うるさい」
図星だった。私は気まずくて目をそらして、散らばってクールダウンをしている選手の方を眺めた。その中に梓の姿を探して……、まずい、と努めて全体を見渡す。
しかし、本当にタイミングの悪い恋人が、その一群の中からすっくと立ち上がった。咲奈があ、と声を出す。こういう時、梓は私の方に来るのだ。それはもはやルーティンとも言える……。私がそうやって現実逃避を、だって絶対に咲奈にからかわれるから、していると、梓が片手を軽くあげながらこっちへとやってくる。
「莉乃、今日はどうだった?」
「ほら、こんな感じ。タイム上がったんじゃない?」
私は肩を寄せる梓にボードの記録をとんとんと指し示す。梓は、お、上がってる、と満足そうな顔をした。ペース配分見直したんだ、と私が聞くと、梓はいい感じ、と右手でピースサインを作った。――さっき咲奈にでかいことを言ってしまった手前、とてつもなく気まずい。
「ほら、梓、ミーティングやるよ」
「ええー」
このままだらだらと話していそうな梓を急かして、集合をかけさせる。空咳を一つして、私も駆け足で梓のもとへと急いだ。
「……ということで、明日は大会です。各自、練習の成果を発揮して……」
梓は人の前に立つ才能がある。現にこうやって、しんとしずまったグラウンドの片隅で、彼女は視線を集めている。エース兼部長というのが梓の立ち位置だった。たぶん自己マネジメントだって、彼女はやろうと思えばやれてしまうだろう。天は梓には二物だって三物だって与える――。莉乃、と呼ぶ声に、私は真っ黒な思考の渦から引き戻される。
「えっと、明日は大会、ということで……」
対して私は、今でも前に立つと緊張してしまう。集合場所、時間、その他諸々の連絡事項を漏らさないように伝えるだけでこの始末だ。ボードに挟んだプリントを行ったり来たりさせながら話す私は、客観的に見たら梓なんかとは比べ物にならないポンコツだろう。
「以上、お願いします」
私の一言で、部員は三々五々に散っていく。その中から一人、やっぱりこっちに向かってくる人がいた。
「梓……」
ひらひらと手を振る梓は、さっきまでの凛とした雰囲気は鳴りを潜めていて、そこには、たぶん私以外に見せたことのないだろう、ふにゃっとした笑顔があった。その笑顔だけでなんでも、もちろん公私混同の現状でさえも、許せてしまいそうになる。
たぶんそれは恋人の特権で、それが嬉しくもあり――でも、なんだか今は腹立たしくもある。最近たまにそんなときがあるのだ。
「ちょっと走ってくから、莉乃も付き合ってよ」
「りょーかい」
それから梓は、千メートルを悠々と走り切って、手の甲で汗をぬぐう。私は梓に駆け寄って、体冷えちゃうでしょ、とタオルとジャージを手渡した。
「ありがと莉乃」
記録は? と言葉を継ぐ梓に、ほら、三分十、とストップウォッチを見せる。ノートにも書いといたよ、とノートを渡すと、梓はまた、にへらと笑った。びゅうと一回風が吹いて、私は梓にジャージを羽織らせる。
「明日もよろしくね」
「もちろん。って言っても私たちは応援しかできないけどね」
最後には梓たちに頑張ってもらうしかないんだから。私はばしんと梓の背を叩く。
「……でも、あたしは莉乃がいないと走れないから」
「ほんとに?」
ありがと、と言おうとして、ずきりと喉が痛んだ。濁った情けない声とむせるような咳が流れ出て、涙さえ出てくる。梓が大丈夫、とのぞき込むのが見えて、大丈夫だと手を払うように振った。
「……そろそろ帰ろっか」
私は、そう言う梓と並んで歩き出す。スクールバッグを拾う梓の横顔が夕日に照らされて、頬がオレンジに染まる。梓の顔は本当にきれいだ。多分このあたりの誰も勝てないくらいには。
またあのどす黒い感情が、形容したくない感情が湧き上がってくる。
――私は本当に、さっきありがとうと言おうとしたのだろうか。私はあのときなぜ、ありがとうと言えなかったのだろうか。
嫉妬だと、私は思う。
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