夏の森

 木漏れ日が満ちる。

 蝉の声が木々に反射して、僕を取り囲む。

 毎年、夏になると僕は父方の祖父母の家に帰省する。都会から新幹線で五時間。そこからバスで一時間くらい突き進んで行った先に住んでいる。そんなに遠いと気軽に遊びにはいけない。ただその分、夏には二週間ほど滞在して、その時期には親戚一同も一斉に会して親族会みたいなものが開かれてる。ただ僕くらいの子供なんて一人もいなくて、僕の上だともう二十九歳のお姉さんとかで、中学生の僕とはなかなか話も合わない。そんなわけで、いつもここに来ると一人で遊んでいた。

 ただ、それ自体は特別寂しいものじゃなかった。都会では味わえないこの大自然に、僕の心はいつになく高揚して、まるで気分は冒険家だった。落ちた枝を踏み鳴らして、生えるだけ生えて伸びている枝を掻き分けて、未知のジャングルを冒険しているようで、自分が大人になれた気がした。

 意味もなく枝を拾って、それを掲げながら一人突き進んでいく。

 虫が飛んで、草花が揺れる。それにいちいち驚くのはカッコ悪いと思って、誰が見ているわけでもないのに意地を張っていた。

 次第に木々がどんどん深くなってきて、伸びた枝が、僕の体に傷をつけていく。痛いと思いながらも、この先にはなにがあるんだろうという好奇心が勝り、気にせず歩いていった。

 すると、少し開けた原っぱのようなところに出る。見回してみると、そこには地蔵が置いてあって、随分と汚れて、傷だらけになって、今にも倒れそうになっているのが遠目からでもわかった。

 僕は自分の擦り傷だらけの体を見る。ヒリヒリとした痛みが少しずつ強くなっている気がした。そして地蔵の方にもう一度目を向けた。

 僕は小走りで近づいて、倒れかけている地蔵に触れる。少し重かったけど、力いっぱいに押して、なんとか元々いたであろう場所に戻すことができた。

 ただ、傷だらけの地蔵を直してやることは、僕にはどうやってもできなかった。

 手を合わせながら目を閉じて、「ごめんなさい」と心の中で唱える。その時、一陣の風が吹いた。ハオがくすぐったくなった。

 目を開いて、僕はふと「笠地蔵」の話を思い出した。

 別に何か見返りが欲しくてやったわけじゃなかったけれど、もしかしたらいいことがあるかもしれないなんて思った。

 辺りを見回して、ここは良い場所だなぁなんて思う。ふとその時、自分がどこから出てきたのかがわからなくなってしまった。見回すも、僕が通ってきたであろう跡すら見つけられなかった。

 ただ見つけたのは、小さな獣道が地蔵の後ろから続いていることだけだった。

 こんな道あったっけ、と思いながらも、今の僕にはそこを進む以外どうすることもできなかった。この道がどこかに続いていることを信じて、僕は地蔵の横を通り抜けて、進んでいく。

 遠くにぼやけながら一つの石鳥居が立っているのが、歩く僕の目に映った。夢見心地な気分で、とても気持ちが良かった。

 獣道はただ、夏の木漏れ日が満ちて、夏風が僕の体についた擦り傷をくすぐるように触れる。痛みは何故かもうなかった。

 歩いているとすぐに石鳥居の前までたどり着いた。

 古ぼけた神社がその先に見える。

 こんなところに神社なんてあったんだ。そんなことを思いながら、僕は石鳥居をくぐる。なんだか、寒い鳥肌みたいなのが全身を走った。体は熱いのに。

 境内の中は荒れていて、神社の御神体が祀られていると思う建物の階段は木が腐っていて、乗ればすぐに折れてしまいそうだった。

 なんだか神社の雰囲気は異質で、まるで別の世界にでも来てしまったかのような、そんな感覚がした。虫の声が全然しない。ただ風で木が戦ぐ音だけがする。僕は境内の中を歩き回って、神社の裏に大きな木があるのに気がついた。樹齢どれくらいなんだろう、なんて思いながら、僕はその大きな木を下から眺めていた。

「あら、珍しい。人が来たのね、ここに」

 後ろからそんな声がして、僕は思わず振り向く。鈴を転がしたような声というのはこういう声のことを言うんだと思った。

「き、君は?」

「私?私は……この辺に住んでいる子どもよ。たまにこの神社に遊びに来ているの。君も?」

「う、うん。おばあちゃんの家がこの近くで、夏休みに遊びに来てるんだ」

 僕と同い年くらいだろうか。薄い、白い着物のようなものを着ている。夏なのに、腕も足も、顔以外のところは全部隠れている。

 ただ色が白い。肌が陶器のように白くて、目はすごく黒い。その対比がすごく美しくて、魅入られて、少し怖かった。

 少しクラクラし始めた。

「そう、ただここには勝手に入っちゃダメなのよ。とても神聖な場所なんだから」

「え、でも君は……?」

「私は、昔からここに来てるから良いの。そうね……もう一回ここに来ることが出来たら、その時はちゃんとここにいても良いわ」

「もう一回……?」

「ええ。でも今日のことは忘れなきゃ駄目よ。全部忘れて、それでも来れたら、また会いましょ」

「また会えるの?」

 なぜかそんな言葉が出た。それを聞いてその子は笑った。

「また会えたら、また会いましょ」

 なんだか気が抜けた。その瞬間、視界が揺らいで、揺らいで、僕は倒れ込むように、ぐるぐると回った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る