揺れる

 電車が揺れる。

 それはゆりかごのようで、僕はまたうたた寝をしていたようだった。

 揺れの勢いで隣に転がるように倒れたところで目が覚めた。また、何か夢を見ていた気がする。はっきりとは思い出せないけど、何か大切な夢を。

 窓の外を見る。電車に乗った頃にはまだ少し高かった日は、今日の活動をやめて静かに眠ろうとしていた。不規則に揺れる電車に茜が差す。

『次は、――駅、――駅。お出口は左側です。――線にお乗り換えのお客様は――』

 車内アナウンスが響き渡る。

 アナウンスの駅は乗り換え駅だ。危ないところだった。もう少し起きるのが遅かったら、乗り過ごしてしまうところだった。

 膝上に置いてあったリュックを持って、電車の出入り口前に立つ。

 夕暮れの都会が映る。薄く自分の顔も映る。

 高層ビルが並び立ち、時折夕日がビルに隠れる。ただ、ビルの後光のようにその光は依然として眩しかった。

 そしてそれから間も無く、電車はホームへと滑り込む。高層ビルの景色は一転して、人が立ち並ぶ風景へと変化する。

 音を立てて電車はゆっくりと止まっていく。

 気がつくと、僕以外にも降りる人たちが周りに集まっていた。扉が開くと同時に人々が一目散に降りていく。一瞬でも反応が遅れると、押し出される形で嫌味げに外に出される。外を見るのに夢中だった僕は当然の如く邪魔の扱いされながら押し出される。

 流れに乗るのが苦しかった僕は、降りたあとホームの端で階段が空くのを待っていた。乗る予定の新幹線は三十分も後だ。急ぐ必要もない。

 どうせなら駅弁でも買って、気ままな旅にでもしようと思った。携帯電話も家に置いてきて、連絡からも解放された。どうせ今日はどこかで打ち止めをくらう。どうせ道は長い。それならばせめて楽しい逃亡と帰郷でありたい。

 人が殆どいなくなって空いた階段を降りながら、その足取りが軽くなっているのが自分でも感じられる。地に足がつかない感じだ。

 新幹線のホームはやけに広い。その中腹には売店がある。覗いてみると思ったより色々売っている。どうせなら高いものにしよう。金ならある。これだけが僕を支えている。

 そうは言っても案外悩むもので、結局ありきたりな鰻弁当と飲み物にラムネを2本買った。

 気が付かなかったが悩んでいる間に、ホームには僕が乗る新幹線が到着していた。新幹線はすぐに発車するものではないが、それでもなんだかんだで焦る気持ちが生まれる。

 少し駆け足で新幹線に駆け込み、鰻の匂いを漂わせながら車内を闊歩する。小説家とは言っても顔なんてインタビュー記事で出した程度のもので一般に知られているようなものじゃない。ただの一般人Aだ。ただし鰻弁当という高級な弁当を持っている一般人Aだ。

 自分の席を見つけて、僕はゆったりと座る。新幹線はやはり窓側に限る。ほとんど乗ったことはないが。できることなら隣には誰も乗らないで欲しいと思うのは皆共通だろう。そして、その願いが打ち破られるのも、また皆一緒だろう。

「隣、失礼します」

 そんな言葉が聞こえてきた。ため息をつきたくなる気持ちを抑えて、僕はにこやかに、どうぞ、と手を差し出す。

 しばらくして、新幹線は動き出す。僕はこの新幹線に四時間ほど揺られることになる。時刻は午後六時を回っている。それでもこの季節は、まだ外が完全な夜ではない。ビルの隙間から沈みかかる夕日が少しだけ見えている。新幹線からでは見えないが、きっと真上には星が見え始めている。

 緩やかだった速度はだんだんと高まり、景色はどんどんブレていく。それでもビルなんかはやけにはっきり見える。

 いつもはまだ夕飯を食べる時間ではないが、どうにも手元の弁当の匂いで腹が減ってくる。ただ、周りに食べ始めている客はおらず、隣の客ももちろん食べていない。

 まぁ考えていても仕方ない。食べることにした。

 食レポなんてことをしてもしょうがないので、無心で食べる。美味しい。普段まともな食というものを食べていないからか、鰻はこんなにも美味かったのかと驚く。味わってゆっくり食べることもなく、一瞬で食べきってしまった。

 確かな満足感に浸りながら、ゆっくりと夜の装いに色づく風景を眺める。

 景色はまだまだ都会の様相を残していて、たまに申し訳程度の木々が目に入る。だが都会から少し出てしまえば、自然は一気に多くなる。普段都会の隅にあるあの町から出ない僕からすると、こういうものにもなんだか無駄に感動してしまう。

 さて、僕は手紙に書いてあった約束について、思い出さなければならない。

 とは言っても、何も思い出せない。祖父母の家にはもう何年も行っていない。中学一年生の頃に行ったのが最後だろうか。その年の暮れに祖母が亡くなり、後を追うように元気だった祖父も亡くなって。その葬式を祖父母宅のある地元でおこなった際に訪れたのが最後だ。その時に何か約束をしたのだろうか。確かに親戚が総出で集まって、何人かと話した記憶もある。僕が親戚で一番幼かったからかスピーチなどもして、その話を親戚たちと話したのも憶えている。ただ、何か約束、というものをした記憶はない。とすると、もう少し前に、毎年夏に訪れていた時に何か約束をしたということなのだろうか。うむ。思い出せん。両親に話を聞こうにも、携帯電話は置いてきてしまったし、なんだかそれはやってはいけないことのように感じた。

 さてと、全く思考が先に進まない。三十年近く昔の約束か。一体何を約束したんだろうか。……ベタに結婚の約束とかだと困るが、今では昔の自分が何を考えていたのかなんて思い出せないから、結局思考からの絞り込みなんて無駄だ。出来ることなら今の自分で叶えることが可能なものであってほしい。

 ため息をつきながら頬杖を突く。窓の外はすっかり暗くなって、都会から離れ始めた景色はただの闇に染まっている。気が付けば、客たちの夕食の弁当の匂いが新幹線内に充満し始めていた。隣人もカツ弁当を食べ始めていた。腹は減らないが、違う弁当を食べている人間を見ると、それも買えば良かったと思ってしまう。脳をすっきりさせるために買っていたラムネを開ける。ビー玉が音を立てて落ちて、泡がシュワワと盛り上がる。ラムネなんてもう何年も買ってないし、飲んでない。夏と言えばラムネだと思う。そんな信念じみたものが僕の中にはあるから、この逃亡には欠かせないものとなった。思わず二本も買ってしまったのが、僕の気持ちを端的に表している。口の中が痺れるように蠢いて、喉が固まるようにキンッとする。

 あ。

 なんだかこの感覚で何か思い出せそうな気がした。記憶が泡と共に盛り上がってくるような、そんな感覚。揺れて、揺れて、どうしようもなく脳髄が揺れ動いていく。心臓は音を立てて躍動する。

 なんだろうか。酒に酔っているような感覚。ラムネの炭酸が僕の記憶をどうしようもなく揺れ動かす。どんなところにヒントがあるかわからないものだな。

 なんだか、久しぶりに動かした機械のようにぎこちない音を立てて、慣れないことをしているようだった。

 ラムネの鼻に通る匂いで夏が蘇る。想い出はセピア色なんかじゃない。ただどこまでも緑と青と白だった。

 そうして泡ぶくになって浮かび上がる。あの日、ラムネを飲んだ時のことを、僕は思い出す。祖父母の家でキンキンに冷えたラムネをもらって、それを持って出かけた、あの日のことを、僕は思い出す。

 それは蝉の声に包まれながら陽炎揺れる道を歩いた、木漏れ日満ちる獣道を歩いた、あの大樹の下で語らった、あの夏のことだった。

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