春に追われる

 春終わりの暖かな日差しが差し込む。

 閉じた目蓋に刺さるように降り落ちて、思わず目を開ける。

 どうやら机に突っ伏したまま、うたた寝をしてしまったようだった。

 寝ぼけ眼を擦りながら、僕は左腕を上に、体を大きく伸ばす。伸びていると大きな欠伸が自然と零れる。

 なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。

 涙で滲んだ視界で、机の上の原稿用紙がぐしゃぐしゃになっているのに気が付いた。

 あぁ、やってしまった。

 また書き直しだ。大したものも書けてはいないのだけれど、締め切りがあるからには、モノにして出さなければいけない。

 小説家になって、はや十五年。すでに僕の想像力は底をついている気がする。こんなことを言っては同業者からは叱責をくらうだろうけれど、それでも、最近書く小説は以前と比べて、何か訴えるものが希薄になってきた気がしてならない。

 僕はいつか、小説家になると決心した理由があったはずなのに、今ではそんなことも思い出せない。何か大切な、理由があったはずなのに。人生を賭けるような何かが。

 あぁ。

 天井を眺める。

 そこそこ売れた今でも、大して広くもないワンルームに暮らしている。この部屋は大学に入った頃からずっと住んでいて、もう天井の木目の形まで覚えてしまうほどだが、ここを出てどこか別の場所に移り住む気力も今の俺にはない。ここに縋っていなければいけない。

 部屋の中のものは、面白いものが書けなくなってしまってから、殆んど捨ててしまった。もうミニマリストと言ってもいいくらいには部屋の中はこじんまりと、すっきりしている。

 おかしいものと言えば、去年の夏から出しっぱなしの扇風機が下を向いて、埃も被って寂しげな様子のまま部屋の片隅にいるくらいのもので、あとは食器棚に最低限の食器やら何やらが置いてあって、冷蔵庫やらレンジがキッチンエリアに詰め込まれている。

 本は全部売ってしまった。小説家になるくらいだから、当然僕は小説が好きだった。ジャンルを問わず、いろいろ手を出していた。ただ、最近は僕じゃない誰かが書いた創作物を読むこと、それが優れていればいるほど嫌になってしょうがなかった。よくあるやつだ。ただの妬みだ。

 自分が出来ないことを、他人がやっていることにどうしようもない苛立ちが起きる。

 彼らがいかに心身を削って、それらを生み出しているのか、それが僕には痛いほどわかる。そうして筆を折りかけながらも、必死にしがみついて、傑作と呼ばれる小説を書く人達も見た。才能という言葉を使うことは好きではないが、それでも実際に、必死になってよいものが生み出せてしまう彼らは、きっと天才だ。

 僕はと言えば、三十数年生きている中で、こういうものを書きたいと思っていたものをいざ形にしたら、それが運よく刺さる人が多くいたというだけの話だ。これでは嫌味のようになってしまうかもしれないが、当然その時は死ぬような思いで小説を書いていた。何度も原稿用紙を破り捨てて、丸めて捨てて、吐きそうになりながら書いていた。少なくとも、二作目、商業作家として生きていくと決めたときからは。

 なまじ一作目が評価されたせいで、何を書いても否定されるような気がした。そんな中でも十数作は書ききり、そして、また新作を、という話が去年の暮れに出たところで、僕の中には何も残っていないことに気が付いた。

 考えても、考えても、何も思いつかない。ずっと書きたかったものは、大抵書ききってしまった。今までの苦しみは、いかに自分の中にあるものを美しく、面白く、惹きつけられるものにするかの苦悩であったが、今はまるで深海に潜って苦しみ藻掻くような苦しみだ。

 深海。底は見えない。ただ、海面もまた見えない。取り返しのつかない、戻りようのないところまで来てしまったと、その時初めて思った。泡ぶくだけが、まだ僕が生きていることを証明する苦しみの合図だった。ゴミ箱に溢れる泡ぶくに、僕はもう見向きもできない。責任が取れない。

 ずっと、僕の後ろに何かがいる気がする。それが何なのか大抵予想がついていたが、それを僕が外敵だと思ってしまったら、それこそ僕は首をくくらなきゃいけない時だと思う。

 あぁ。どうしたものか。

 僕のことを天才と呼ぶ、呼んでくれる人間がそれなりの数いる。手紙なんかもよく送ってくれていて、編集の人がある程度まとまったら、僕に渡してくれる。ありがたい話だが、彼らが僕を天才と、すごい作家だと称えると同時に、そこに影が落ちていく。君たちが見ている人間は天才の振りをした紛い者だと。そう言いたくなりながらも、それを口に出してしまえば、僕は本当にどうにかなってしまう。救われてしまう。

 僕は自分の今まで書いた作品たちを愛している。それは疑いようがない。誇りを持っている。ただ、それを書いた僕がこんななのが良くないんだ。トンビが鷹を生んだようなものだ。

 あぁ。どうしたものか。

 先日も編集部から読者からの手紙が届けられたばかりだ。それも読めずに封も切れずに紐でまとめられたままテーブルの上に放置してしまっている。

 今彼らの言葉を見て、聞いて、知ってしまったら、僕は一体どうなってしまうのだろうと思う。今の僕がそれを読もうとするのは、自傷行為以上の自殺行為だ。

 それがわかっているから、僕は今なにも出来ずにいる。

 彼らの声にこたえることも、僕自身の声にこたえることも、何も選べずにいる。

 そんなことを考えて、僕は結局今日もなにも書けずに終わっていくのだろう。こんな中でうたた寝しているのが何よりの証拠だ。

 とりあえず、水でも飲むことにした。

 キッチンに向かう途中、玄関扉の郵送入れに何かが入っているのが見えた。

 中を覗いてみると、どうやら手紙のようで宛名は僕の本名になっていた。どうやら読者や仕事関係の人からではないらしい。そうなると一気に珍しくなる。作家の仕事関係で出来た知り合いとのやり取りは基本ペンネームで、本名は隠しているわけでもないが、ほとんど使っていない。

 昔の知り合いに至っては、もはや連絡なんて殆んどとっていないため、正直顔が思い浮かばない。

 封筒には宛名だけで、切手も消印も付いていなかった。水を注ぎながら、封筒裏に書かれた差出人の名前を見てみると、そこには住所などはなく、ただ『親愛なる人』とだけ書かれていた。

「なんだ。誰だ」

 思わず呆れてしまって、そんな言葉が口に出る。注いだ水を一息に飲み干して、テーブルに手紙を放り出して座る。

「さて、どうしたものか」

 胡坐をかいて、足に肘を置き、頬杖を突く。声にならない唸り声が出る。

 まぁ考えていても仕方ない。今の僕には何ができるわけでもない。それならば、いっそ小説のネタにでもなるかもしれないという浅ましい願望を胸に抱いて、封を切って中を見ることにした。中には手紙が一枚と写真が数枚入っていた。先に手紙の方を読んでみることにした。


『――様

 お久しぶりです。

 お元気でしょうか。きっと私が誰だか、あなたはきっと思い出せないだろうと思います。

 ただ、私はずっと憶えていました。

 あなたがどんな顔でこの手紙を開いたのか、それを想像しながら、私は今こんな手紙を書いています。

 さて、今回こんな手紙を送ったのは、他でもなくあの夏にした約束を果たすためです。

 約束って何のことだ、なんて思って、きっと頭の中で昔の約束を思い出そうとしてると思います。でもあなたはきっと思い出せません。

 ただ、忘れたままでいてほしいわけでもありません。

 きっとあなたが忘れた約束を思い出してくれるだろうということを信じて、この手紙を書いて、送っています。この気持ちはきっとあなたには分からないと思います。

 写真を数枚同封しておきます。どうか、あなたが思い出してくれますように祈っています。

 そして私はその場所で、あの約束が叶えられることを待っています。』


 こんな手紙が書いてあった。

 この手紙の通り、僕は過去の約束について、思い掘り起こそうとしたが、全く思い出せていなかった。それにこの手紙の主にも全く心当たりが無かった。

「参ったな。全く思い出せない」

 同封されていた写真にも目を通す。

 写真は全部で五枚あった。そのどれもが古く、黄ばみがかった写真だった。

 森の写真。神社の写真。川の写真。真っ暗な写真。そして幼い頃の僕と誰かが映った写真。

 この五枚だった。

 僕と誰かが映った写真。その相手側の顔は白い折れ傷だろうか、見えなくなっている。ただ、この写真を撮った記憶が全くなかった。

 他の森の写真や神社の写真について、これには見覚えがあった。

「昔の、祖父母の家の方か?これは」

 朧げな、幼いころの記憶を頼りに、その頃のことを思い出してみる。

 祖父母の家は田舎の地主で、その地域では一番大きな土地を持っている家だった。確か周りの山も持っていると言っていた気がする。幼いころ、夏休みになると僕は祖父母の家に行って、近くの山や森に行って、虫取りや魚取りをしたりしていた。親戚たちは皆大人で、そうやって一人で遊んでいた。黒い写真はきっと、夜空を写したものだろう。

 さて、こんなことがわかったところで、僕には全く約束の相手もその内容も思い出せない。

「はぁ。どうしたものか」

 そんなことを言いながら、僕の意思は決まっていた。

 すぐに立ち上がって、リュックに最低限の荷物と金を入れて、身支度を整える。

 財布には数日困らない程度には金が入っている。着替えだけ数着詰める。

 僕は直ちにこの写真の場所、つまり、祖父母の家がある田舎へと向かうことにした。とは言っても、この時間から行ったのでは何処かで終電が来てしまう。出るならば明日の朝一の方がいいのだけれども、どこかで足止めをくらうとしても、直ちに出なくてはいけないと思った。

 これは一種の強迫的衝動があったのだろうと思う。それに自覚的でありながら、僕はそれに従った。

 僕はただ理由が欲しかった。

 この苦しい現状から、春の木漏れ日のような暖かな春から、僕は一刻も早く逃げなければいけなかった。それでも理由がなければ出来なかったのだから、僕はどこまでも弱い。

 そう。

 逃げるなら夏が良い。

 あの眩しいほどに、眩むほどに、思い焦がれる夏だ。

 靴は履いた。扉も開いた。

 あとはもう逃げるだけで良かったんだ。

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