第22話   其の三   利根川決戦   七   


 お熊はまるで勝手知ったる場所のごとく、稗田家の練り塀をぐるりと巡って裏門へと回ると、

「利之進どのにお目にかかりたいと存じますが」

 裏門の前で掃き掃除をしていた門番に気安く声を掛けた。


「これはお隈{傍点}さま。よう来られました」

 愛想良く応じる門番に向かって、

「この者は蟻通道場の師範代で風神静馬なる者です」

 お熊が厳かな口調で付け加えた。


「ふ、風神静馬さまでございますか」

 門番ははっとしたような顔になったかと思うと、

「若さまは、我が身より静馬さまのことをご心配なさっておられます。元気なお姿をお見せになれば、多少なりとも安堵されましょう」

 奥歯に物が挟まったような物言いをしながら、痛ましげな笑みを浮かべた。

 三日後に牢屋敷に戻れば二度と姿を見られぬと、憐れみ、同情している心の内が明らさまに見て取れた。


「これは静馬さまではありませぬか」

 一つの影が駆け寄ってきた。

 逆光で誰であるか分からない。警戒したお熊が刀の柄に手を掛けた。


「覚えておられますでしょうか? 源八でございます。ここでお目にかかるとは思いもよりませんでした」

 田安家の若党、相良源八だった。

「お隈さまもおかわりなく」

 相変わらずの武士らしからぬ所作で、ぺこぺこと腰を折った。

 源八はお熊とも顔見知りだったらしかった。


 再び静馬のほうに身体を向けた源八は、

「切り放ちのことは存じております。いかにしておられるかと案じておりましたが、思いの外お元気そうで何よりでございます。こたびの一件は何かの間違いと存じます。大納言さまをはじめ田安家の方々は、御用人さま、いえ、利之進さまの身の潔白を信じておられます。利之進さまも静馬さまもまことにお気の毒でなりませぬ」

 手を取らんばかりにしながら熱くまくし立てた。


 源八が、御用人さまと言いかけて利之進さまと言い換えたのは、利之進が職を解かれたゆえだ、と思えば胸がちくりと痛んだ。


(源八どのは情に厚い人だな)

 田安家で少し言葉を交えただけの間柄だったが、大袈裟ではなく、人を思いやる真心から出た言葉に思えた。


「ありがとうございます」

 深く頭を下げた。


「して源八どのは何故ここへ?」

 お熊が疑問を口にした。


「大納言さまも匡時さまも、利之進さまに深く同情をお寄せになっておられまする。今朝も匡時さまよりの文を預かって参りました」

「いつもありがたいことでございます」

 門番の老人は、深い皺が刻み込まれた目をしょぼしょぼさせた。


「ではお願いつかまつりまする」

 源八が胸元から書状を取り出し、門番が恭しく押し頂いた。


「わたくしどもは利之進どのに取り次いでいただくところでした。源八どのも利之進どのにお目にかかられてはいかがですか?」

 立ち去りかける源八を引き止めた。


「静馬さまは三日の内には牢に戻られる身ではありませぬか。少しでも刻が惜しいと存じます。利之進さまとの残り少ない逢瀬のお邪魔をしては申し訳ありませぬ。それに、わたくしのごとき軽輩がいちいちお目通り願うことははばかられますゆえ、これにて失礼つかまつります」

 源八はそそくさと立ち去っていった。


 門番が静馬らを裏門の木戸から屋敷内へと引き入れてくれた。土蔵の前を通って木戸を開けて庭に入った。


 早朝なので広大な庭には清々しい空気が漂っていた。広い泉水には島がしつらえられている。手前にある池に近づくと見事な鯉が何匹も泳ぎ寄ってきた。


「利之進どのを訪ねられるのは、初めてではなかったのですか」

 小声でお熊に尋ねた。


「静馬どのが町方に引っ立てられていった後、利之進さまから内密の文が参り、詳しい事情を知りました。で、すぐさま田安屋敷に出向きました」

 利之進からの文を届けた使いの者は、源八に相違なかった。


(利之進どのに対する心証はさらに悪くなったわけか)


 お熊のことである。

『刀剣の目利きを頼まれた利之進さまのせいです』と怒鳴り込んだに違いなかった。


 この先、静馬の嫌疑が晴れたとしても、お熊が利之進に縁づくなどありえなくなった。安堵と残念な気持ちが複雑に混じり合った。


「さ、さ、こちらでございますよ」

 回り廊下が巡らされた棟がいくつもつながっていた。

 田安屋敷ほどではないものの、広大な敷地内には人の気配がほとんど感じられず、誰とも顔を合わすことはなかった。

 門番は屋敷の奥の離れ座敷に案内した。


「坊ちゃま、お隈さまと静馬さまがお越しになりました」

 門番の声に、庭に面した障子ががらりと開けられ、利之進が大柄な姿を現した。


「おお、静馬どの!」

 感無量といった声音だった。


「利之進どのもお変わりなきご様子、安心いたしました」

 言外に『潔白を証するために腹を切られぬかと案じておりました』という気持ちを込めた。


「静馬どのはやつれたのではないか。牢屋敷は過酷な所と聞く」

「見掛けは優男ですが、骨組みは丈夫にできておりますゆえ、責め問いにも拷問にも屈するものではありませぬ」

 虚勢交じりに胸を張った。


 門番は匡時からの書状を利之進に手渡して立ち去った。


「たびたび書状を下さるお心持ちはありがたいのだが、書かれていることがほぼ同じでなのだ。いちいち丁重に返事を書かねばならぬゆえ難儀でな」

 利之進は書状を読みもせず懐にしまうと、せかすような仕草で静馬らを座敷に招き入れた。


「さて、御両名」

 座敷に座した静馬とお熊を前にして、利之進は白扇をぱちりと鳴らした。


「案ずるでない。もう少しで事は終わろうぞ」

 意外にも明るい表情を浮かべた。


「と、申されますと?」

 お熊が食いつかぬばかりに問いかけた。


「お隈どの、明日にでも事は動くぞ」

 利之進は自信ありげに頷いた。

 澄んだ瞳が柔らかな光を放ってお熊を見つめている。


「それはまたどのような?」

 身を乗り出したお熊は、利之進の側近くまでにじり寄った。

 あまりにも距離が近い。

 息がかかりそうである。


「大方の見当はついたぞ。宿院玄蕃が絡んでおる」

 利之進の確信に満ちた言葉に、

「玄蕃の企みとの証が見つかったのでしょうか」

「明日にでも何かが起こるという意味でしょうか」

 静馬とお熊は同時に問いを発した。


 利之進はじらすように、中小姓が持って来た茶をおうような手つきで一口、口にした。


「順に話すゆえ、じっくり聞いてくれ。先日、わが家の用人に、愛宕下日蔭町の刀剣商いを訪ねて探りを入れるよう命じたのだ。身元を偽って『当家の蔵にしまわれていた古刀を売りたい』と持ちかけるようにとな」

 上座に座した利之進は小声で語り始めた。


「で?」

「店主は、何も知らずにこの一件に加担させられておった。ある日、馴染み客が現れて、津田越前守助廣を売りに出して欲しいと頼んだそうだ。口止めされておったらしく、どうあっても客の名は明かさなかったがな」


「それでどうなったのです?」

 お熊が話の先を急かせた。


「わが稗田家の用人は百獣屋の息子だったのだが、用人に取り立てられるだけあって頭の切れる男でな。拙者の一命にも関わる探索だ。刀剣屋の周囲にも巧みに探りを入れてくれたのだ」

 利之進は得意げに鼻をうごめかせた。

 ちなみに百獣屋とは猪、鹿の肉を料理して売る店で、貧相な店が多かった。


「刀屋の隣に、これまたうらぶれた武具屋があったろうが。暇にしておった主が、刀屋と助廣を売りにきた客とのやり取りを聞いておったのだ。刀屋は『このような店で売れる品ではありません』と断ったが、安っぽい大刀を手挟んだ小禄の侍らしき男は、泣き落としで頼み込んだと申すのだ。で……」

 利之進は大きく頷きながら、静馬ではなくお熊と目を合わせた。


「武具屋の主が語った顔形から察するに、その侍は玄蕃に違いない。そこまでして拙者に助廣を買わせたことが、まさしくあやつめの企みであった証だ」

 利之進は鼻息も荒く断定した。


「利之進どのが御家老に糾弾された一件も、御家老の悪意や聞き違いではなく、利之進どのを陥れんという玄蕃の意図が働いていたわけですか」

 静馬は大きく頷いた。


「で、わたくしを襲った謎の浪人者は玄蕃だったのですね。そういえば、玄蕃は諸流派を渡り歩いていたと墨伝から聞いたことを思い出しました」

 正体が割れぬよう、タイ捨流とは別の流派の技を遣ったに違いなかった。


「食い詰め浪人を金で釣って利之進さまを襲わせ、辻斬りに仕立て上げる企みであったのに、静馬どのが刀を持ち帰ったため、筋書きの変更を余儀なくされたのでしょう」

 お熊がしたり顔で推測を整理した。


「とはいえ確証は無いですからね」

 静馬の言葉に、利之進とお熊が、

「そこなのだ」

「それが残念です」

 息を合わしたように似たような言葉を発した。


「そもそも玄蕃めに恨まれる覚えなど無い。つまり匡時さまのお側近くにおる拙者が邪魔なのではないかと思うのだ」

 利之進は手にした白扇で、左手の平をぽんぽんと叩いた。


「利之進どのは『近頃、匡時さまの身辺で不穏な動きがあるような』とおっしゃっていましたが、その一件に関わるのでしょうか」

 静馬は間の手を入れて話の先を促した。


「匡時さまは近頃、食あたりをされて大騒ぎになったことがあるのだ。同じ物を食された大納言さまはじめほかの方々は何事もなかった。(何者かが匡時さまの食膳に毒を盛ったが、その晩、たまたま箸が進まれなかったゆえ、からくも命拾いされたのではないか)と考えたのだが、いかんせん何ら怪しい点は見つからずに終わった。拙者の思い過ごしだと思うておったが、今こうして考えてみれば、何者かが匡時さま暗殺を企んだに相違ない」

 利之進は自信たっぷりに首肯した。


「大納言さまから匡時さまの身辺警護を仰せつかっていたにもかかわらず、今や果たせなくなった。敵の思う壺にはまってしもうたわけだ」


「御世嗣匡時さま暗殺の陰謀に邪魔な利之進さまを陥れようとの画策だったに相違ありませぬ」

 お熊が目を輝かせながら得意げにまとめた。

 目線は利之進に向いている。


「どこのどなたさまの企みと、口に出すはあまりにも恐れ多きことなれど、何としても阻止せねばならぬ」

 利之進は語気を強めた。

 お熊が憧れの眼差しで見つめている。


 匡時を亡き者にすれば、世嗣の座におさまるのは、文化十年(一八三〇年)に三歳で田安家の養子に入った家斉の実子、当年二十歳の斉荘だった。

 十一代将軍徳川家斉ないしは、斉荘の母であるお長の方、あるいはお長の方の父、曽根重辰あたりの企みではないかと思われたが、何の証もなかった。


「で、さきほどおっしゃった『もうすぐ事が終わる』とはどのような意ですか」

 お熊がさらににじり寄った。

 利之進との距離が縮まって、互いの膝が触れんばかりになった。


「匡時さまは明日、領地の視察を兼ねて成田山詣でをなさる。玄蕃にとって絶好の機会だ。その折にきっと何かが起こる」

 利之進は声を張った。


「しっ。利之進どの、お声が高すぎます」

 言いながら思わず庭に目を向けたが人の気配はなかった。


「決戦は明日なのですね。わくわくして参りました」

 張りきるお熊に、

「お熊どのを危険にさらせませぬ」

「お隈どのは控えていただく」

 静馬と利之進が同時にきっぱりと異を唱えた。

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