第21話 火事で解き放ち&お熊との再会
東西の総牢の囚人四百名ほどが切り放ちになった。
死罪の執行を待っている者、遠島の船が出る日を待っている者三十余名を除いた全員が、各々の帰るべき場所へと散っていった。
赤々とした炎が夜空を焦がす。
「まずは蟻通道場へ戻ろう」
火事の火の粉に追われながら、本所方向へと足を向けたときだった。
「静馬どの!」
炎に照らされた町屋を背景にたたずむ人影があった。
火事が迫って混乱を極める影絵のような人々の中で、お熊のりりしい立ち姿だけが極彩色に光を放っていた。
「お熊どの」
「静馬どの」
二人が同時に駆け寄る。
手が触れんばかりの所まで来た時だった。
「うぷっ」
お熊が奇妙な悲鳴を上げた。袖で鼻と口を覆って後じさる。
「も、申し訳ありませぬ」
慌てて半間ほど後方へ飛び退いた。
羞恥で顔から火が出る思いがした。
「大牢では二十日に一度くらいしか風呂に入れぬもので……」
もごもごと言い訳した。
江戸中から髪結床が呼ばれ、月代を剃って結髪してもらえる日は、毎年七月に一度きりだった。月に一度月剃りをしてもらう牢名主と一番役以外の囚人たちは、月代がむさくるしく伸び放題だった。
静馬はもともと総髪なので髪型は変わらなかったが、笞打ちの責め問いに遭ったばかりで、ほつれ毛がひどく見苦しいありさまだった。
「静馬どのが臭うのではなく、大勢の囚人たちの臭いが染み付いているせいでしょう」
お熊は思いのほか気遣いをみせてくれた。
「恐れ入ります」
羞恥ではなく、別の意味で頬が熱くなった。
「静馬、少し痩せたのではないか」
墨伝が天水桶の裏からひょいと姿を現した。
「墨伝先生も来てくださったのですね」
よく見れば、お熊も墨伝も寝起きのまま駆けつけてくれたらしく、着付けや髪がおかしいほど乱れていた。
「ともかく早くこの場から立ち去ろう。切り放たれた者が煙に巻かれたとあっては洒落にならぬ」
右近が、のっそりと姿を現した。
「右近どのまでおいでとは痛み入ります」
礼を述べる静馬に右近は、
「面目ねえ。玄蕃周辺の探索だがよ。道場が立ちいかなくなって夜逃げ同然に行方をくらましてから田安家の御抱人になるまで、何をしていたものやら判然としねえんだ。しかも辻斬りを目撃したってえお店者も、店を辞めて急に国に帰っちまったもんで当たれなかったんでえ」
頭をかきながら小声でささやいた。
三廻り同心の中で一番の腕利きである隠密廻りですら手掛かりをつかめないのだ。素人の静馬がたった三日で何ができるかと暗澹たる気持ちになった。
「ともかく本所まで戻りましょう。右近どのが仕立ててくださった舟をこの先の船宿に待たせてあるのです」
お熊がせかした。
「右近どのが舟を?」
小伝馬町と本所では距離が離れているから、本所で暮らす墨伝親子がこの火事を知るよしもないはずだった。
牢屋敷に火が及びそうだと知った右近が、いち早く舟を頼んで蟻通家に向かい、ここまで連れてきてくれたに相違なかった。
「三日目までに本所回向院に戻らねばなりませぬ。それまでに何としても冤罪をはらしたいと存じます。右近どのが頼りです。お力をお貸しください」
右近に向かって深く頭を垂れた。
水路を伝って大川に出て、やすやすと本所の蟻通家まで戻った。
責め問いで受けた笞や縄目の跡を見られたくなかった。
墨伝とお熊が屋敷内に入ってから、道場と屋敷との間にある井戸端に向かった。水をかぶり、念入りに身体を洗ってから愛用の浴衣に着替え、洗い髪を整えてくくり直す。
夏とはいえ夜は肌寒い。水は冷たく、身体が芯まで冷えた。
(染みついた牢内の臭いは消えぬな)
座敷に入ってからも、お熊はもちろん、墨伝や右近とも離れた位置に身を置くよう心した。
「静馬、しばし骨休めするがよいぞ」
墨伝がかいがいしく動き回って、茶碗に注いだ白湯を勧めてくれた。
(墨伝先生らしいことだ)
墨伝の慣れた仕草に口元が緩むのを感じた。
静馬の留守中も、お熊は相変わらず何もせず、墨伝が静馬の代わりを務めていたらしかった。
(何としてもこの場に今一度、立ち戻りたい)
出された白湯を飲み干すと、温かさが染み渡って心が暖まった。
「しばらく横になるがよい」
いつのまにか墨伝が、隣の六畳の部屋に布団を敷いてくれていた。
「かたじけのうございます。墨伝先生直々に布団まで敷いていただけるとは」
「何を申しておるのじゃ。布団くらいいくらでも敷いてつかわす。とはいえ、この布団を敷いたのはお熊じゃがな」
大層な秘密でも打ち明けるかのように愉快げにささやいた。
(気楽なものだ。まるで嫌疑が晴れて戻ってきたように浮かれた顔をしておられる)
うつむきながら苦笑した。
「ともかく眠るのじゃ、静馬」
武道に関する諸事を除けば、何から何まで軽い墨伝だが、こういう折には慈愛に満ちた父親のような顔を見せる。
「ではお言葉に甘えるといたします」
布団の上に横たわって己の体臭の染みた夜着をかぶった。
疲れが一気に襲ってきて瞼が重くなった。もう目を開けていられない。
(貴重な三日間だが、少しばかり心身を休ませたほうが良い智恵も浮かぶだろう)
床の間はあるものの座敷ともいえぬ座敷では、墨伝、お熊、そして右近が何か話している。
眠りの邪魔にならぬよう小声なため、静馬の耳には子守歌のごとく響いてきて、いつしか深い眠りに落ちていた。
どのくらい眠っていたろうか。気づけば、三尺ほど離れた位置に布団が敷かれ、お熊がすやすやと寝息を立てていた。
(同じ部屋で眠るのは初めてだ)
大いに驚いたが、今、寝かされているのは取次の間の板敷の部屋ではなく、日頃、お熊が寝ている六畳の間だと気がついた。
お熊の少し小振りでちんまりとした鼻先を、指で押してみたい衝動にかられたが、激怒されそうなので我慢することにした。
襖が開け放たれた隣の座敷では墨伝と右近が居眠りしていた。
夜通し酒を吞んでいたに違いなかった。
墨伝の大いびきが響いてきた。大酒吞みの墨伝は時折いびきを途切れさせる。しばらく息が止まった後に、
「ぐがっ」
苦しげな音を発して、またいびきをかき始める。
(いつものことだが、今はなおさら墨伝先生の身体が案じられる。ここを出て牢に戻る折には、くれぐれも酒を控えられるよう申し上げねばならぬな)
考えながら、はねのけられた夜着をお熊の身体にそっと掛け直すと、
「静馬どの、何をぐずぐずしておる。早く夕餉の仕度をしなさい」
お熊が寝言でむにゃむにゃとつぶやいた。
静馬は再び布団の上に横になって、雨漏りの跡が染みになった天井を見上げた。
(そういえば、先ほどから上向きに寝ておった。背中の痛みはいつの間にか感じなくなっておる。牢内での荒療治が功を奏したのか)
心の内にまたも暖かい灯が点った。
近所で飼われている雄鳥が時を告げている。どうやら夜明けらしかった。
静馬はお熊を起こさぬよう静かに身を起こした。
「どうしたのです。静馬どの」
お熊が布団の上で上半身を起こした。
寝乱れた胸元から白い肌がちらりときらめいた。
「これから利之進どのをお訪ねします」
「わたくしも参ります」
隣の座敷では墨伝と右近がまだ高いびきである。
手早く身じまいを調えた後、自分たちがかぶっていた夜着を墨伝らの上に気取られぬよう慎重な手つきで掛けた。
「ともかく参りましょう」
静馬とお熊は書き置きを残して、浜町にある稗田家の居屋敷へと向かった。
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