第23話   其の三   利根川決戦  八


 翌日の早朝、田安徳川家世嗣徳川匡時は領地の視察を兼ねて、成田山参詣へと赴いた。


 成田山新勝寺は長く荒廃していたが、歌舞伎役者市川団十郎が帰依して成田屋の屋号を名乗ってから参詣者が増えた。

 江戸庶民が二泊三日かけてのんびりと物見遊山を楽しむ地となっている。

 ともあれ匡時一行は遊行ではない。一泊のみで行きも帰りも利根川を高瀬船で行く行程だった。


 下総の村々や東北諸藩からの年貢米を中心に、木材、薪、醤油や酒などの特産物を運ぶには、銚子から利根川を遡って関宿まで行き、関宿から江戸川に入って掘割水路の新川、小名木川を経て江戸に入る。

 匡時一行二十三名は、この順路を逆にたどっていった。

 宿院玄蕃のほかに、若党相良源八の姿も見える。ほかは利之進にとって見知らぬ者たちばかりだった。

 白い帆を張って航行する利根川の高瀬船は、約六百から千二百俵もの米俵を積める大型の川船で、内部には寝起きできるセイジと呼ばれる部屋があって四人前後で船を操る。匡時一行が仕立てた高瀬船は、全長九七・二尺(約二九・一六メートル)、幅一三尺(約三・九メートル)ある大型だった。


 静馬と利之進も高瀬船を仕立てたが、セイジが無い房丁高瀬船と呼ばれる小型の船で、船頭も二人しかいなかった。

 船の雇い入れや雑多な手配は、右近のおかげで大いに無理が利いた。

 荷物を積み込んだように見せかけ、頬かぶりして櫂でこぐ中乗りの体で乗船している。大小は菰で包んで手元に置いていた。


「剣の腕を買われている宿院玄蕃は、船の最後尾で周囲を警戒するお役目というわけですね」

「あの位置では、いきなり単身で襲いかかる恐れはあるまい」

 船中での供の配置を確認し、ひとまず愁眉を開いた。


 静馬らの房丁高瀬船はつかず離れず匡時一行を追った。

 江戸川を航行する間は流れを遡ることになる。瀬が早い場所になると、船頭だけが船に残り、その他の船乗りは岸に上がって船を引いた。


 関宿から成田近くまでは利根川を下ることになるので徒歩よりよほど速かった。高瀬船は追い風と流れに任せながら滑るように下っていく。

 千石船や高瀬船が利根川の水面をゆったりと往来している。火照った顔に川風が涼を運んでくれる。


(明日、木戸が閉まるまでに、本所回向院へ戻れるだろうか)

 匡時一行の行程が順調に運ぶか否かが気掛かりだった。


 刻限までに戻らねば死罪は免れない。しかも親類縁者にまで類が及ぶ。

 日頃、縁の薄い父母兄弟にまで迷惑がかかる。

 握り締めた手の中に汗がにじんだ。


「今から気を張っておっては保たぬぞ。変事は緊張が解けて疲れが出る復路やもしれぬからな」

 利之進はみずからに言い聞かせるように言った。

 利之進の緊張も痛いほど伝わってくる。


「玄蕃は単独では襲いますまい。味方の襲撃による混乱の中で、牙をむくのではありますまいか」


 しばらくすると風は向かい風に変わり、利根川を下る船は帆を畳んだ。

 川上に向かって多数の白い帆が遡上してくる優美な姿が目に入った。


「風待ちをしていた船が、一斉に帆を上げて航行し始めましたね」

 順風に白帆を、はちきれんばかりに膨らませて遡上する姿は壮観だった。


「江戸でも高瀬船を目にするが、こうして帆を張ってのびのびと水面を走る姿は格別だな」

 利之進も重責を忘れて光景に見とれた。

 両岸の緑を背に白帆の輝きが眩しい。


「まこと一幅の画になる光景です」

「はは、残念ながら拙者に絵心は無いぞ」

 利之進は快活に笑った。

 利根川を遡上する白帆の群れがゆったりと去っていく。利根川の水はあくまで澄み切って、まるで水晶を溶かしたようだった。


「このような危難が降りかかったことで、期せずしてお熊どのと親しゅうなれたのだから皮肉なものよ」

 利之進は苦笑した。

 苦笑だが、利之進の場合、あくまでも明るさが底にあり、静馬が時折浮かべる苦笑とはまるで異なるものだった。


(このように爽やかな苦笑もあるのか。よく覚えておいて笑顔の研鑽に生かさねばな)

 いつものように考えて、ふと気がついた。


(しばらく鏡を手にしての笑顔の研鑽もしていなかったな。ついでにいえば……)

 空井戸の底に向かってお熊や墨伝への憤懣を叫んだ日が、まるで遠い昔のごとく感じられた。

 子供じみた憂さ晴らしをしていた頃は、この上なく幸せだったのだ。


 日常の幸せは失って初めて気づくものだが、まだ失ったわけではない。

 利之進と己をこの状況から救い出し、それぞれの居場所へと戻るのだ。


(何としても御世嗣匡時さまをお守りして、玄蕃の企みを暴いてみせる)

 筵でくるまれた大刀の柄をなでた。

 大刀は、お上に取り上げられたままの愛刀備前長船兼光ではなく、利之進から借り受けた無銘ながら武骨な一刀だった。


 匡時一行は、下総国相馬郡に位置する領地での視察を終えて代官屋敷に宿泊した。

 静馬と利之進は近くにある朽ち果てた辻堂の軒先で、交替で仮眠を取りながら変事に備えたが、何事もなく朝を迎えた。


 翌日の早朝、まだ暗いうちから代官屋敷を出た匡時一向は、成田山新勝寺の参詣を終えた。

 陸路を進んで安食から再び利根川へ出ると、利根川を遡って関宿を目指した。

 上りではあるが、川下からの追い風を帆一杯に受けているので速度は存外速かった。


 緊張の糸が張り詰めたままだったため、そろそろ疲労を感じる頃だった。


「利根川東遷はさぞや大工事だったことでしょう。もともと江戸湾に注いでいた利根川を、銚子から外海へと流れるようにしたわけですからね」

 関宿には水関所が設けられており、船頭、商人、旅人、多くの物資が行き交う。


「もう少し上れば関宿ですね。昨日は関宿のにぎわいを見て驚きました」

 あれこれ話しかけるのだが、利之進は眠いのか曖昧な返答しか寄越さない。


 目を転じると、荷を高々と積み上げた一艘の高瀬船が目を引いた。

 下端を短く切り取った帆を張っている。荷の嵩に比して喫水が浅く、空き樽などの軽い荷を積んでいると思われた。


(江戸に向かうのに空荷とは妙だ)

 違和を感じたそのときだった。


 船が匡時一行の高瀬船に急速に接近していくではないか。


「利之進どの、怪しい船が!」

 居眠りをしていた利之進を揺さぶった。


「何っ!」

 利之進はかっと目を見開き、

「早よう、こげ!」

 船頭たちに匡時の乗る高瀬船に近づくよう命じた。


 反対側からも俗に土船、鬼丸と呼ばれる中艜船が匡時の船に近づいていく。船足が異様に速い。


「急げ!」

 利之進が船頭らを叱咤する。


 正体不明の高瀬船が匡時の船に突進する。


「いかん、ぶつかる!」

 静馬は思わず声を上げた。


 匡時の船が衝突を避けようと中州のほうへ舵を切った。

 怪しい高瀬船が匡時を乗せた船の船首に体当たりした。

 腹に響く鈍い音がした。土船も船尾へぶつかる。


 ずずず。

 嫌な音がした。


 衝突の弾みで、匡時の船の船首が中州の浅瀬に乗り上げてしまった。

 土船と怪しい高瀬船も浅瀬に乗り上げた。

 積み荷を覆っていた菰の下から男たちが姿を現す。次々と匡時の船に飛び移る。


 男たちは覆面あり、頬かぶりありで面体を隠していた。まちまちの風体から見て浪人や破落戸、無宿者といった不逞の輩の寄せ集めらしかった。


 匡時の供の者たちに動揺が走った。

 玄蕃をのぞいた二十一人の供の内、源八のように、町民出の若党や中間といった武家奉公人が数多く混じっている。

 正真正銘の武士であっても、確かな腕を持った者となればごく少数だろう。


「匡時さま、危のうございます」

 玄蕃が匡時の近くに走り寄る叫び声が聞こえた。


(匡時さまが危ない)

 中州に急ぐ。

 一時の間がもどかしい。


「いかん。玄蕃を匡時さまに近づけてはならぬ」

 利之進が悲鳴のような上ずった声で叫んだ。


 高瀬船の上と中州で、敵味方が乱戦を繰り広げている。

 戦いの場がどんどん位置を変えていく。


「早く! 早く!」

 船頭をせかした。


 ずずん。

 静馬の船も中州に近い浅瀬に乗り上げた。


 水しぶきを上げながら駆け寄る。


「匡時さま――! 利之進です」

 利之進が声を張り上げて匡時の姿を探す。


 敵が静馬と利之進にも襲いかかってくる。


 暗殺のために雇われた輩だろう。

 武士と無頼が入り交じっているものの、腕に自信がある命知らずばかりだった。

 敵の数は定かでなかったが、味方の数をはるかに凌駕していた。


 中州は雑木が生えて夏草も茂っている。背の高い、芒に似た荻や葦が視角を遮って、思いのほか見通しが利かなかった。 


 玄蕃は腕が立つ。

 しかも匡時は味方と信じているからひとたまりもないだろう。


「もしや匡時さまはすでに玄蕃の手に掛かってご落命などということはないでしょうか」

 背の高い草をかき分けながら危惧を口にした。


「それなら仇討ちをするまでのこと」

 利之進が低い声で答えた。


「てえええっ」

 敵が鋭い気合いとともに利之進に斬りかかってきた。

 利之進が大刀で打ち払う。敵は大柄な利之進の膂力に吹っ飛ばされた。


「雑魚どもの相手などしておれぬ。匡時さまを探さねば」

「わたくしは右手から参ります。利之進どのは左側をお願いいたします」

 二手に分かれて戦いながら匡時の姿を探した。


「匡時さま、いずこにおられます――! 利之進が参上つかまつりました」

 怒声と気合い声と悲鳴が交錯する決戦場に、利之進の悲壮な声が響く。


(新手が来た)

 利根川の水面を風のように下ってくる一艘の小舟があった。

 距離が空いているため、小舟に乗る者の姿はまだ豆粒のようで定かでなかった。


 敵と戦いながら灌木の茂みに分け入ったとき、

「利之進さま、匡時さまはこちらです」

 玄蕃の声が響いてきた。


「何っ!」

 玄蕃の声がした方向へ駆けた。


 灌木の濃い茂みを背にした匡時と、匡時をかばって敵と対峙する玄蕃の巨体があった。


 匡時は無事だった。だが玄蕃がいつ牙をむくかしれない。一刻を争う。

 二人目掛けて走った。


「匡時さま! 玄蕃は賊の一味です。お気をつけください!」

 別の方角から利之進の叫び声が響いてきた。


 近くで若党の源八が奮戦していた。

 大刀をやたらめったら振り回すが、浪人者に斬り立てられて危なっかしいありさまだった。すぐに討ち死にしてしまいそうだったが、助ける余裕が無かった。


 間近で見た二十五歳の匡時は、品のある顔立ちの若殿ぶりだったが、文武でいえば、文のほうに長けていそうな華奢さだった。

 大刀を手にしているものの腰が引けている。心得として剣を学んでいるだけで、実際に命のやり取りをしたことはなさそうだった。


 敵に向けられた玄蕃の切っ先が、いつ匡時に向けられるかしれない。

 間合いまであと一息の距離に近づいた。利之進も少し遅れて駆けつける。


(間に合うか)

 もどかしい。


「玄蕃! 覚悟!」

 静馬が玄蕃との間合いに到ったときだった。

「うりゃああ」

 玄蕃に浪人者が迫った。


 別の方向からも長脇差の破落戸が近づく。


 浪人に向かって中段の構えをとった玄蕃は、破落戸に気づかぬふうである。


(玄蕃が危ない。いや、これは仲間内の狂言なのか)

 足を止めて玄蕃の動きに釘付けになった。


 玄蕃がいきなり右前方に跳んだ。

 跳びながら上段になった。

 着地する。左膝を立てた左袈裟が破落戸を襲った。

 破落戸は右肩口から左脇腹を断ち割られた。鮮やかな血飛沫が砂州に飛び散った。

 玄蕃が左右の足を踏み換える。右足を踏み出す。

 上段に構えて浪人者に正面斬りを見舞った。

 刀身に全体重が乗った斬り下ろしが決まる。

 正面を割られた浪人が声もなくのけぞる。身体をくねらせて草むらにくずおれた。虚空に紅い霧が流れた。

 タイ捨流の『十手』だった。


 正面の敵に向かうと見せかけて右前方の敵を襲って先手を打つ。一連の動きで、残った敵をすぐさま仕留める古流剣術の技だった。


「げ、玄蕃どの」

「玄蕃……」

 静馬と利之進は同時に声を発していた。


 驚いたものの、

(拙者らの姿が見えたため、味方を斬って取り繕ったやもしれぬ)

 まだ油断はできなかった。


「匡時はあそこだ」

「おおっ」

「やっちまえ」

 さらなる敵が殺到してくる。乱戦になった。


(ともかく玄蕃を匡時さまから離さねば)

 玄蕃を押しやって、利之進と静馬が匡時の側近くを守る陣形を取った。


「よくもこれだけ腕の立つ輩を大勢、集めたものです」

「よほどの金子が動いたのであろう」

 敵は執拗に攻めてくる。


 破落戸の風体でも剣の心得のある者もいる。

 実戦で磨いた喧嘩殺法は侮れない。


「さきほど、新手と思われる舟の影が見えました」

「何人いようと成敗するのみだ」

 匡時の側近く守りながら声を掛け合った。


「げぇ!」

 視界の外で敵が倒れる音がした。

 音のほうに目をやった。


「姫、参上!」

 覆面をしているが、袴の股立ちをきりりととった姿はまさしくお熊だった。


「お、おく……いや姫! どうして来たのです」

 静馬はお熊と背中を合わせた。


「父上に気づかれぬよう屋敷を出るのに難儀しました。本当は昨晩からご一緒したかったのですが。ともかく間に合って良かったです」

 覆面の下で光を放つお熊の目は細まって鋭かった。


「お止めしたに、何ゆえ参られた」

 利之進がお熊をきっと睨んで叱りつけた。


(お熊どのにも困ったものだ。墨伝先生もご存知なら、必ずやこの場に駆けつけておられたろうに)

 お熊は自らこの一戦に加わりたいばかりに、右近には伝えながら、墨伝には内密にしたのだろう。


(またもお熊どのの身を案じながらの戦いになるとはな)

 今さらしかたがない。


「せいっ」

 武士が正面から手槍を突き入れてきた。

「むん」

 手槍を真っ二つにした。


 退く武士に肉迫する。

 狼狽えながら刀の柄にやった武士の右手首を切断した。

 武士は鮮血の噴き出す手首を左手でつかんで、よろめきながら戦いの場を離脱した。


 お熊の登場に利之進が奮い立つ。

 鬼のように八面六臂の働きをみせる。静馬も負けじと腕を振るった。



 半刻も経ったろうか。中州は死体と動けなくなった負傷者ばかりになった。

 供で無事な者は玄蕃だけとなった。


(最後の最後に牙をむくのではないか)

 静馬と利之進は玄蕃を匡時に近づけぬよう気を配った。


 ふと見れば、若党の源八も運良く生き残っていた。

(何とも驚くべき強運の持ち主だな)

 肩で息をしながら浅瀬にへたり込んでいる源八を見た。


「利之進、ご苦労であった」

 匡時が若者らしい溌剌とした声で礼の言葉を述べた。


「必ずや参られると思うておりましたぞ。利之進さま、いえ御用人さま」

 玄蕃が無表情な顔で近づいてきた。


「静馬どのもありがとう存じます」

 無表情だった能面のような顔が崩れて、かすかな笑みが浮かんだ。だが、引きつったような笑みだった。


(玄蕃が怪しいとお伝えしても、この状況ではとても信じていただけまい)

 緊張を解かず玄蕃の動きに油断なく目を凝らした。


 源八はようやく気を取り直したらしい。浅瀬からよろよろと立ち上がる姿が、静馬の視界の隅に入った。


「さてどのようにして帰ったものでしょうか、匡時さま。逃げ散った船頭どもが戻ってくればよいのですが」

 小腰を屈めながら、匡時の側近くにひざまずいた。


「源八、そちもよう無事であったな」

 匡時がねぎらいの言葉を投げかけたときだった。


 源八が抜く手も見せず、

「しえええっ!」

 一動作で匡時に斬りかかった。


「いかん」

「あっ!」


 間に合わない。

 源八の一撃が匡時の身体を割り裂く。


 誰もが思った瞬間。

 刃を身に受けたのは宿院玄蕃だった。

 身を投げ出すようにして匡時との間に飛び込んだのだった。


 源八がなおも匤時に襲いかかる。

 草地に膝をつきながらも玄蕃が匤時をかばう。


 一呼吸後れで静馬と利之進が駆け寄った。

 利之進が匤時の守りに入る。


「こやつめ!」

 抜刀した静馬は源八と対峙した。

 背後で玄蕃が地面にどっとくずおれる気配がした。


「現八が獅子身中の虫とはぬかった」

 利之進が歯をむき出して源八を睨んだ。


「ふふ、まんまと欺かれるとは間抜けぞろいだな」

 背筋を伸ばしてすっくと立った現八はまるで別人だった。

 立ち居振る舞いが紛れもなく武士、いや剣客だった。


「静馬どの!」

 お熊が加勢せんとする。

 利之進も源八を挟み撃ちする形で陣取った。


「利之進どの、お熊どの、こやつはわたくしが斬ります。お手出しは無用に願います」

 常になくきっぱりと言い切った。


 静馬の気迫に、お熊と利之進は静かに間合いを離れた。


「参る」

 じりじり間合いを詰めた。


 突如、源八が逆袈裟にきた。

 下から大きく振り回すような動きだった。

 後方に跳んでかわす。刃風が静馬を圧した。


「この太刀筋は……」

 刀の運用に見覚えがあった。


「過日、お米蔵の脇で拙者を襲った曲者はそこもとだったのだな」

 神道無念流の遣い手の正体は源八だった。


 大柄な体躯も玄蕃と相似していた。今まで玄蕃ほど大柄だと思わなかったのは、源八がいつも猫背で肩をすぼめていたせいだった。


「いかにも」

 源八は猛攻を中断し、間合いを脱した。


「おぬしが辻斬りをするところを見たとお上に訴え出た者も、わしの差し金よ。賭場に出入りして負けが込み、金に困っていたお店者を金で釣ったのだ。口封じしてやろうとしたが、店の金を使い込んだことが露見して、国元に逃げ帰っておった。ふふ。命冥加というべきか」

 乾いた笑い声を上げた。


「中間どもが騒いだ折も、口喧嘩の仲裁と見せかけて騒動になるよう焚きつけたのか。拙者が不利となるよう御家老に嘘の報告をしたのだな」

 利之進が横合いから叫んだ。


「うぬもとんだ間抜けよの。罠を仕掛けてくれとばかりに『近々、玄蕃の伝手で津田越前守助廣が手に入る』と自慢しおるから、奇貨とばかりに、はめてやったまでじゃ。罪をなすりつけようと、玄蕃めを最後まで生かしておいたことが、思わぬ災いとなってしもうたがな」

 源八の乱れた鬢を一陣の風が揺らして通り過ぎる。


「拙者の信を仇で返しおったのか。許せぬ」

 利之進の歯噛みが静馬の耳にも伝わってくる。


 静馬、利之進、お熊という三剣客を相手に斬り抜けるすべは無い。

 源八は死を覚悟している。破れかぶれだろう。手負いの獣は恐ろしい。


(心して勝負に望まねばならねばな)

 あらためて心を引き締めた静馬は息を整えた。


「いざ!」

「参る!」

 静馬、源八の双方が声を掛け合う。

 再び戦端が開かれた。


 互いに余事を捨て、剣客としての勝負を望んでいた。

 礼を尽くすのみである。


(拙者にとってこの戦いは大きな意味を持つ。悔い無きよう全力を尽くさねばならぬ)

 全身が闘志の塊となる。


 二人の間を涼風が水のごとく流れた。

 源八にはまったく隙がなかった。


「や、や」

 刀身だけが肥大する。

 源八の姿が消える。背中を冷たい汗が流れた。


(敵に吞まれてはいかん)

 逸る心を懸命に静めた。

(隙は必ずある。まったく隙の無い構えなど無い)

 たった三寸でも横に動くだけで敵は隙だらけとなるはずだった。


 両者は動かない。

 いや足先だけが僅かに動いている。互いに間合いを探る。


 間合いに入る。

 身体が無心に動いた。


「せやっ!」

 静馬が正面を狙う。


 源八がついっと身を沈めた。静馬の懐に入ってきた。刀身を左手で支える。


(いかん)

 一瞬の判断で伸ばした腕を引いた。

 刀身と刀身がぶつかって火花が飛び散った。


(危なかった)

 そのまま斬り込んでいれば、両腕が下からぶつりと受け斬られていた。


 源八が猛然と打ち込んでくる。

 かわす間が無い。すり上げ、はね上げた。

 すれ違う。一撃を放ったがかわされた。


「とうっ!」

 早い剛剣が迫ってくる。

 この一撃に源八は賭けていると感じた。

 本能からくる恐怖が静馬に襲いかかってきた。


(何としても勝つ。相討ちでいい)

 身体の重みすべてを込めた。源八の身体の三寸ほど向こうを目掛けて突いた。

 的より先の空{くう}を狙えば、強い力を保ったまま的に当てることができる。


(やった)

 確かな手応えが腕に伝わった。

 大刀は源八の鳩尾を鍔元まで深々と貫いていた。


 ほぼ同時に源八の刃が静馬の脇腹をかすめていた。


 源八が薄く笑った。

 驚愕と得心の入り交じった笑みだった。


 お互い、剣客として死力を尽くしたのだ。

 悔いは無い。

 静馬も笑みを返した。

 どのような笑顔か自分では分からない。だが、無心の笑みだと了知できた。


 源八の身体に埋まり込んだ刀身を引き抜く。

 返り血を避けて飛び退った。

 源八の巨体がゆっくりと傾く。

 地響きを立てて倒れ、砂地にめり込んだ。

 びくびくと身体を痙攣させた後、動きを止めた。


(終わった)

 静かに残心をとった。


 見守っていたお熊と利之進の口から、同時に安堵の吐息が漏れた。


「玄蕃、死ぬでない!」

 華奢な身体の匡時が、大柄な玄蕃を抱き起こし、懸命に呼び掛ける声が中洲に響いた。


「お止めくだされ。お召し物が血で汚れまする」

 玄蕃は弱々しい声音でつぶやいた。


「何を申しておる。玄蕃のお陰で余は無事であったのだ。これからも余の側で警護してくれねばならぬ。死ぬことなど決してまかりならぬぞ!」

 匡時は意識を手放しそうになる玄蕃の巨体を揺すった。


「玄蕃どのをこちらに」

 静馬と利之進は、乾いた草地のうえに玄蕃の身体を横たえた。

 袖を引きちぎって裂き、無駄と知りつつ傷口にあてがった。布はたちまち血に染まっていく。


「利之進さま」

 玄蕃は傍らに膝をついた利之進に目を向けた。


「あの助廣、大切になさってくだされ。零落の身にてはばかられますゆえ、拙者の詳しき出自は申し上げられませぬが、遠い昔、祖父が勲功によって主君より賜ったという家宝でござった。拙者には荷が重いとつねづね思うておりました。そこへ現れたのが利之進さまでした。清廉潔白、まさにわが助廣を帯するにふさわしいお方と考えました」

 ここまで一息に語った後、大きく息を吐いた。


「拙者にも見栄がありました。家宝の刀を手放すと知られたくありませなんだ。そこで思いついた苦肉の策でござった」

 馴染みの刀屋に一芝居してくれるよう頼み、利之進には『掘り出し物の助廣を見かけましたが拙者には手が出ませぬ』と偽って刀屋を紹介したのだという。

 破格の安値であったことも頷けた。


「友と呼んでくだされた利之進さまにぜひお使いいただきたく、あのように手の込んだ真似をいたしました。相すみませぬ」

 玄蕃は苦しい息の下でわびた。


「そうであったか。拙者こそ、短い縁であっても、ひとたび友と呼んだおぬしを疑うなど、武士にあるまじき行いであった。許せ」

 利之進は玄蕃の手を取ってしっかと握った。


「あろうことか、助廣を策略の道具に使われ、ご迷惑をお掛け申しました」

「いや、源八めに漏らした拙者がうかつだったのだ」

 玄蕃と利之進がわびを言い合う。


「わたくしも玄蕃どのを誤解しておりました。申し訳ありませぬ」

 静馬も心をこめてわびた。


「・・・・・・」

 玄蕃は無表情な顔に微苦笑を浮かべた。

 初めて出会った折に玄蕃の笑みを見たいと思った。まさに今その笑みを見たのだった。


(さきほど見た引きつったような笑みも真実の笑みだったのだな。浅慮による疑いのために、見る目が曇っておったとは、我ながら情けない)

 己の未熟さを恥じた。


「玄蕃どの!」

「玄蕃!」

 むなしい叫びは利根川の澄み切った流れの上を漂って消えた。


 玄蕃の笑みはそのまま静かに固まった。

 無表情だった顔に笑みを貼り付けたまま玄蕃は息絶えていた。


「玄蕃どのを疑った己が情けない」

 利之進は玄蕃の亡骸を前にうなだれた。


「利之進、そなたが玄蕃を疑うておったとはな」

 匡時は酸いような苦が笑いを浮かべた。


「玄蕃は、当家剣術指南役木村佐膳が身辺の警護にと推挙してくれた者じゃ。そう申せば、おおかたの察しはつこう」

 学者然とした若い匡時の双眸には光る物があった。


 西脇新陰流の遣い手である木村佐膳是庸は、御庭番に剣術の指南をしている。

 玄蕃は公儀の隠密だったのではないかと推測された。


(玄蕃どのが、もともと御庭番家や隠密の家系につながる者であったのか、はたまたゆえあって隠密となったのか、すべては黙して語らず逝かれてしまったわけか)

 隠密は使命を果たすのみ。

 名を残すことはない。

 玄蕃が何者であったか謎のまま終わるだろうと思えば、割り切れぬ思いだった。

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