第18話   其の三  利根川決戦  三


 翌日、夜明け前から飯を炊いて墨伝とお熊の朝餉の膳を整え、町木戸が開くと同時に田安家まで急いだ。

 門番に告げると、利之進の代わりに、またも若党の相良源八が現れた。早朝にもかかわらず、今朝の源八は稽古着姿だった。


「せっかくお越しいただきましたのに申し訳ございませぬ。御用人さまは、只今武芸場にて我々にご教授くだされておる最中でございます。今朝は大納言さまもご臨席ゆえ取り次ぎはできかねます」

 大柄な身体を小さくしながら、気の毒そうに答えた。


「急ぎの用なのですが、何とかならぬものでしょうか」

 静馬は源八に泣きついた。静馬の悲壮な顔を見て源八はあからさまに同情の色を浮かべた。


「そうでございますね。文ならばそれがしが機を見てお渡しできますが」

 源八の厚意に甘えるべく、矢立を取り出して助廣が奪われた旨を簡略に書き記した。


「確かに承りました」

 源八は誠実そうな笑みで一礼した。



 早々に蟻通道場へ戻った静馬は、朝餉を食べ終わって稽古場の拭き掃除をしていたお熊に、

「朝早くからどこへ参っておったのです。昨晩も遅くまで戻らず、何を聞いても『利之進どのに誘われて吞みに行った』の一点張りで、いつもの静馬どのとはまるで違うではありませぬか。正直に申しなさい」

 執拗に責められたが、賊に襲われた一件についてはしっかと口をつぐんで、お熊の罵詈雑言を聞き流した。


 昼前になって源八が利之進の文を届けてくれた。


「ようやく外に出る用ができましたゆえ、お届けに参りました」

 息を切らせている。

 文を手渡した後、顔の汗を薄汚れた手拭いでごしごし拭くと、慌ただしく帰っていった。


「かたじけない」

 開く手ももどかしく、急いで文を広げた。


 悪筆だが豪快な文字で、助廣を失って残念に相違ないが、貴公が無事で良かった。相談したいゆえ、今夜、田安屋敷まで来て欲しい旨が記されていた。


(事情を話せば、お熊どのは首を突っ込もうとされるに相違ない。何か口実を作って出掛けねばならぬな)

 あれこれ思い悩みながら、昼餉の仕度のためにまな板で茄子の糠味噌漬けを切っていたときだった。


「風神静馬なる者がおろう。御用があるゆえ差し出すように」

 町奉行所の当番方与力豊田与左衛門と平同心三名が、捕り方を引き連れて乗り込んできた。

 与力は陣笠をかぶって火事羽織に野袴の出で立ちで、鉢巻きをした同心は鎖帷子を着込んで裾を端折っており、いずれも捕物出役の際の厳重な身支度をしていた。

 応対に出た静馬の背筋を冷たいものが駆け上った。


「わたくしが静馬です。ご用の向きをお伺いいたします」

 板の間に座して膝の上に拳を置いたまま静かに答えた。


「町方が何用です」

 お熊も続いて戸口に出てきた。

 同心の一人が横柄な仕草で静馬を指差しながら、

「其の方は、稗田利之進どのなる武家に頼まれたと勘違いし、津田越前守助廣なる古刀の切れ味を試すため辻斬りを働いたであろう」

 錆朱色の房紐がついた十手をちらつかせながら決めつけた。


「素直に縛につけ」

 もう一人の同心が甲高い声音で叫んだ。


「無礼であろう!」

 お熊が一喝した。


「静馬どのが辻斬りなどと、何を証拠に申すのです」

 当人よりお熊が激怒していた。同心との間に仁王立ちになって、今にもつかみかからんばかりの剣幕である。


「じ、邪魔立てすると、女といえど容赦せぬぞ」

 同心はお熊の強い眼差しに怯みながらも、十手をお熊の目の前に突き出した。


 貧乏道場へ出向いて、弟子一人を召し捕るには物々しい陣容だった。

 同心たちの後方には、与力の豊田与左衛門が口を真一文字に引き結んで立っている。その後ろには与力、同心それぞれの従者、岡っ引き、下っ引きらが目をぎらつかせていた。


(墨伝先生は知る人ぞ知る剣客だ。捕り方の物々しさは、拙者をかばって墨伝先生まで刃向かってくる事態を恐れたゆえか)

 間違っても墨伝やお熊を巻き込んではならない。


「お熊どの、わたくしは辻斬りなどしておりませぬ。すぐに疑いは晴れましょうからこの場はどうかこらえてください」

 捕り方相手に立ち回りを演じそうなお熊を制して、おとなしく縛についた。


「この騒ぎはいかがいたしたのじゃ」

 裏庭で盆栽の手入れをしていた墨伝がようやく姿を現した。このような騒ぎにも悠揚迫らぬ態度が墨伝らしかった。


「事情をお聞かせ願えぬかな」

 墨伝は穏やかに問いかけたが、貧乏道場の主と侮る同心は、

「邪魔立ていたすと、そこもとらも召し捕るまでだ」

 数をかさに着てけんもほろろに言い放った。


「それはまた無体な。わが蟻通家の者に縄を掛けられて、当主として黙ってはおれませぬ」

 貫禄の無い甲高い声は相変わらずだったが目力が半端でない。

 静かながらも鬼気迫る墨伝の気迫に、同心は目を泳がせた。


「ええい、何をぐずぐずいたしておる。早くせぬか」

 後方で指図していた与力の豊田与左衛門が怒声を発した。


「と、ともかく言いたきことがあれば、茅場町の大番屋まで来い」

 同心は墨伝から目をそらしながら、すぐさま踵を返した。


「さあ、来い」

 捕吏たちが縄打たれた静馬の肩を押した。


「子細は利之進どのが御存知です。ともかく信じて待っていてください」

 手荒に小突かれながら、墨伝親子にこれだけ伝えるのが精一杯である。


「静馬どの!」

 お熊の悲痛な叫びと、墨伝のなだめる声を後方に聞きながら、狭い道を引っ立てられて表の通りに出た。


 幸いお八重の姿は見えなかった。紅屋の主は焼き物の小皿に紅を塗りつけていた手を止めて、好奇に満ちた眼差しで静馬の憐れな姿を凝視した。

 いつの間にやら野次馬が集まっていた。遠巻きにしながら、わいわい嘲り、指を差す。


(今まで卑屈なほどまっとうに生きてきて、このような目に遭うとは情けない)


 先日の引き廻しの光景が目に浮かんだ。

 お裁きを受ける者の中には冤罪の者もいるに違いない。

 静馬とて身の潔白を証せねば、明日は我が身だった。

「違う。わたくしは冤罪です」

 叫び出したい気持ちをぐっと抑えた。




「ここへ直れ」

 尻っ端折りした番屋の下働きによって板の間から引き出され、大番屋の庭に敷かれた筵の上に引き据えられた。

 同心を従えた与力豊田与左衛門が尊大な目で畳の間から見下ろしている。ふだんは決して微笑みを絶やさぬ静馬も、頬のこわばりを感じた。


「くまなく家捜しさせたところ、裏庭の藪の中より、かの津田越前守助廣が見つかったぞ。入念に拭き取られておったが、血糊の跡が残っておった」

 思いがけぬ与左衛門の言葉に、静馬は深い谷底に突き落とされた。


「これは罠です。何者かが利之進どのと拙者を陥れようと謀ったのです」

 経緯を有り体に語ったが、与左衛門は嘲るようにふんと鼻を鳴らしただけだった。


「稗田利之進どのは稗田家に戻って謹慎いたしておる。早々に腹を切ることになろう」

 名家であればあるほど家の存続が第一である。

 潔く罪を認めて自裁すれば、家禄を減らされるにせよ、温情によって取り潰しは免れる。

 自裁は早いほうが望ましい。利之進が罪を認めずとも、早々に詰め腹を切らされるに違いなかった。


(いや、あの利之進どのなら、潔白を証するために進んで腹を切るだろう)

 先日、さらりと言っていた言葉が現実となるのだ。


(拙者の失態で、利之進どのまで死に到らしめるとは何たる不覚だ)

 暗澹たる気持ちに陥った。


「確かな目撃者もおるのだぞ」

 与左衛門は憎々しげな顔つきで膝を乗り出した。


「いったいどこの誰が見たとおっしゃるのですか」

「誰とは申せぬが確かに見たと申しておる。素性のきちんとしたお店者だとだけ申しておこう」

 もったいぶって答えながら、与左衛門は小者に目配せした。


 後ろ手に縛られた両腕の間に下方から棒を差し込まれ、

「ほら、ほりゃ」

 ぐいぐいねじ上げられる。

「つつ」

 腕のつけ根がめきめきと音を立てた。


「大番屋では拷問は行わぬ習いだ。じゃが糾問は差し支えない」

 座敷の内に鎮座した与左衛門はうそぶいた。

 後ろに控えた同心たちも、憎しみのこもった眼差しで見下ろしている。この場にいる誰もが静馬を辻斬りだと決めつけていた。


「平清でのやりとりを大勢が目撃しておる。利之進どのの冗談を真に受けたうぬの、恐ろしげな顔にはぞっとしたと口をそろえておった」

 右端に控えていた大男の同心が口を挟んだ。


「え?」

 思わず聞き返した。


(確かに怖そうな笑い方をしてみせたが、あの場の誰もが冗談と承知しておったはずだ)

 笑顔の研鑽によって修得した不気味な笑顔がよほど真に迫っていたのだろう。


 町方から静馬が辻斬りを働いたと聞かされた芸者や幇間は、凶悪な笑みを思い起こして、

(そういえばあの兵法者は、最初から怖そうだった)

 記憶を塗り替えてしまったに違いなかった。


「利之進どのは酒席での戯れ言できっかけを作っただけだ。さほどの罪とは言えぬ。早々に腹を切ればお家の名に傷はつかぬであろうな」

 与左衛門は、人一人の生き死にを、こともなげに語った。


 小者が静馬の腕に絡めていた棒を引き抜き、

「この辻斬りめ」

 静馬の横っ腹を蹴り飛ばした。


「ふてえ若僧め」

 もう一人の小者と一緒になって、筵の上に転がった静馬の身体を棒で小突き、所構わず蹴り始めた。

 この程度のいたぶりを苦痛に感じるはずもない。静馬は心の内で余所事を考え始めた。


(どうもいかん)

 もともと無表情で何を考えているか分からぬと言われる顔立ちだった。

 無愛想と見られることが心外で、子供の頃から笑顔の修練、研鑽に励んだ。その結果、周りには『良くできた穏やかな人物』とか『怒ったことが無い優しい人柄』で通るようになった。

 笑顔は世渡りの武器だった。誰もおらぬ場所で素顔に戻れば鋭い目つきに見えるだろうが、他人の前で笑顔の仮面を外すことは決してなかった。

 目上の者に従順で、他者と悶着を起こすこともない。笑顔の〝面〟こそが本来の静馬である。真剣な眼差しは、きつい目に見えて心証が悪いと気づいた。

 小者たちの折檻が途絶えた一瞬を選んで、努めて穏やかな、笑み直前の笑みともいえぬ表情を作ってみせた。

「与左衛門さまはお役目におかれましても経験豊富でございましょうから、人を見る目も余人とは異なりましょう。生半可なごまかしは利かぬと存じます」

「うむ、まさにその通り」

 与左衛門は当然とばかりに鼻をうごめかせた。


「わたくしが試し斬りのための辻斬りをするような人物か否か、嘘をついているか否か、この目を見ればお分かりになるのではありませぬか」

 笑みとは紙一重の、澄んだ涼しい眼差しを心掛けながら、与左衛門の目をじっと見つめた。

 対する与左衛門の目は、酒毒のためかどろりと濁っている。


「むむむ」

 与左衛門は戸惑ったように目を泳がせた。


 冤罪が明らかになった場合、与力とてお役御免になる恐れがあるから、慎重な取り調べをすべきである。この場で糾問することに迷いが生じた与左衛門は、

「まあよい。罪状は明らか。証拠の品もあるゆえ、これより入牢証文を作成いたす」

 あっさりこの場に幕を引いた。

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