第17話  其の三   利根川決戦  二


「ここだ、ここだ。玄蕃が申しておった店はここに相違ない」


 愛宕下日蔭町にある刀屋は、片側に武家屋敷、もう片側に町屋が並ぶ通りに面していて、雑草が生い茂る空き地と小体な武具屋に挟まれた貧相な店だった。


「このような店に津田越前守助廣が出回っているとは驚きですね」

 雑然とした店の内外を見渡した。

 とても流行っているとは思えぬ薄汚い店で、大刀や脇差、小道具の古物が並べられていたが、どれも安物ばかりだった。


「これでございます。まさに助廣に間違いありません」

 店主は店の奥から、古びた刀袋に包まれた一振りの大刀を持ち出してきた。


「なるほど、確かに良い輝きじゃ」

 店先に上がった利之進は、出された茶を飲む間も惜しんで、大刀を念入りに検め始めた。


「さすがに違います。武骨さが素晴らしい」

 静馬も手にとって矯めつ眇めつしながら、古刀をじっくり見分した。


「おお、やはり静馬どのの目にも名刀と映るのか」

「墨伝は刀剣の目利きに長けております。目利きを頼まれる機会も多いです。門前の小僧が習いもせぬ経を読めるようになるのと同じで、わたくしも多少は分かるつもりです」


「泰平の世が長く続いておるせいで、新刀の刀匠には、見た目ばかりにこだわるけしからぬ者が多い。何が名刀かと、拙者は納得いかぬのだ」

 刃の模様――刃文の美に重きを置く刀匠が多く、武門を第一にせぬ武士の間では名刀としてもてはやされていた。


「刃文などがいかに優れていても、武用では無意味ですからね」

「静馬どのとは気が合うな。刃味、すなわち実用に優れているか否かが刀の本意であり、最優先すべき点だ」

 利之進は嬉々として刀剣談義を始めた。


「わたくしは目利きは目利きでも、墨伝のように武家目利きと呼ばれるようになりたいと存じます」

 墨伝は剣客なので、実戦に置ける価値を重んじる鑑定を旨としていた。


「真贋まではしかと分かりませぬが、刃味から察するに武用に立つことは確かかと存じます」

「静馬どのの申す通りだ」

 利之進は我が意を得たりとばかりににっこり頷くと、上気した顔に扇でぱたぱたと風を送った。


「十両でいかがでございましょうか」

 店主が上目遣いで利之進を見た。安い刀で三両ほどである。名のある刀が十両なら安い買い物だった。


「確かに掘り出し物だな。よし、買おう」

「お得意さまの宿院玄蕃さまからのご紹介でございます。お代金はお屋敷のほうにお伺いいたしますゆえ、このままお持ち帰りくださいませ」

 小体な店におりがちな小狡い顔の主人は、前歯が一本抜けた顔に卑しげな笑みを浮かべながらもみ手をした。


「では、内金として三両取らそうぞ」

 上機嫌な利之進は即決して刀屋を後にした。


「ではこれにてわたくしは失礼いたします。良き物を拝見させていただきました」

 店を出たところで別れようとしたが、

「少し付き合わぬか。久方ぶりに深川の《平清{ひらせい}》へ出向こうと思うておるのじゃ」

 利之進はまだ静馬を放さぬつもりらしかった。


「深川の平清ですか」

「平清は料理屋番付においても行司の位にあって別格扱いされておる。店構えも器もなかなかで料理が美味いゆえ、時折利用しておるのだ。同行せぬか」


 名高い八百膳と覇を争う高級な料亭で、文化年間に平野屋清兵衛が開いた当初から料理の評判が高かった。静馬などこの先一生無縁だろう。平清の名に心が大きく動いた。

 

 富ヶ岡八幡宮にほど近い深川土橋にあり、三十三間堂を巡る運河に面して建っている。蟻通の家にも近い。おまけに日はまだ高かった。


「せっかくのお誘いですので喜んでお受けいたします」

 利之進に誘われるままに深川の平清に向かうことになった。


 田安家御門外に位置する元飯田町から舟を仕立てての道行きだけに、あっという間に平清に到着した。


「ようこそお越しくだされました。しばらくぶりでございますな。さ、さ、どうぞ」

 品の良い女将が女中たちを引き連れて現れ、優雅に腰を折った。昼日中で客は少ないようだった。


 平清自慢の風呂は坪庭に設けられ、贅を尽くした造りだった。

 湯上がりの浴衣に着替えて座敷に座すと、女中が大きな丸盆に載せられた料理を運んで来て、たちまち豪華な酒肴が並べられた。

 目にも美しい料理は具材さえ分からぬ物が多かった。

 辰巳芸者が五人も呼ばれて音曲でもてなし、酌をしてくれる。


(芸者をこのような間近で見るのは初めてだな)

 深川の辰巳芸者は羽織芸者とも呼ばれていた。

 櫛や笄も一、二本差すに止め、薄化粧で羽織を着こなし、粋を重んじ、男っぽい気っ風が売りだった。

 この場にいる芸者たちも、蔦奴、豆吉、音吉などといった男名を名乗っていた。


 利之進は芸者をからかうなど、いかにも遊び慣れた様子だった。

 平清の名物料理である、鯛を塩味で煮込んだ潮汁に舌鼓を打ち、粋な芸者に勧められて呑めぬ酒を付き合わされた。


(これはいかん)

 気づけば日が傾きかけているではないか。

 蟻通家に戻って夕餉の仕度に取り掛からねばならない。

 だが宴は終わりそうもなかった。


「そろそろ、帰りませぬと……」

 場を白けさせぬかと気に掛けながら、おずおずと切り出した。


「気にせずともよいぞ。門番には融通が利くゆえ、田安屋敷へは町木戸が閉まる夜四ツまでに帰ればよい。ゆっくりしても構わぬぞ」

 利之進は静馬の事情など斟酌せず、己の都合だけを告げた。


 静馬が調えた夕餉を、墨伝とお熊がひな鳥のように大きな口を開けて待っているとは言えなかった。

 お熊が料理をまったくしないと明かすこともはばかられた。


(少しばかり夕餉が遅くなってもよいではないか)

 呑めぬ酒を呑まされた静馬は、明らかに気が大きくなっていた。


「ところで、墨伝どのは刀の目利きもしておられると、さきほど申しておったな。この刀を持ち帰って真贋を鑑定してもらいたい。どうもあの店主は信用し難い。拙者に紹介してくれた玄蕃も、あの店主にだまされておるやもしれぬ。もしも偽物であれば、明日にでも突き返すのみじゃ」

 刀剣を収集しているうちに苦い経験を重ねてきたのだろう。

 疑うことを知らぬ利之進にしては慎重な言葉が出た。


「承知いたしました。それがよろしかろうと存じます」

 静馬は二つ返事で首肯した。

 目利きをすれば謝礼をくれるから、常に逼迫している蟻通家の家計が潤うことになる。


(お熊にほの字ゆえ、それなりの金子を包んで寄越すのではないか)

 胸算用しながら、口元が思わず緩んでいる己に気づき、

(貧すれば鈍す。いや、卑しくなって情けないことだ)

 口中に苦みを感じた。


「試し斬りしても構わぬぞ」

 盃を手にした利之進が声を立てて笑った。


「あれまあ、そりゃあ豪儀なこった。辻斬りでもなさるのですかい」

 豆吉が男っぽい口調で冗談を言った。


「よい、よい。構わぬぞ。辻斬りも苦しゅうない。拙者が許すぞ。あははは」

 したたかに酔いがまわった利之進は、大声で笑い飛ばした。


「では、さっそく帰りに辻斬りをいたしますか。うひひひひ」

 静馬も調子を合わせて、とびきり残忍そうな笑みを作ってみせた。


「ひえええ。あ~、怖い」

「やめとくれよ。夢に出て来ちまうじゃありませんか」

 芸者たちが大袈裟に袂で顔を覆った。


「くわばら、くわばらでげす」

 幇間が剽軽な仕草で大仰に脅えてみせる。

一座はどっと笑いに包まれた。




 日が落ちてもう半刻が経っていた。

(遅くなってしもうた)

 舟で帰る利之進を見送って帰路についた途端、後悔が急に湧き上がってきた。


 断りもなく夕刻まで帰宅しなかったことなどなかった。

 お熊がどのように怒り狂っているかと思えば心がひどくせいた。


 空は晴れて月が煌々とあたりを照らし、平清から借りた提灯も要らない夜だった。

 古刀を紐で縛って背中に背負いながら、人気の無い御米蔵横の堀沿いの道を急いだ。


 右側には武家屋敷が続いているが、火影がちらと垣間見えるのみで、屋敷内から人の気配は感じられなかった。


「!」

 行く手に殺気を感じた静馬は、その場でぴたりと歩を止めた。


 辻から男が一人ふらりと現れた。

 みすぼらしい浪人風体の男はすでに抜刀していた。


「タアァーッ!」

 問答無用で斬りかかってきた。


(過日、利之進どのを襲った一味か?)

 降り懸かる火の粉は振り払わねばならない。即座に抜刀した。

 体さばきでかわす。

 静馬の剣閃が袴を穿いた浪人の太股をなで斬った。


「うわわわわ」

 浪人が堀の土手を転がり落ちる。

 石垣の割れ目から自生した柳の木に引っ掛かって、かろうじて落水を免れたものの、すぐさま這い上がってくる気配はなかった。


「早く手当をすれば死には到るまい」

 何者であるか聞き出したいと考えたが……。


「むっ!」

 後方から迫る鋭い殺気を感じた。


「仲間がいたのか」

 殺気の主を睨んだ。

 新たに現れた人物も浪人者らしかった。

 巨躯の持ち主だった。着流しの裾を端折って大刀のみ帯し、覆面をしている。


 覆面の浪人は無言で斬りかかってきた。

 かなりの遣い手だった。

 静馬は苦戦を強いられた。

 同時に、剣を交える喜びが五体を満たした。


 しばらく激しい攻防が続いた後、両者は膠着した。

 どちらからともなく、ほんのわずか間合いから身を離した。

 敵は正対せずに真横を向いた。

 左手を刀身に添えて軽く挟むように保っている。


「えいっ!」

 突如敵が跳躍した。刀を頭上に掲げる。刀身をつかんでいた左手を放した。

「やーっ!」

 矢が射られるように右片手で斬りつけてきた。

 いつのまにか右手が鍔元から柄頭へと移され、柄いっぱいに握り換えられていた。


「あっ」

 刃の圧が肉迫してきた。

 遠間にいると油断していた静馬の胸元を敵の刃がかすめた。

 相手に間合いを誤らせる、意表をついた片手技だった。


(神道無念流の立居合いの技だ)

 敵の意表をつく実戦的な技だと瞬時に気づいた。


 助廣を縛っていた紐が切断されていた。


「あっ」

 身をかわした動きにつられて、刀袋に納められた古刀が宙を飛んだ。

 二間ほど離れた地面に落下する。


「せやっ」

 敵が低い気合い声とともに、右小手を斬らんと打ってくる。

 かろうじて右の鎬で擦り上げた。

 高腰に面を斬りにくる。


 敵の猛攻は途絶えない。

 いつしか月は厚い雲に隠れ、一気に闇が深くなった。


 斬り結ぶうちに、助廣から徐々に遠ざかった。


 視界に何かが動いた。

(まだほかに仲間がいたのか)

 武家屋敷の板塀の陰から、黒い影が躍り出た。


「あ!」

 破落戸の風体をした男が助廣の納められた刀袋を拾いあげた。


「ま、待て!」

 頬かぶりした男は機敏な動きで逃げ去っていく。


 浪人が八相の構えから踏み込んだ。袈裟斬りを放ってくる。

 右足を引いて脇にかわした。

 上段へ構えなおす間にも逆袈裟に斬り上げてくる。息つく間も与えぬ猛攻が襲ってきた。


 破落戸は助廣を抱えたまま南方向へ消え去ろうとする。


「ふっ」

 浪人が間合いからすっと身を引いた。

 破落戸と反対の方向へ歩み去る。

 嘲るようにゆったりとした足取りだった。大柄な背中が闇の中に消えていく。


 古刀を奪った破落戸の跡を追うしかなかった。

「この盗人め! 待たぬか! 助廣を返せ!」

 豆粒ほどになった男の影を懸命に追った。


 男は亀沢町の角を右に折れた。静馬も右に曲がる。


「し、しまった」

 戸が閉められた町家から灯の色が漏れているが、亀沢町の通りに人影は絶えていた。

 どこかの路地に逃げ込んだらしい。破落戸の姿はふっつりと消えていた。


(そうだ。さきほど手傷を負わせた浪人に当たってみよう。あの怪我ではまだ逃げておるまい)

 月明かりを頼りにさきほどの通りに取って返した。


 道の彼方に黒い塊があった。浪人者が堀の石垣を這い上がってきたらしかった。

 ぴくりとも動かない。さらに近づいた。


「こ、これは……」

 浪人は袈裟懸けに斬られて事切れていた。

 中空をつかむように右腕を突き出したまま動きを止めている。夜目にも見開いた眼が無念さを物語っていた。


(何か手掛かりは無いものか)

 浪人の懐を探っていたとき、

「何事だ」

 人の気配が近づいてきた。

 関播磨守居屋敷に付属した辻番所の番人だった。


 諸大名が置いた辻番所には足軽や同心が詰めているが、数家の旗本が費用を出し合っている組合辻番なので、番人は六十も過ぎた老人であったりする。

 提灯を突き出して、恐る恐るといったふうにこちらを透かし見ている。


「辻斬りだ、辻斬りでございますぞ」

 しわがれた声で騒ぎ始めた。

 関家居屋敷の内から立ち騒ぐ気配がし始めた。

 辻番だけで対応できぬ折は、旗本家から家来が派出されることになっている。


(まずいことになった)

 刀に血糊が付いているから説明がつかない。


(やむを得ぬ)

 静馬はその場から慌てて逃げ去った。

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