第16話 其の三 利根川決戦 一
蟻通熊と一緒にいればそれだけで楽しいが、あら探しばかりされて頭ごなしにガミガミ叱られるから気が休まらなかった。
(稗田利之進どののお母御はどうしておられるだろう)
お熊のお守りにうんだ風神静馬は、田安屋敷に稗田利之進を訪ねた。
古びた箒を手にした若党の相良源八が、門番とともに門内をせっせと掃き清めていた。
「これはこれは、風神静馬さま。先日は失礼いたしました。御用人さまから『大事な客人ゆえ、くれぐれも粗相の無きよう』とお聞きしております。暫時、お待ちくださいませ」
源八は愛想良く応じ、利之進に取り次ぐべく門内に姿を消した。
「静馬どの、よう来られた」
満面に笑みを浮かべた利之進が現れ、すぐさま自室に迎え入れてくれた。
独り身の男だけあって部屋は散らかっていた。
(お熊どのや墨伝先生と同じだな)
片付けてやりたい気持ちが湧いてきて、尻のあたりがむずむずしてきた。
部屋の前に広がっている庭には、弓術の練習に使う巻藁が、木組みの上に載せられていた。射場での稽古用ではなく、近距離で射るための的だった。
(戦で鉄砲が使われ始めて久しい。実戦で弓の出番などもう無いが)
精神統一や礼法、作法のために励んでいるのだろう。
巻藁はまだ真新しいにもかかわらず、矢を射かける断面の痛みが激しかった。剣だけでなく弓にも精を出す生真面目さが大いに感じられて、口元が緩むのを感じた。
対座して座るなり、
「母上は数日前から気鬱の病で伏せっておられる。拙者はこちらに住もうておるゆえ、容易に実家に戻れぬから難儀だ」
利之進は白扇で胸元に風を送りながら愚痴をこぼした。
「さようですか。それはいけませぬな」
万事、素知らぬふりで調子を合わせた。
「どうやら、高貴な姫君との縁組みが頓挫したらしい。まあ、これで拙者は一安心というところだがな」
利之進は茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。
「ご母堂は落胆なされたでしょうが、しばらくすれば気も落ち着かれましょう」
利之進を安堵させるよう、ゆったりした笑みを向けた。
「母上が回復されしだい、なるべく早く、お隈どののことを話すといたそう。まずは父上、母上にお隈どのを気に入ってもらわねばならぬ」
利之進の口元が緩んでいる。
(これは難儀なことになった。あのお熊のことだからな)
利之進に恥をかかせるような言動に出る恐れがあった。
お熊のぶしつけさに慣れていない利之進を傷つけたくなかった。
「何事においても焦りは禁物です。先日の今では、熊がいかなる女子であろうとご母堂はお気に召さぬのではありますまいか」
「いやいや、心配には及ばぬ。母上は女ゆえ浅はかさが否めぬが、父上なら分かってくださろう。父上は拙者に全幅の信頼を寄せてくださっておる。きっと応諾くださろう。父上が承知くだされば母上も否とは申せぬ」
利之進の言葉を静馬は承伏しかねた。
利之進の母牧惠の底意地が悪そうな顔が思い浮かんだ。
「そのように単純には参りますまいと存じます」
「何と?」
「奥向きはご母堂が差配される別世界です。姑に嫌われた嫁にとって針の筵でありましょう。利之進どのがいかに熊の味方をしていただくにせよ、限りがございます」
「おい、おい、静馬どの、母上はそのような女子ではない。父上の御意向にはあくまで従順で素直な女性なのだ。父上が決められた嫁を可愛がらぬはずがない」
利之進はあくまで男である。
しかも真っ直ぐに育ったお坊ちゃまなのだ。
人の心の内側に巣くう悪意に気づかずに生きてきた幸せ者だった。
「ご母堂のお心はどうあれ、お気持ちを勝手に忖度した奥女中が讒言したり、周囲にあらぬ噂を振りまいたりして、利之進どのの寵愛を損なうよう画策するやもしれませぬ。ほんの些細な誤解から利之進どのの気持ちが薄れていくこともあるでしょう。そうなればまさに熊の立場は四面楚歌となりましょう」
言い出すとどうにも止まらなくなった。
「静馬どのの取り越し苦労には驚いた。奥におる女たちは皆従順でおっとりとしておる。出自も確かで心根の優しい者たちばかりだぞ。そのようなことには決してならぬ」
利之進は呆れ顔になった。
(あれこれ人の心の裏まで考えてしまう拙者の心根が卑しいのだろうか)
思い直して急に恥ずかしくなった。
「言い過ぎまして申し訳ありませぬ。女の争いは切った張ったでないゆえ、いつまでも決着がつかず長引くものです。これまでに女の争いを嫌というほど見て参りましたので、ついつい取り越し苦労をしてしまいました」
素直に謝りながら、少年の頃の苦い出来事を思いだした。
八歳から蟻通の本家で雑用をこなしてきた静馬は、嫁姑間の陰湿な揉め事や、奥女中や端女同士の粘っこい納豆のごとき争い事を見て育った。
あまつさえ何度も巻き込まれて難儀した。
江戸に出る五年ほど前、十三歳の折だった。蟻通家のご新造が大事にしていた高価な櫛が無くなって、新参の女中おさきが盗んだとの噂が立った。
おさきは静馬と同い年の十三歳で、今にして思えば、紅屋のお八重に似た、早熟でよく気の利く器量良しだった。
女好きな墨伝はむろんのこと、屋敷に出入りする男たちまでがこぞってちやほやしたため、女たちの間では妬み嫉みが渦巻いていた。 ことに古参の女中お豊に目の敵にされて、あからさまにいびられていた。
噂のみで証が無かったため、当主孫十郎はまったく取り合わなかったが、噂は一向に収まらず、おさきは誰もいない場所で泣く毎日だった。
突然井戸端に呼び出された静馬は、おさきに、
「もう首をくくっちまおうかと思ってるの」
涙混じりに打ち明けられた。
生まれ育った八王子から離れたことが無いのに、
《おさきはもともと手癖の悪い女で、神田鍜冶町の下駄屋に下働きとして奉公に出ていたものの、盗みを見咎められて暇を出され、遠い親戚を頼って八王子まで流れてきた》という、まことしやかな嘘まで喧伝されているという。
頼りにされた静馬は有頂天になった。
屋敷内の誰かが櫛を隠して噂を流し、おさきに罪を着せようとしていると憤慨した。
お熊の守りをする傍ら、屋敷中探した。
特にお豊の周辺はくまなく探し回った。
櫛はお豊の部屋の床下に隠されていた。
得意満面の静馬は、孫十郎や墨伝に報告しただけでなく、ほかの使用人たちにも言いふらした。
おさきに盗みの疑いがかかるよう仕組んだと非難されたお豊は屋敷から姿を消した。
数日経って、近在の山林で首をくくったお豊の死体が見つかった。
周囲に荷物が散乱していたため『出奔したものの思い余って自死したのだろう、良い気味だ』と皆が口をそろえて言った。
だが……。
その一月ほど後、蟻通家に出入りする小間物商いの若い男良太によっておさきが殺害された。
逃げ回るおさきを良太が裁ち物鋏で滅多突きにするという無残さだった。
良太は首をくくっておさきの後を追ったが、読みにくい文字ながら切々と書き記した遺書を残していた。
書き置きには意外な真相が記されていた。
すべてはいじめられたお豊への意趣返しのためにおさきが仕組んだ、手の込んだ自作自演だった。
おさきに惚れていた良太に噂を流させた上、静馬が容易に見つけられるよう、お豊の部屋の床下の目立つ場所に櫛を隠させた。
夫婦になるとの約束を信じた良太は、おさきに請われるままにお豊を自死と見せかけて殺害した。
だが、おさきは一向に約束を果たさない。
思い余った良太はとうとう無理心中を企てたという顛末だった。
女のほうが早熟である。
静馬は淡い思いを見透かされ、片棒を担がされた。
お豊には悪いことをしたと、静馬はいまだに気に病んでいた。
「ご母堂のお気持ちも大切にしていただかねばなりませぬ。毎日、気に入らぬ嫁と顔を合わせねばならないのはお気の毒です」
くどくど語る言葉を、利之進はもう聞いていないふうで、
「それはそうと、先日、大変な目に遭うたぞ」
田安徳川家御殿で起こった騒動について話し始めた。
屋敷内で中間たちの揉め事があって利之進が止めに入った。
宿院玄蕃なる御抱人が『御用人さまは、喧嘩を引き起こしたにもかかわらず、騒ぎが大きくなると怖くなって逃げ去られました』と家老に告げたため、家老が《士道、不覚悟なり》と問題視した。
幸い、利之進を信頼する大納言(田安斉匡) の一言でお咎めなしとなったという。
「それはまたとんだ災難でした」
「大事に至らずに済んで助かった。お役目を解かれるような事態に立ち至っておれば……。今の母上なら、拙者の先行きを案じて自刃なさったやもしれぬ」
利之進はまんざら冗談ではない口調で苦笑した。
「宿院玄蕃どのが絡んでの騒動ですか」
あること無いことを讒言する玄蕃の、陰湿な笑い顔を脳裏に思い描いた。
(心象の良くない男だったが、とんでもない男だったのだな)
急に腹立たしくなったが、
「おお、玄蕃を知っておったのか」
意外にも利之進はあっけらかんとした表情である。
「墨伝と旧知の仲だそうです。先日、この御殿の門前でお目にかかりました」
簡潔に事実だけを述べると、利之進はふふふと笑った。
「玄蕃めは平身低頭して謝って来おった。よくよく聞けば玄蕃のせいではなかったのだ」
利之進の災難話にはオチがあった。
中間たちが庭で口喧嘩しているところへ利之進が通りかかり、問答無用で叱りつけた。
気の荒い中間たちはさらに激高して、何だかんだと言い募り、いっこうに埒が明かない。
そこへ温厚で気が利く、若党の源八が駆けつけたため、後を任せて立ち去った。
直後に、中間同士、木刀を手にして激しく打ち合う事態に到った。
仲裁せんとした源八も巻き添えを食ってしたたかに殴られる大騒動となった。
廻り廊下を歩いていた玄蕃が立ち止まって見ていたところへ家老が通りかかり、事のしだいを聞かれたため、目にした事のみ返答した。
日頃から利之進とそりが合わない家老は、わざと曲解して事を荒立てたという経緯だった。
「玄蕃は召し抱えられてから日が浅く、ほとんど口を利いたことがなかったが、話してみれば古武士を彷彿させる漢でな。武術、刀剣について話が弾んで、以来、懇意にしておるのだ」
「そうでしたか。雨降って地固まるといったところでしょうか」
「歳は三十六で妻子はおらぬと申しておったな。歳より老けて見えるところは、やはり浪々の身で苦労したゆえであろうか。ともかくなかなか良くできた人物なのだ」
利之進は玄蕃という知己を得て大いに喜んでいた。
(利之進どのは感激屋らしい。利之進どのの関心は拙者から玄蕃どのへ気移りしていくのではないか。ちと寂しいものの、かえってありがたくもあるか)
所詮、住む世界が違っていると心の内で苦笑しながら、
「それは良きことですね」と追従笑いをした。
墨伝の古い友で、利之進の評価も高いとなると、
(無愛想だが実のある人物なのだろう。愛想が良くて感じが良い人物が実は曲者だったりするからな)
玄蕃がひどく好もしい人物に思えてきた。
利之進は飲み干した茶碗を茶托に置くと庭に目をやった。
蝉の声が聞こえてくる。耳をつんざくほどだった鳴き声は、夏も終わりに近づいて心なしか弱々しかった。
「御家老に士道不覚悟とまで言われては、武士としての体面が保てぬ。あの折は『いっそ腹を切って潔白を明らかにしてやろう』と思うたくらいだ」
樅の巨木に目を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「体面を重んじる方たちには、わたくしのような気楽な身分とはまた違った生き死にがあるのは分かります。しかし簡単に腹を切って済ませることは、かえって陥れた者の思うつぼだと思うのですが」
「ははは、拙者とてそこまで馬鹿ではないぞ」
利之進は笑い飛ばしたが、曇りの無い目は笑っていなかった。
「ともかく丸く収まって良かったです」
静馬は本心から笑みを送った。
四季折々の風情が楽しめるよう巧みに樹木が配されていた。広い庭のどこからか、鹿威しの音が響いてきた。
「そうそう、すっかり忘れておったが……」
利之進は手にした扇子で膝の上をぽんと叩いた。
「今日は非番ゆえ、今から出掛けるつもりだったのだ。ちょうど良い。静馬どのにも同道願えまいか」
「構いませぬが、さてどのような……」
「拙者は道楽で刀剣を集めておる。玄蕃から、ある刀屋に掘り出し物の古刀が出ていると聞いてな。売れてしまわぬうちに一時も早く購いたいのじゃ」
利之進は大張り切りの体で、すっくと立ち上がった。
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